第9話 二次方程式と永遠の誓い(前編)
夢の解像度は、現実よりも遥かに高い。
特に、熱に侵された脳が見せる夢は、記憶の彩度を異常なまでに引き上げる。
私は十六歳の夏にいた。
蝉の声。
まとわりつくような湿度。
そして、消毒液とリノリウムの匂い。
私にとって、学校という場所は巨大な水槽だった。
教室内では、クラスメイトという名の魚たちが、目に見えない海流に乗って泳いでいる。流行、恋愛、噂話、同調圧力。それらの海流を読めない私は、水槽の底に沈んだ異物だった。
だから、私は教室から逃げ出した。
息継ぎができる唯一の場所、保健室へと。
午後四時の保健室は、世界から切り離されたシェルターだ。
養護教諭の先生は会議で席を外している。
西日がカーテンの隙間から差し込み、白いベッドのシーツに縞模様の影を落としていた。
私はパイプ椅子に座り、膝の上で数学の教科書を開いていた。
開いているだけだ。
そこに並ぶ記号の羅列は、私にとって意味を持たない呪文でしかない。
$ax^2 + bx + c = 0$
この式を解くことに、何の意味があるのだろう。
解の公式を暗記したところで、私の息苦しさは解消されない。私の孤独は因数分解できない。
ガララ、と引き戸が開く音がした。
心臓が跳ねる。
生活指導の教師だったらどうしよう。「教室に戻れ」と怒鳴られるのが怖くて、私は身を固くする。
しかし、入ってきたのは白衣の裾を翻した人物だった。
「……やはり、ここにいたか」
佐伯薫。
私のクラスの担任であり、数学担当。
当時の彼女は三十代半ば。銀縁眼鏡の奥の瞳は、カミソリのように鋭かった。
彼女は私の前に立つと、出席簿を脇に挟み、無造作に私の前の椅子を引き寄せて座った。
「夏目。今日の授業範囲だ」
彼女が差し出したのは、手書きのプリントだった。
教科書の内容が、要点を絞ってまとめられている。図形は定規を使わずフリーハンドで描かれているのに、驚くほど正確な円と放物線だった。
「……すみません」
「謝罪はいらない。ただの業務連絡だ」
彼女は淡々と言い、白衣のポケットからチョークの粉で汚れた赤ペンを取り出した。
「ここまでは理解できているか?」
「……わかりません」
「どこがだ」
「全部です。一行目から、全部」
私は投げやりに答える。
どうせ呆れられる。見捨てられる。
他の教師たちのように、「お前はやる気がない」と言って去っていくだろう。
けれど、佐伯先生は眉一つ動かさなかった。
「定義からやり直そう。変数は、変化する数だ。君の感情のように、常に揺れ動く値だと思えばいい」
彼女はプリントの余白に、さらさらと数式を書き込み始めた。
その説明は、不思議と耳に入ってきた。
彼女は数学を、無機質な記号としてではなく、世界の理(ことわり)を記述する言葉として語っていたからだ。
でも。
私の心の中にある虚無は、そんな理屈では埋まらなかった。
私は、衝動的に教科書を閉じた。
バタン、と乾いた音が響く。
先生の手が止まる。
「……夏目?」
「意味ないですよ、こんなこと」
口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど冷えていた。
「二次方程式が解けたって、私は教室に戻れないし、友達もできないし、将来何になれるわけでもない」
「それは論理の飛躍だ。数学的思考は、将来の選択肢を――」
「死んだら、終わりじゃないですか」
私は彼女の言葉を遮った。
一度溢れ出した黒い感情は、もう止められなかった。
「どんなに勉強しても、どんなに偉くなっても、人間いつかは死ぬんです。死んだら記憶も、知識も、感情も、全部消えてなくなる。ゼロになる。だったら、今ここで頑張ることに何の意味があるんですか?」
十六歳の特有のニヒリズム。
けれど、私にとっては切実な真実だった。
自分がこの世に存在する意味が見つからない。
小説を書くことでかろうじて自分を保っていたけれど、それさえも、いつかは消えてしまう砂の城のように思えてならなかった。
私が死ねば、私の書いた物語も、誰も読まずに消える。
その恐怖が、私を無気力にさせていた。
佐伯先生は、じっと私を見ていた。
怒るでもなく、諭すでもなく。
ただ、静かな瞳で、私の魂の底にある絶望を観測していた。
「……質量保存の法則を知っているか?」
唐突に、彼女が言った。
「化学反応の前後で、物質の総量は変わらない。形が変わっても、エネルギーが変わっても、世界を構成する要素の総和は一定だ」
「……それが、何なんですか。理屈なんて聞きたくない」
私は顔を背ける。
人間は物質じゃない。心は原子じゃない。
「理屈ではない。これは祈りの形だ」
彼女の声が、少しだけ低くなった。
祈り。
数学教師の口から出るはずのない言葉。
私は驚いて顔を戻す。
夕日が、彼女の白衣をオレンジ色に染めていた。
彼女は私の閉じた教科書の上に、そっと自分の手を重ねた。
その手は、冷たかった。
けれど、掌の奥にある血管には、確かな血が通っていた。
「夏目。君は、自分の存在が、死と共に無に帰すと思っているのか?」
「……だって、そうでしょう。脳が停止したら、意識は消える。私の記憶も、先生の授業も、全部」
「いいや、違う」
彼女は首を横に振った。
きっぱりと。
証明終了(Q.E.D.)を宣言するように。
「君が今日ここで学んだことは、君の脳細胞のシナプスを繋ぎ変えた。その変化は、君が誰かと話す言葉を変え、行動を変え、君が出会う誰かの人生に影響を与える。それは連鎖する。波紋のように」
彼女は私の目を覗き込む。
「たとえ君という個体が消滅しても、君が世界に残した変数の痕跡は消えない。それが、私が信じる保存則だ」
難しい理屈だ。
やっぱり、先生は理系だ。
でも、その不器用な慰めが、なぜか涙腺を刺激した。
私は俯く。
涙を見せたくなかった。
「……でも、忘れますよ」
私は小さな声で反論する。
「先生だって、いつか私のことなんか忘れる。何百人もいる生徒の一人じゃないですか」
「忘れない」
即答だった。
コンマ一秒の迷いもない断定。
「私は記憶力がいい。君の出席番号も、先月の中間テストの点数も、君が授業中に隠れてノートに小説を書いていることも、全部覚えている」
「……え」
顔を上げる。
先生は、微かに笑っていた。
困ったような、でも愛おしいものを見るような目で。
「君の書く物語は、授業中に読むには少々面白すぎる。没収するのを忘れて読み耽ってしまったくらいだ」
「読ん……でたんですか?」
「ああ。君の才能は、私が保証する」
心臓が、早鐘を打つ。
誰にも見せていなかったノート。
誰にも認められないと思っていた私の世界。
それを、この人は見ていた。
否定せずに。没収せずに。
先生は、私の手から教科書をゆっくりと引き抜いた。
そして、代わりに私の手を握った。
強い力だった。
絶対に離さないという意志を感じるほどに。
「だから、夏目」
西日が翳り、部屋の隅に夜の気配が忍び寄る。
青い時間が始まる直前。
彼女の口から紡がれた言葉は、私の人生を決定づける公理となった。
(つづく)
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放課後の変数は青く綴る~書けなくなった元天才作家、小説教室でかつての恩師(数学教師)と再会する~ lilylibrary @lilylibrary
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