第2章世界を監視する瞳たち ― 希望が触れてはいけない領域

1 “何もなかった”朝


 鳥の声で目が覚めた。昨日の夜の異様な静寂とは対照的に、森はいつも通りの生命のざわめきで満ちている。

 ルシエルはひどい頭痛に眉を寄せながら、ゆっくりと身を起こした。


「……夢、じゃないよな」


 掌を開く。

 そこには何もない。ただの皮膚、ただの温度。なのに――

 昨夜、星の少女が掴んだ温もりだけが確かに残っていた。


 ふと振り返ると、森の奥へ続く地面には足跡すら残っていない。崩れた土も、焦げた跡も、割れた木も、光に焼かれた草も――何もない。


「こんな……あり得ないだろ……」


 村に戻る道を歩きながら、胸の奥で不安が波紋のように広がっていく。

 確かに見た。聞いた。触れた。

 なのに、世界は何事もなかったかのように形を戻している。


 まるで“誰か”が痕跡を消したように。


 ――監視者の瞳。

 あれは、本当にこの世界に属していたのか?


 考えれば考えるほど、足が重くなる。


2 戻らないはずの場所へ


 村の入口に近づくと、ちょうど畑の整備をしていた男がルシエルに気づいた。


「あれ、ルシエル? 昨夜どこ行ってたんだ?」


「森に……」


「森? 夜に? 危ないだろうが。まぁいいけどよ、村の周りは昨日から異常ないぞ。獣も出なかったし」


 ――異常が“無い”。


 あれだけの光と爆ぜるような衝撃があったのに?

 空に巨大な瞳が並んでいたのに?

 誰も気づいていない?


「……何か、変な音とか、光とか……見ませんでした?」


「音? 光?」

 男は目を瞬かせ、首をひねった。「何も。昨日は静かなもんだったぞ」


 静かだった?

 あれが“静か”?


 胸がざわざわとざわめき、喉がひどく渇いた。

 世界は、昨夜の出来事を無かったことにしようとしている。


 それとも――

 村人には、最初から見えなかった?


 彼らの目は“世界の監視者”の干渉を避けるように閉ざされている?


 思考の渦に飲まれそうになったとき、背後で声がした。


「おい、ルシエル!」


 振り返ると、幼馴染の エナ が駆け寄ってきた。

 栗色の髪を揺らし、息を切らしながら言う。


「昨日、いなかったでしょ! 家の人心配してたよ!」


「エナ……昨日、空……何か変なもの、見なかった?」


「空?」

 エナは目を丸くし、少し笑った。「夜に空なんて見てないよ。当番の見回りもしなかったし。何かあったの?」


 その一言で理解した。


 彼らには“見えていなかった”。

 この世界の大半の人間には、監視者の存在すら認識できない。


 なら――

 なぜ僕は見えた?


 胸の奥で、恐怖と同じくらいの好奇心が芽を出す。

 それは、昨日の少女が消える前に残した言葉が原因だった。


 ――「世界の檻」

 ――「あなた達の想像より残酷」


 僕はあの瞬間、世界の外側を垣間見たのだろうか?


3 “存在しない”痕跡


 日が落ち、村の灯りが揺れ始めたころ。

 ルシエルは再び森に足を運んでいた。


 誰かに話しても理解されない。

 なら、自分で確かめるしかない。


 夜の森はひどく冷たかった。

 だが、あの場所に近づくにつれて空気がざらつき、静電気のような刺激が肌を走る。


 ――あった。


 地面にひび割れたような光の線が、うっすらと残っていた。

 焦げ跡も、焼けた草も消されていたのに――

 これだけは消しきれなかったのか、もしくは“意図的に残された”のか。


「これ……何だ……」


 指先で触れた瞬間。


 世界が一瞬、揺らいだ。


 空の雲が逆再生したように巻き戻り、

 木々の影がざざざと滲む。


「……っ!」


 視界に、青い光が立ち現れた。


 少女だ。

 昨夜の、あの星の少女。


 ただし、そこに立つ彼女は透けていて、輪郭が破れている。

 まるで残像。


「……ル……シエル……?」


「え……?」


 聞こえる。

 姿も薄いのに、声だけは生々しい。


「ごめん……時間が……もう……ほとんど……」


「君はどこにいる!? まだ生きてるんだよな!?」


「うん……まだ“消されてない”。でも……早く……名前……返さないと……」


 名前。

 彼女が奪われたもの。


「どうすればいい!?」


「あなたは、“見える側”に選ばれた……。だから……監視者が……もうすぐ……」


 少女の目が大きく見開かれた。


「来る……!」


 空が裂けた。


 ――昨夜と同じ“瞳”が、森の上空に一斉に開いた。


 今度は、はっきりと僕を狙っている。


「ルシエル……! 逃げて……!

 今度は……守れない……!」


 少女の残像が崩れ落ちるように消えた。


 残されたのは、無数の瞳。

 ただ静かに僕を見下ろす存在しない“監視者”。


 息を呑んだまま、動けない。

 その中のひとつが、ゆっくりと光を収束させ


 放たれた。


 世界が白に塗り替わる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

灰色の神託は、空を知らない 星夜空 @mojamona

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