春に落ちる
@Koruku1710
第1章
「春に落ちる」第1章:再会の角**
春の風がビルの谷間を抜けて、桜を巻き上げた。
朝の通勤ラッシュに飲まれながら、橘 紗良(たちばな さら)は駅前の横断歩道のボタンを押す。四月の始まり。新しい部署、新しい上司、新しいデスク。胸を締めつける緊張に深く息をついたとき
視界の先で、ひとりの男性がスマートフォンを耳に当てながら歩いていた。落ち着いたグレーのコートに、柔らかい黒髪。ふと風に前髪が揺れ、目がのぞいた瞬間、紗良の心臓が跳ねた。
(……嘘、でしょ)
彼は立ち止まり、通話を終えると、時計を見るしぐさも、眉間に寄る微かな皺も、昔とまったく同じだ。
──海斗(かいと)だ。
その名前を頭の中で呼んだだけで、過ぎ去った七年の記憶が胸を掴んだ。
大学の卒業式の日、理由も告げずに突然別れを告げてきた恋人。
紗良は彼の最後の言葉だけを覚えている。
「ごめん。俺じゃ、君を幸せにできない」
その後、海斗は何も残さずに消えた。
連絡先も、SNSも、友人づての情報さえ途絶えた。
だからこそもう二度と会うことはないと思っていた。
信号が青になる。
人の流れが押し寄せるように動き出し、紗良の足も自然と前へ進む。
すれ違う距離まで近づく。
海斗の視線がふと上がり目が合った。
「あ……」
紗良の声がこぼれる。
海斗の表情が一瞬だけ揺れた。驚き、戸惑い、それからどこか痛みのような影。
「……紗良?」
その声音は、記憶のままの温度だった。
「久しぶり……だね」
紗良もまた、息を詰めながら返す。
言いたい言葉がいくつもあった。
“会いたかった”
“どうして消えたの?”
“あのとき、本当は何があったの?”
でもどれも喉の奥につかえて出てこない。
「こんなところで会うなんて……」
海斗が微笑みそうになり、けれど途中でその笑みを飲み込んだ。
その仕草が、七年前と少しも変わっていなくて、胸が痛む。
「仕事?」紗良が聞くと、海斗は頷いた。
「うん。実は今日から、この駅前のビルで働くことになって」
紗良の心臓がさらに跳ねる。
彼の指差したビルは紗良が配属された部署の入るビルだった。
「……私も、今日からそこなの」
「え」
ほんの一瞬、二人の間の空気が止まった。
海斗の瞳が揺れ、紗良は不意に目をそらす。
(いやだ……この心臓の音、聞こえてしまいそう)
七年ぶりに会った元恋人。
忘れたはずの痛みも、温度も、全部そのまま蘇るなんて思わなかった。
海斗が何か言おうとしたその瞬間──
「橘さん? あれ、もしかして……?」
背後から紗良を呼ぶ声。
振り返ると、人事部の山下がこちらを見ていた。今日から同じ部署になる同僚だ。
「あ、はい! すみません、知り合いに会って……」
そう答えながら振り返ると、海斗は一歩だけ下がり、距離を作っていた。
「……行かないと。初日だろ?」
その声は優しいのに、どこか線を引いている。
紗良は痛む胸を押さえながら、小さく頷いた。
「また……会うよね」
それだけを言うと、海斗は軽く手をあげて背を向けた。
紗良はその後ろ姿を目で追いながら、七年前と同じ感情が胸に渦巻くのを感じていた。
再会は、偶然か、それとも必然か。
答えのない問いを胸に、紗良は新しい職場へと歩き出した。
けれどこの日の再会が、二人の止まった時間を再び動かす始まりになるとは、まだ誰も知らなかった。
春に落ちる @Koruku1710
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。春に落ちるの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます