第2話 処女作は、検死報告書

 教室の空気は、窒息寸前の飽和水溶液のようだった。

 沈黙。

 圧倒的な、沈黙。

 ホワイトボードの前の教卓に立つ私は、渇いた唇を舐めることもできずにいた。

 視線の先には、直立不動でノートを読み上げる佐伯薫の姿がある。

 彼女は真剣だ。

 その瞳は、難解な数式の解を導き出そうとする求道者のように澄んでいる。

 だが、口から紡がれる言葉は、致命的なエラーを起こしていた。


「……一四時三二分。対象Aは、対象Bの離脱を確認。視覚情報として背中が遠ざかるのを観測した。その際、対象Aの胸部には圧迫感が生じた。心拍数は平常時の八〇から一二〇へ上昇。交感神経の活発化が見られる。これは、恐怖、あるいは極度の緊張状態と推測される」


 彼女は一息つく。

 ページをめくる音が、静まり返った教室に銃声のように響く。


「五分後。対象Aの眼窩より、塩分を含んだ透明な液体が分泌された。総量は推定五ミリリットル。重力に従い、頬を伝って落下。床材に直径二センチのシミを作った。以上により、対象Aは『悲嘆』の状態にあると定義する」


「……ストップ」


 私はたまらず声を上げた。

 右手を突き出す。交通整理の警察官のように。

 これ以上は危険だ。教室内の文学的土壌が、強酸性の液体で焼き尽くされてしまう。

 佐伯さんが顔を上げる。

 不思議そうな顔だ。なぜ止められたのか理解できていない。


「何か問題でも? 夏目先生」

「問題しかありません」


 私はこめかみを指先で揉んだ。頭痛が痛い、というトートロジーを口走りそうになる。

 周囲の受講生たちは、すでにドン引きしていた。

 隣の席の老婦人に至っては、「これは……ミステリーの検死報告のシーンかしら?」と小声で囁いている。いいえ、違います。これは彼女なりのの描写なんです。たぶん。


「佐伯さん。あなたが書いたのは、小説ではありません」

「では何だ」

「検死報告書です。あるいは、出来の悪い警察の実況見分調書」


 私は残酷な事実を宣告する。

 かつて、私の未熟な答案用紙に容赦なく赤ペンを入れた彼女への、ささやかな復讐ではない。純粋な指導だ。

 彼女は眉間に深い皺を刻んだ。


「事実を正確に記述したつもりだ。時間、気温、生理的反応。すべての変数は網羅した」

「それがダメなんです」


 私は教卓を降り、彼女の席まで歩み寄る。

 かつては見上げるだけだった彼女の目線が、今はほぼ同じ高さにある。

 白衣のない彼女は、無防備に見えた。


「小説に必要なのは『事実』ではありません。『真実』です」

「……真実?」

「一四時三二分なんてどうでもいい。その時、空がどんな色に見えたか。心拍数なんて書かずに、胸がどう痛んだか。心臓が早鐘を打ったのか、それとも冷たい手で鷲掴みにされたように縮こまったのか。それを書くんです」


 佐伯さんは瞬きをした。

 一度、二度。

 長い睫毛が揺れる。

 その瞳の奥で、高速で計算が行われているのがわかる。

 しかし、答えは出ないらしい。


「心臓が鷲掴みに……? 医学的にありえない事象だ。心筋梗塞の疑いがある」

「比喩です! ああもう!」


 私は頭を抱えた。

 天才数学教師、佐伯薫。

 彼女の脳内にある辞書には、「情緒」という項目が欠落している。あるいは、「論理」のページに糊付けされて開かなくなっているのかもしれない。


「いいですか、後で添削します。授業を進めますから、座ってください」


 彼女は不服そうに、しかし素直に「了解した」と言って着席した。

 その背中が、少しだけ小さく見えた。

 かつて、黒板の前で万能の神のように振る舞っていた彼女が、今は私の言葉一つに揺らいでいる。

 奇妙な優越感と、それ以上の焦燥感。

 私の知っている先生は、こんなにポンコツじゃなかったはずだ。


        *


 授業終了のチャイム――はない。

 時計の針が五時を回ると、受講生たちは三々五々に帰っていく。

 教室には、私と佐伯さんだけが残された。

 夕暮れの光が窓から差し込み、無機質な長机に長い影を落としている。

 私は彼女のノートを広げ、赤ペンを走らせていた。

 シャッ、シャッ。

 インクの擦れる音が、高校時代の放課後をフラッシュバックさせる。

 あの頃、私の答案用紙を赤く染めていたのは彼女だった。

 

