29.横臥
―――……失敗したぁ……。やっぱり、船に乗るんじゃなかったぁ……。
レイリーリャは漁船の船縁に頭を乗せ、甲板の上でもたれかかっている。
額に皺が寄り、目は虚ろで、口が力無く開かれたままの顔は生気が無く白い。まるで岸に打ち上げられてから時間が経ち、体色が抜け落ちてしまった魚の死骸のようである。
―――……どっかの勇者気取りで、イキがって船に乗ってしまった……。わたしはほんとぉぉぉに身の程知らずの大バカだ…………。
……あの時のわたしをはっ倒―――
レイリーリャの喉に突然胸から何かが込み上がってきた。苦しい。気持ち悪い。
口許を手で抑える。喉から込み上がってきたぬめったものが口の中に充満し始める。鼻孔が生臭く、口内が苦く酸っぱく感じる。
慌てて船縁から海面に顔を出す。喉から込み上げ続ける物が口内で止まらず、口の中から溢れそうになり堪え切れない。
「おえぇぇぇぇ」
レイリーリャは口から吐いた。
胃液が混ざって褐色の液体のような嘔吐物が、レイリーリャの口から海面に滝のように流れ落ちる。嘔吐物が海面に叩きつけられ飛沫を上げると海上を漂う。
自ら気付かぬうちに、目許から涙が流れ落ちていた。
「おうおうおう、ねーちゃん。まぁたゲロ吐いたなぁ。船酔いかッ。」
船尾にある操舵場から昂った楽しげな声が掛かる。
レイリーリャは目許を拭い握っていたハンカチ代わりの布きれで口許を抑えながら、声のする船尾の方に目を向ける。口の中に嘔吐物の生臭さと酸っぱさと苦さの混じった物が纏わり付く。鼻の奥が刺さるように痛い。
白タオルを頭に被り口の周りに泥棒髭が伸びている人族の男が、舵輪を握り口許に笑みを浮かべながらレイリーリャをからかう。
そして片手で舵輪を握りながら、船縁の下を覗き込む。
漁船は波に抗い前に進んでいく。
海面に浮かんだレイリ-リャの嘔吐物は波に揺らぎ、船尾へと流れていく。
レイリーリャは辛そうに顔の中央に皺を寄せ、船縁に頬を付けて寄り掛かる。
自らの嘔吐物が波に流されていくのが目に入る。
視線の先にくすんだ白い灯台が離れて小さく見えているのに気付き、吐き気で気持ち悪く感じつつも、結構進んだなぁと何か感心してしまう。
「あぁの朱色のジンニン、もう魚が突っついてるぜ。メぇシ、なかなか良いモン食っとるなぁ。寄せ餌代わりになっとるし、網でも打つかぁ?」
泥棒髭はレイリーリャに顔を向いて弄ぶようにからかう。
「ちゃぁんとご主人サマに、可愛がって貰っとるようだなぁ。」
それが耳に入った瞬間、レイリーリャは思わず下を向いてしまう。顔と首許が熱くなっているが気付かない。苛立ちと辛さと嫌気、それに恥ずかしさが混じったものも感じる。
「…………すけべ…………。
……こんな ふねが まものに おそわれて たいへんな ときに、 なに ヘンなことを いってるん、 ですか……。」
恥ずかしさで泥棒髭に顔を向けられなかった。絞り出すように口から出した言葉は弱々しかった。
「……わたし、 こんなに きもちわるくて つらい のに…………。」
泥棒髭はレイリーリャの態度を見て、他人事のように笑う。口許に笑いを浮かべ面白く感じたようだった。
「海にウンコしたら、けっこー魚寄って来て突っつくんだぜ。ここの魚獲って食えば元気が戻り精が付くから、一発ぶっ放して獲ってやろうか?」
泥棒髭は舵輪から右手を一瞬だけ放し、両手で腰のベルトを掴みズボンを脱ぐ振りをした。
泥棒髭の声は昂り益々調子に乗っている。
「…………そんなモン たべたら、 よけいに はきます…………。
…………どヘンタイ。…………」
レイリーリャは眉間に皺が寄り顔が引き攣る。その頬を船縁に乗せたまま嫌そうに身体を後ろに逸らした。泥棒髭に軽蔑と嫌悪を感じる。
泥棒髭は驚いたように少し目を開くと、変態呼ばわりされた事が新鮮で満更でもないように口許が気持ち上がっている。
「ゾーコン、ムダ口ほざいてねぇで、操舵に集中しぉ!」
皺だらけの浅黒い顔をした
ハイリアルはレイリーリャの側まで寄った。
「……レイリーリャ、お前が船酔いすると解らなかったとはいえ、乗船する命令を出した事を詫びよう。」
