第3話 感情を素因数分解して
暖簾をくぐると、出汁の香りと活気ある声が、夕暮れの冷えた空気を一瞬で塗り替えた。
駅前の喧騒から一本路地裏に入った、隠れ家のような小料理屋『宵待(よいまち)』。
磨き込まれた白木のカウンター。その隅に、不似合いなノートが一冊置かれている。
キャンパスノート。大学受験用のA罫。
その横には、江戸切子のグラスになみなみと注がれた純米吟醸酒。
「……無理だ。解なし」
佐伯薫が、匙を投げるようにお猪口を置いた。
その眉間には、数学の難問に挑んでいた時よりも深い渓谷が刻まれている。
彼女の前にある課題は、シンプルだ。
『酔い』について書くこと。
ただし、条件が一つある。『酔った』『美味しい』『気持ちいい』という形容詞の使用禁止。
「先生、まだ一口目ですよ。諦めるのが早いです」
「論理的欠陥がある。感覚という不定形のものを、言語という有限の器に盛ること自体が矛盾している」
「矛盾を愛するのが文学です。ほら、飲んで」
私は自分のグラスを持ち上げ、軽く掲げてみせた。
透明な液体が、店内の暖色系の照明を吸い込んで揺れている。
彼女のノートを覗き込む。
そこに書かれていたのは、またしても論文だった。
『エタノールC2H5OHの摂取により、大脳新皮質の抑制が解除。ドーパミンの分泌が促進され、中枢神経が麻痺し始める現象。顔面紅潮、脈拍の上昇を伴う』
「……先生」
「事実だ」
「だから、事実はいらないんです。先生が書きたいのはアルコールの代謝プロセスについての医学書ですか?」
私は溜息をつき、お通しの風呂吹き大根に箸を伸ばす。
佐伯薫という人間は、世界を分解能の高い顕微鏡で見すぎている。彼女に見えているのは、分子であり、細胞であり、数値なのだ。
だが、読者が読みたいのは化学式ではない。
「先生、素因数分解はご存知ですよね?」
私が問うと、彼女は不服そうに眼鏡を直した。酒が入る前だというのに、その仕草はどこか堅い。
「愚問だ。中学生のカリキュラムだぞ」
「じゃあ、『酔う』という体験を素因数分解してください」
「……何?」
「例えば酔いに伴う『心地よい』という感情は、一つの巨大な数字です。それを素数……つまり、五感という最小単位にまで分解するんです」
佐伯さんの瞳が、少しだけ揺れた。
数学の用語が出たことで、彼女の脳内の回路が繋がり始めた音が聞こえた気がした。
「感情は、複雑系だ。カオス理論の領域に近い」
「では簡単な方程式で考えましょう。『酔い』=『味覚X』+『温度Y』+『視覚Z』+『身体感覚W』です。先生、今、目の前にあるその日本酒を見て、飲んで味わって、何を感じますか?」
私は彼女の前に置かれた切子グラスを指差した。
表面張力で盛り上がった水面。
佐伯さんは、それをじっと凝視する。
まるで、その液体の屈折率を計算するかのように。
「……無色透明。粘度は水よりわずかに高い。香りは……エステル香か? 果実のような揮発成分を感じる」
「ブブー。赤点です。果実って何の果実?」
「……熟した梨、あるいはメロンに近い」
「そう、それでいいんです。じゃあ、それを口に含んだら?」
佐伯さんはグラスを持ち上げ、躊躇いながらも口に含んだ。
喉が動く。
白く細い喉の動きを、私は無意識に目で追っていた。
ふう、と息が漏れる。
その息には、微かに甘い香りが混じっていた。
「……冷たい」
「それだけ?」
「いや……舌の上では鋭利な刃物のように冷たい。だが、喉を通った瞬間、熱に変わる」
「どんな熱?」
「……小さな火種を飲み込んだような。胃の底から、ゆっくりと輻射熱が広がっていく感覚だ」
彼女の言葉が、少しずつ記号から描写へと変わっていく。
その頬に、ほんのりと朱が差しているのが見えた。アルコールの周りが早いのか、それとも慣れない表現に照れているのか。