「……壊滅的ですね」


 私は正直な感想を漏らす。

 ノートのページは、私の入れた赤線で埋め尽くされていた。まるで血管が浮き出たようだ。

 佐伯さんは、隣の席に座ってその様子をじっと覗き込んでいる。

 距離が近い。

 微かに、石鹸のような清潔な香りがした。チョークの粉の匂いは、もうしない。


「感情の起伏を数値化するのは難しいな」

「数値化しようとするのをやめてください」


 私はペンを置き、彼女の方を向く。

 佐伯さんは、自分の書いた文章――無残に赤線だらけになった「報告書」を見つめ、小さく溜息をついた。


「私は、君のようにはなれないらしい」

「え?」

「君が十六歳で書いた『放課後の水槽』を読んだ時、世界が色を持っていることを知った。私が記号と数式で処理していた世界には、こんなにも豊かな色彩があったのかと」


 彼女は、私のデビュー作のタイトルを口にした。

 心臓が跳ねる。

 読んでいたのか。

 数学以外に興味がないと思っていた彼女が、私の書いた未熟な物語を。


「だから、私も書いてみたかった。この手で、世界の色を捕まえてみたかった。だが……」


 彼女は自嘲気味に笑う。


「出力されるのは、無味乾燥なデータばかりだ。回路が焼き切れているのかもしれない」


 その横顔があまりに寂しげで、私は言葉を失う。

 焼き切れてなんていない。

 彼女はただ、言語(コード)が違うだけだ。

 世界を愛する方法が、数学という言語に特化しすぎているだけで。

 私は無意識に、彼女のノートに手を伸ばしていた。

 

「……翻訳、しましょう」

「翻訳?」

「先生の数式を、文学に翻訳するんです。先生の中に感情がないわけじゃない。出力の変換アダプタが合ってないだけです」


 私は立ち上がる。

 このまま帰してはいけない気がした。

 この人が「書くこと」を諦めてしまったら、何か決定的な喪失が訪れる。そんな予感があった。


「補習です、佐伯さん」

「補習?」

「はい。赤点ですから」


 私はニヤリと笑ってみせた。高校時代、彼女が私に向けた不敵な笑みを模倣して。


「場所を変えましょう。ここじゃあ、アルコールが足りません」

「……飲酒を伴う授業か。倫理的に問題はないのか?」

「ここは学校じゃありません。それに、もう私たち、教師と生徒じゃありませんから」


 そう。

 私たちはもう、ただの二十五歳と六十歳の大人だ。

 佐伯さんは少し驚いたように目を見開き、やがて、ゆっくりと頷いた。


「……そうだな。君はもう、子供ではない」


 鞄を持つ彼女の手が、微かに震えているように見えたのは、夕日のせいだろうか。

 私たちは並んで教室を出る。

 かつては三歩後ろを歩いていた私が、今は横に並んでいる。

 廊下に伸びる二つの影が、時折重なり合いながら揺れていた。


「いい店を知ってるんです。日本酒が美味しいんですよ」

「私はワイン派だが、君の推奨解に従おう」


 エレベーターホールへ向かう足取りは、来る時よりも少しだけ軽かった。

 変数Xと変数Y。

 異なる軌道を描いていた二つの変数が、今、再び交わろうとしている。

 その交点がどんな座標になるのか、今の私にはまだ計算できない。

 けれど、予感はあった。

 この補習は、きっと長く、そして熱い夜になるだろうという予感が。

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