ハイリアルは額に皺を寄せレイリーリャに詫びると、自分を責めるように唇に力を入れ口を閉じている。
それに釣られるようにテグドラウもレイリーリャに近寄る。
「ねーちゃん、すまん。ハサミ野郎を片付けるまで港に戻れんから、それまで我慢してくれ……。」
テグドラウはレイリーリャに頭を下げ謝る。
「……オレもねーちゃんの好意に甘えずに、乗せるの止めるべきだったな……。
緊急事態とはいえ、長年船に乗ってるのに、船酔いする可能性があるのを忘れるとは……バカだな……。」
テグドラウは顔を歪め自嘲する。
波に持ち上げられ漁船の船首が上を向く。直ぐに船首が下を向くと飛び込むように海面に落ちた。
レイリーリャの身体もその瞬間浮き上がり、船と共に落ちる。落ちた瞬間付けていた船縁に頬が当たり、気持ち悪さだけでなく痛みも感じる。
「……
浅黒く皺だらけのフルーデルが苛立つように帆を張る縄を引きながら、集まっているテグドラウ達に向かって叫ぶ。
「
皺だらけのフルーデルが指さす遙か先には、側面や背後を砕かれた漁船が手鋏鮫から逃げているのと、それに向かっている小舟があるのが見える。
「……そうだな。舳先に行く。にーちゃんはオレに付いてきてくれ。」
テグドラウは平静さを保とうと意識するかのように表情を作ると、握った手から出した親指を舳先に向け、ハイリアルに呼びかける。
「魔法が使えるんだろう。それならオレの後ろから魔法で支援してくれ。」
「了解した。」
ハイリアルは同意する。テグドラウはそれを確認すると舳先に向かった。
ハイリアルもそれに付いて行く。
「……ただ、氷魔法と火魔法は水中で効果ある物を放てる程達者ではない。
「……風魔法も、水中では…………どうだろうなぁ……。」
ハイリアルは歩きながら眉間に皺を寄せ考えながら呟く。
「そんなら、ハサミ野郎が水面に浮上した時に得意な魔法で殺ってくれ。オレがこの銛でぶっ刺してやるから。」
テグドラウは右手に握った銛をハイリアルに見せるように上げる。
「…………解った…………。」
ハイリアルは同意した。しかし眉間に皺を寄せ無言で何か考え始めた。
手鋏鮫が追いかけている漁船に鋏を叩きつけると、漁船は大きく左右に揺れた。漁船から絶叫が拡がり悲鳴が響く。逃げる漁船の後ろの海面には白い航跡と、浮かんだ赤黒い血溜まりが浮かび上がる。
一方レイリーリャは、どこにいれば邪魔にならならずに済むのか解らなかった。そこでとりあえず帆柱と操舵場の間に移ると、その上に横たわっていた。
レイリーリャは相変わらず船酔いで気持ち悪く感じている。それだけではなく、皺だらけのフルーデルが言った文句に対して、無意識のうちに受け入れたくないが同意してしまい、気持ちが沈んでいる。
そこに皺だらけのフルーデルが近付いたのに気付いた。
力が出ないまま上半身をゆっくりながらも上げた。
「……やくに たてなくって すみません……。」
レイリーリャは頭を下げる。
皺だらけのフルーデルに大事な時に動けない事を叱られるのではないかと疑う。
皺だらけのフルーデルは淡々と表情現れずに、片手に持っていたコップをレイリーリャの前に差し出した。
「ほぇ、水だ。飲め。」
コップの中には水が満たされている。
レイリーリャの予想とは異なっていた。
何か有難く、心が暖かく柔らかくなるように感じる。
「ありがとうございます。」
弱ったままの状態だが、レイリーリャの口許に微かに笑みが浮かび、力無く感謝する。
皺だらけのフルーデルから両手でコップを受け取り、口に付け水を飲む。水は冷えておらずぬるかった。しかしその水は柔らかく口の中に拡がり、身体に沁みていった。
「
皺だらけのフルーデルの声の調子は淡々としており、その顔から表情は現れぬままだった。
「そうだそうだ。ねーちゃん。ヌ=エンビの言う通り。」
ヌ=エンビこと皺だらけのフルーデルの言う事を泥棒髭が同意する。
―――…………このオッサン、何かロクでもないこと言いそう……。
レイリーリャは泥棒髭に心の中で軽蔑する。泥棒髭のいる操舵場の方に振り返らず、コップに口を付けたまま口を開かなかった。
「海の中に飛び込んでオトリになれば、役に立つから心配するなよ。」
レイリーリャはコップに口を付けたまま離さなかった。
