第10話 二次方程式と永遠の誓い(後編)
夕闇が、保健室の白いカーテンを群青色に染め上げていく。
世界が輪郭を失い、曖昧になっていく時間。
けれど、私の右手を握る佐伯先生の手の熱だけが、痛いほど鮮明な座標としてそこにあった。
彼女は、私の目を真っ直ぐに見つめていた。
その瞳の中には、揺るぎない光があった。どんな難問の前でも怯まない、数学者としての理知と、それ以上の何か。
「今日話したことも、二次方程式の解き方も、忘れてしまってかまわない」
静かな声だった。
けれど、それはどんな大声よりも深く、私の鼓膜を震わせた。
「え……?」
「無理に覚えなくていい。君の脳のメモリを、好きでもない数式で埋める必要はない」
彼女は、握った手に少しだけ力を込める。
「君が忘れても、私が覚えている」
時間が止まった。
呼吸をするのも忘れた。
私が忘れても、先生が覚えている。
それは、「勉強を教える」という教師の役割を遥かに超えた誓いのように聞こえた。
「君や私が忘れてしまっても、一生使わないと呪っても、私達が知識を失わないのは、誰かが覚えていてくれるからだ」
先生の言葉が、私の乾いた心に、染み込むように落ちてくる。
「知識だけじゃない。君という存在もそうだ。君が自分を無価値だと思い込んでも、世界から消えてしまいたいと願っても……君という変数がこの教室に存在した事実を、私が観測し続ける限り、君は決してゼロにはならない」
視界が滲んだ。
夕日のせいじゃない。
ずっと、誰かに言ってほしかった言葉だった。
「頑張れ」でも「逃げるな」でもない。
ただ、「ここにいていい」という許可。「覚えている」という承認。
私が私であることを、誰かが保証してくれる。
そのことが、こんなにも救いになるなんて。
佐伯先生は、私の手からゆっくりと力を抜いたが、離しはしなかった。
彼女は窓の外を指差した。
群青の空に、一番星が光っていた。
「あの星の光が地球に届くまで、何年かかるか知っているか?」
「……知りません」
「数百年、あるいは数千年だ。今見ている光は、もう存在しない星の輝きかもしれない」
彼女は星を見上げ、そしてまた私を見た。
「だが、光は届いている。過去の輝きが、現在の私たちの網膜を焼いている。記憶とはそういうものだ。時間や距離を超えて、誰かの中に残り続ける光だ」
彼女は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、いつもの教師の顔に戻った。
少しだけ照れくさそうに、早口になる。
「二次方程式の解き方を忘れても、このことは忘れないで」
彼女は立ち上がり、白衣の裾を翻した。
「これで、今日の授業を終わります」
私は、何も言えなかった。
「ありがとうございました」も、「さようなら」も。
ただ、溢れ出る涙を拭うこともせず、彼女の背中を見つめていた。
あの日。
私は死ぬのをやめた。
ペンを折るのをやめた。
先生が覚えていてくれるなら、私は生きていてもいい。
先生が私の小説を読んでくれたなら、私は書き続けてもいい。
それが、私の作家としての原点。
二次方程式よりも大切な、たった一つの公理だった。
*
「……ん」
目が覚めると、部屋は薄暗かった。
熱い塊が喉の奥に詰まっている。
目尻を伝って、冷たい滴が耳へと流れ落ちた。
夢を見ていた。
とても、懐かしい夢を。
「……起きたか」
枕元で声がした。
驚いて顔を向けると、ベッドサイドの椅子に佐伯さんが座っていた。
文庫本を読んでいる。手元には小さな読書灯。
その光が、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。
「先生……?」
「三時間ほど寝ていたな。発汗が見られる。熱は下がったようだ」
彼女は本を閉じ、私の額に手を当てた。
ひんやりとした掌。
夢の中で私の手を握ってくれた、あの温かさと同じだ。
高校時代の先生と、今の佐伯さん。
時間は流れても、彼女の本質は何ひとつ変わっていない。
「……夢を見ていました」
「どんな夢だ? うなされていたぞ」
「先生の夢です。保健室で、私に『忘れてもいい』って言ってくれた時の」
佐伯さんの手がぴたりと止まった。
彼女は目を丸くし、それから苦笑いを浮かべた。
「……古い記憶だな。あんな無責任なことを言った教師は、懲戒処分ものだ」
「いいえ。あの言葉のおかげで、今の私がいます」
私は布団から手を出して、彼女の手首を掴んだ。
今度は、私が捕まえる番だ。
「先生が覚えていてくれたから、私は書くことを辞めませんでした。だから……今度は私が証明する番です」
「証明?」
「先生が生きた証を、私が物語にして残します。先生が忘れても、私が覚えていますから」
佐伯さんは、少し驚いたような顔をした。
そして、眼鏡の奥の瞳を細め、静かに、深く頷いた。
「……ああ。期待している」
彼女は私の手を握り返した。
その力強さは、十年前と変わらない。
窓の外を見ると、夜空にはまだらな雲がかかっていたが、その隙間から一つの星が瞬いていた。
あの光が届くまで、どれくらいの時間がかかったのだろう。
私たちの関係も、長い時間をかけて、ようやくここまで辿り着いたのだ。
「……お腹、空きました」
「そうか。まだ粥の残りと、林檎がある。剥いてやろう」
「うさぎさんにしてください」
「非合理的だ。皮を剥くだけで栄養価は変わらん」
そう言いながらも、彼女はキッチンへ向かった。
数分後、皿に乗って運ばれてきた林檎は、不格好ながらも懸命に耳を作ろうとした痕跡のある、いびつなウサギの形をしていた。
それを齧ると、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。
熱は下がったけれど、胸の奥の微熱だけは、当分下がりそうになかった。
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