「それを飲んだ時、先生の体はどうなりましたか? 大脳新皮質がどうとかじゃなくて」
「……」
佐伯さんは自分の掌を見つめ、ゆっくりと握ったり開いたりした。
「……重力が、軽くなった気がする」
「重力が?」
「ああ。肩に乗っていた目に見えない重石が……気化していくようだ。指先の感覚が曖昧になって、世界との境界線が滲んでいく」
私は、息を呑んだ。
美しい。
「世界との境界線が滲む」。
飾らない、けれど的確な比喩。
理系の彼女らしい「境界線」という言葉のチョイスが、逆に艶っぽさを醸し出している。
「それです」
「え?」
「それが、『ほろ酔い』や『開放感』の素因数分解です。先生、今のを忘れないで。エタノールなんて書かなくていい。分解によってたどり着いたその表現、『世界が滲む感覚』を書けば、読者は勝手に陶酔してくれます」
佐伯さんは、ぽかんとして私を見ていた。
やがて、手元のノートに視線を落とし、さらさらとペンを走らせる。
先ほどまでの迷い箸のような動きではない。
確信を持った、滑らかな筆致。酒の勢いも借りているのかもしれない。
書き終えると、彼女は満足げに頷き、残りの酒を一口で煽った。
「……なるほど。変数を具体的に定義することで、解を一意に定めるわけか」
「まあ、理屈で言えばそうですけど」
「君は、優秀な翻訳家だな」
不意に、その言葉が投げかけられた。
居酒屋のざわめきの中で、その声だけがクリアに届く。
「私は、世界を数式という言語でしか記述できない。美しい夕焼けを見ても、波長の散乱としか認識できない欠陥品だ」
彼女の目が、寂しげに細められる。
空になったグラスの底を見つめながら、彼女は自虐的に笑った。
「だが、君は私の無機質な言語を、人間に伝わる言葉に翻訳してくれる。君というフィルタを通すと、世界はこんなにも……柔らかい」
佐伯さんの手が、カウンターの上を滑った。
私の手の甲に、彼女の指先が触れる。
冷たいグラスを持っていたはずなのに、その指先は驚くほど熱かった。
「……先生、酔ってます?」
「誤差の範囲だ」
「それ、勘違いですよ」
「何がだ」
「先生は欠陥品なんかじゃありません。先生が見ている世界は、誰よりも純粋で、綺麗なんです。私はただ、ピントを合わせる手伝いをしているだけ」
私は彼女の手を振り払わなかった。
その熱が、心地よかったからだ。
かつて、保健室で私の脈を測ってくれた手。あの頃は冷たく感じたその手が、今はこんなにも熱を持って私に触れている。
アルコールのせいだけではない。彼女の中で、何かが変わり始めているのだ。
「……ふむ。君の論理は、時に飛躍するが、心地よいな」
佐伯さんはとろんとした目で微笑んだ。
その笑顔は、かつて教壇で見せた冷徹なそれとは違う。
大吟醸のように、甘く、香り高い、無防備な表情。
「さて、夏目先生。次の課題は?」
彼女が空のグラスを私に向けた。おかわりの催促だ。
私は苦笑しながら、徳利を傾ける。トクトクと、小気味よい音が響く。
「……そうですね」
私はわざと意地悪な問いを投げかけることにした。
「次は、『切なさ』を因数分解しましょう。ただし、『涙』という変数は使用禁止です」
「難問だな」
彼女は嬉しそうに呟き、再びペンを握った。
その横顔は、十六歳の頃に私が憧れたどんな小説の主人公よりも、魅力的だった。
私は知ってしまったのだ。
鉄壁の論理で武装した彼女の、その内側にある、あまりにも無垢で、不器用な感性を。
店内の喧騒が遠のく。
変数は、動き始めている。
青く、静かに、けれど確実に。
私は自分のグラスに残った酒を飲み干した。
喉を通る熱さが、なぜか胸の奥を締め付けた。これを素因数分解するとしたら、その答えはきっと『予感』になるのだろう。
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