―――……やっぱりロクでもないことだ……。
レイリーリャは泥棒髭の言うことが予想通りで呆れてしまう一方、それを当てたことに少し満足感らしき物を感じる。
「ゾーコン、フザけた事言ってぅんじゃねぇ。」
ヌ=エンビは泥棒髭を貶す。その貶す口調は鋭かった。
「遊びなんかじゃあ、ないよ。」
泥棒髭は口許をにやつかせたまま、片手を前に出し突き上げるように腰を前後に振る。
レイリーリャは泥棒髭のいる方に一切顔を向けていなかった。それに操舵場の正面は木板で囲われていたので、泥棒髭の動きはレイリーリャの目に入らなかった。
ヌ=エンビは呆れたように泥棒髭に目を向けた。何も言わなかった。そして振り返りレイリーリャの前に来ると、飲み水の入った樽の位置を指さした。その表情は戻り、元の皺だらけの顔だった。
「また水飲みたきゃ、
「……ありがとうございます。おやさしい 人ですね。」
レイリーリャは感謝の言葉を、自らの立ち位置に戻ろうとしているヌ=エンビの背中に向けて投げかける。それを同時にしながら思ってしまう。
―――泥棒髭のオッサンは、どヘンタイ……。
レイリーリャは言い終わってから、ヌ=エンビを褒めたかったのか、泥棒髭を当てつけたかったのか解らず戸惑った。
その頬を海風が抑えつけるように叩き続ける。
手鋏鮫は再び浮上し、逃げる漁船の側面を鋏で挟んで砕こうとし始める。
その時近付いた小舟から、金色の髪をした長身の男が手鋏鮫に向かって跳んだ。金髪の男はその勢いでその鋏に銛を突く。だが鋏の甲殻に銛は刺さらずへし折れた。
男の身体はそのまま海面に落ちて中に沈む。
水飛沫が飛び散る。
手鋏鮫は漁船の側面を挟んでいる鋏を開いて外すと、男を追って海中に潜る。
その様子を漁船から見つめているテグドラウは苛立ち、目を見開く。
「あのバカ!飛び込んで銛突くの早ぇよ。」
忌々しそうに声を荒げる。
「しかも、わざわざ硬いトコに銛を突くかぁ?!クソッ!……」
顔を歪ませ長身の男が飛び込んだ所を凝視しながら、銛を投げるように身体を屈ませ銛を握り直した。
「早くフネを漁船に寄せてくれ!」
テグドラウは後ろに振り返り叫ぶ。
「はいよぉ~。取り舵いっぱぁい。」
ゾーコンは緊張感無くにやついた表情を崩さぬまま舵輪を左に回す。
「解った。帆の向きを変えぅぞ。」
それを聞きヌ=エンビと他の漁師が、握り締めたロープを身体で引っ張り帆の向きを変える。船体は左に向きを変える。
「射程距離内に入ったら、我の判断で手鋏鮫を魔法で撃って良いか?」
テグドラウの後ろで両脚を少し広げ中腰で立っているハイリアルが、テグドラウに確認を取る。
テグドラウはハイリアルに振り返り即断する。
「構わん。波で揺れるから気を付けろよ。」
「了解した。他の船や人など、変な所に当たらぬよう心がけよう。」
ハイリアルは頷くと、持っている薙刀を上に上げ手鋏鮫が沈んだ方を凝視する。
―――……さすがにこのまま寝てたら、何でここにいるのか解んないし、邪魔になるだけだよね……。
甲板の上で横たわりながら彼らの様子を見ているレイリーリャは思う。
船首で銛を構えるテグドラウと、その後ろの船縁から海中を覗き込んで手鋏鮫を捜すハイリアルの後ろ姿が見える。
―――何に役立つか解んないけど、とりあえず、ハイリアルさまの近くにいよ……。
レイリーリャは胸の中から込み上げる刺激と、口の中にへばり付くような生臭さによる気持ち悪さを我慢しながら上半身を上げた。
それから作業をする船員達の邪魔にならないように注意しながら、ハイリアル達の方に四つん這いで這っていく。そしてハイリアルのいる近くまで辿り着くと、両腕を後ろについて甲板の上に座り込んだ。相変わらず酸っぱく生臭いものが再び口の中に込み上げてきそうで、気持ち悪いままでしんどく、身体はだるく重いままだ。
―――……まだ立てないけど、ハイリアルさまに声かけた方が良いのかな?……
レイリーリャは薙刀を構えたまま海中をさ凝視するハイリアルの後ろ姿を見つめる。
どうしようか迷っているうちに、ハイリアルが気付きレイリーリャの方に振り返る。
ここまでレイリーリャが付いてきたのが想定外なのか、少し目を開き微かに両口許が上がっている。
