灰色の神託は、空を知らない

星夜空

第1章 落ちる星の音を聞いた日

――星は落ちるとき、音を置いていくらしい。

 誰が言い出したのかは知らない。ただ、僕の村ではそれを「予兆」と呼び、決して触れてはいけない不吉の象徴とされていた。


 その夜、僕――ルシエル・トアは、眠れずに村の外れを歩いていた。月が薄く、風は止まり、遠くで鳥の羽ばたきさえ聞こえない。不自然な静けさが、世界を包み込んでいた。


「……変だな。今日の夜は、生き物の気配がしない」


 ふと、耳の奥がキン、と鳴った。

 次の瞬間――空が裂けた。


 音は“落ちる”というより、“こぼれた”に近かった。

 銀色の雫が大気を滑り落ち、地上へ向かって螺旋を描く。それは、僕が見たこともない速度で落下し、しかし不思議なことに、まるで慣性を無視するように、僕の目の前でぴたりと止まった。


 宙に浮かぶそれは、人の形をしていた。


 翼を持たない。

 けれど背中から淡い光を滴らせ、髪は夜空を吸ったような黒。

 目だけが、星の欠片のように青く光る。


 ――そして、落ちてきた“それ”は、ゆっくりと地上に膝をついた。


「……たすけ……て……」


 声は震えていた。

 星が喋ったのか? それとも人間なのか?

 僕には判別がつかなかった。


「君は……誰?」


「……名前……わからない。記憶……無い……でも……逃げないと……“監視者”が……追ってくる……」


 監視者?

 この世界には魔獣も盗賊もいるが、そんな名前の存在は聞いたことがない。


 だが、次の瞬間、僕は理解した。

 言葉ではなく、風景そのものが歪んだからだ。


 空に、目が開いた。


 無数の、虹色の瞳。

 それらが虚空に浮かび、瞬きもせずこちらを凝視してくる。


 背中が凍りついた。

 あれは、この世界の生き物じゃない――直感でわかった。


「来た……!」

 “落ちてきた少女”が僕の腕を掴む。「走って!」


 だが、村はすぐ近くだ。ここに連れていくわけにはいかない。


「待て、村に行くのは危険だ! お前を追ってるなら――」


「村人は……見られるだけで壊される……!」

 彼女は苦しそうに言った。「私を囲う“世界の檻”は……あなた達の想像より……もっと残酷……」


 何を言っているのか分からない。

 だが、目の前の“異形の瞳”は、理解よりも先に殺意を放ってきた。


 ひとつの瞳が、僕たちの真上に滑るように降りてくる。

 光が弾ける。

 地面に巨大な焦げ跡ができ、土が溶ける。


「まずい……ッ!」


 少女が僕の手を強く握った瞬間――

 世界が裏返った。


 色も形も失った空間に、僕たちは放り込まれる。

 上下の感覚が消え、体も心も引き裂かれるような痛みが走った。


「な、なんだこれ!?」


「……“遷界の隙間”……。私の力で、ほんの少しだけ……逃げられる……!」


 声が遠のく。

 少女の姿も霞んでいく。


「ルシエル……もし……もしあなたが……私を覚えていてくれるなら……」

 最後に、彼女は震えながら言った。


「どうか、私を見つけて。私は“消される”前に……あなたに名前を返すから……」


 光が弾けた。


 次に目を開けたとき、僕は村の外れの森に一人で横たわっていた。


 少女はいなかった。

 地面にあったはずの焦げ跡も、空の瞳も、どこにも無い。


 ――でも、手のひらにだけ、微かな温もりが残っていた。


 その瞬間、胸がざわついた。

 まるで、何か大切なものを落としてしまったような感覚。


「……必ず、探す。

 君の名前も、あの夜の真実も、全部」


 風が吹き、夜をかき混ぜる。

 それでも、あの星の少女の声は確かに残っていた。


 こうして僕は、“見えない監視者が支配する世界”に踏み込んでいく。

 この星の下に、僕が知らなかった“もうひとつの層”があるとは知らずに。

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