微笑む牙

イオリ⚖️

第1話 軋めく蝶

 ――――森の狼は森から離れないなんて、誰が決めた?


 日の光がほの青くにじむ、鬱屈うっくつした木々。重なり合う葉々はばと、茂るつた。伸びやかにえた草の絨毯は昨日の雨でぬかるんでおり、踏み進めるごと、足跡を残す。


 その上を真っ赤な裾がひらりとなびいた。


 薄暗い森では恐ろしく不似合いな、鮮烈な赤だ。傍目はためには、細長い布だけがひとりでに宙を歩いて映る。それだけ印象強い色彩は人影をすっぽり覆っていた。


 すらりと高い背、しっかりした足取り。若い男だろうか。たけの長いずきんが顔を隠している。地面の植物がずきんにまとわりそうなのを、彼は慣れた調子でさばき、自然の障害物を次々と抜けていく。


 一度迷えば二度と引き返せない森。人間の寄りつかぬ、呪いの地。


 そんな忌避される場所でも、太陽に愛された空間がある。青年はそこを目指していた。


 土を押し上げて割り、露わに盛り上がった大樹の根をまたぐ。ほうぼうの枝に絡みつくツルバラのアーチをくぐれば、現れる。


 樹木のひしめく森で唯一、ぽっかり開いた草地。周りを低木ていぼくが円を描くように囲み、そよぐ風が心地良い。


 空の光に見出され、若草は本来の魅力を取り戻した。零れた朝露が新緑をより明るくする。他では見られない野花がとりどりの色合いを競い合い、涼風でぷつりと外れた花びらが青年の足元へすがった。


 秘密の花園。かつては彼だけが知っていた。春はどんな草花を咲かせるか、夏にはどれほど豊かな果実がたわむか、暮れなずむ秋の空に密やかに響く虫の声がいかに趣深おもむきぶかいか、雪の積もる冬の景色はどれだけ綺麗か。


 それを彼は教えたのだ。ここで出会った、あの日の少女に。


 ――――どうすれば戻ってきてくれるだろう。


 赤いずきんにされた横顔にまで陽が差し込む。氷じみた青白い肌に灯る瞳が金を散らした。すっきりした鼻筋にかけての線と整った面差し。格好すら浮世離れした青年の目の前を、紙切れみたいな黒い影が横切った。ひとつひとつの小さな蝶が集まって、ぶわりと極彩色の大輪を咲かす。


 深いあおと黄色、あるいはだいだいの模様を伸ばした羽根。細かな鱗粉りんぷんをきらきらひるがえして遊ぶ蝶は、たわむれにひとつふたつと、揺れる花々に口づける。思わせぶり、振りまいて。彼を誘う。


 ――――ああ、そうか。


 青年の唇がにやりと歪んだ。


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