「…………たったほうが いいですか?……」
レイリーリャは甲板に座りこんだまま尋ねる。立ち続けたらまた気持ち悪くならないか不安に感じている。
ハイリアルは状態が元に戻らずに甲板に座り込んだままのレイリーリャの姿を見ながら、何も言わずに少し考慮する。
「…………いや。そこに座ったままでいい。」
ハイリアルの声の調子は少し柔らかかった。
この差し迫った雰囲気の中では似つかわしくないものだった。
レイリーリャはハイリアルが厳しく求めるような緊迫した状況だと思っていただけに、この反応は意外に思った。
「…………とりあえず、海中からでも、手鋏鮫が襲ってきてらすぐに反応出来るように、この船の周囲を監視していてくれ。」
ハイリアルは薙刀で乗っている漁船の周囲を囲むように動かし指示をする。
今の状態のレイリーリャが出来る事を踏まえたものだった。
「…………かしこまりました。」
レイリーリャが頭を下げると、ハイリアルは再び正面を向いて海を凝視し始めた。
レイリーリャは漁船の周囲の海を見ずに、その背中を見ている。
―――……ハイリアルさまがわたしに気を遣ってくれたのはありがたいけど、魔物に追いかけられてる漁船の方を見ないでいいのかなぁ…………。
レイリーリャはハイリアルの配慮に感謝しつつも、状況が状況名だけに疑問に思う。
―――……まぁでも、考えてみれば、あの魔物、手鋏鮫だっけ?あの追いかけられてる漁船を襲うの止めて、こっちの漁船を海中に潜って反対側から襲う可能性は……ないことないんだよねぇ…………。
レイリーリャは改めて考え直すと、ハイリアルの指示通り、この漁船の周囲の海を眺め始める。海面は魔物の事など関係ないように波がうねり続けている。
「クソッたれッが!」
突然テグドラウがそう文句を吐き捨てた。そして直ぐに銛を握ったまま海中に頭から飛び込んだ。
その先には海中から浮上した手鋏鮫が、先に海中に飛び込んだ金髪の男の胴体を手鋏で挟んでいる。
「氷鎗」
ハイリアルはそれに気付くと同時に、薙刀を構え『氷鎗』の魔法を無詠唱で唱えた。薙刀の刃の先に現れた蒼白の氷の鎗は、手鋏鮫の頭部に向かって滑翔する。しかし氷の鎗は外れた。それは手鋏鮫の頭の上を飛んでいき空に消えていった。
ハイリアルはターゲットから外れると同時に舌打ちした。その眉間に皺を寄せ口許を歪ませ忌々しそうな表情になっている。
「海面が沈んだお陰で狙いから外れた……。」
船は波で上下に揺るがされ、思わずレイリーリャは転がらぬよう四つん這いになって、ハイリアルが狙った先を凝視する。
手鋏鮫の鋏に胴を挟まれた男は仰向いたまま動かず、その顔は青白くなっている。
「……あ奴を挟んだまま海に
ヌ=エンビはロープを握り締め険しい顔をしながら、手鋏鮫を凝視する。
テグドラウは手鋏鮫がいる所まで泳いで辿り着くと、怒鳴り続けながら、手鋏鮫の腕と胴が接する外殻の無い所を銛で何度も突き刺している。
銛の先が刺さった所から赤い血が流れ海面に拡がり混ざっていく。
しかし手鋏鮫からの攻撃が妨げとなって、金髪の男の側まで寄って助ける事は出来ていない。
―――あの人、このままだと死んじゃう。
レイリーリャは手鋏鮫の鋏に挟まれた男の状態を見て動揺し、恐ろしくなる。尻尾の毛も逆立っている。
思わず振り向きハイリアルを見つめる。
―――何かしますか。
レイリーリャの想像と期待が込められた瞬間だった。
ハイリアルは力を込めて船縁の上を踏み締めると、手鋏鮫に向かって跳び上がった。
△▼△▷▼△△▼△▷▼△△▼△▷▼△
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
楽しんでいただけると嬉しいです。
↓ 『応援する』へのクリックや、この作品への好評価(笑)並びに感想、レビューをしていただけると、作者への創作の励みになります。
……この作者、他者評価に対して淡々としているようでも、やっぱり褒められると喜んでいるようなんです。
著作者おだてりゃ 木に登り
ますます ハナシ 創り出す
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