第一章第三節
黒い影が空を裂き、村の外れへ落ちた。
その瞬間、地面が揺れ、人々の悲鳴が夜に溶けていく。
魔王軍は――本当に来た。
アレンは走っていた。
足がもつれ、転びそうになりながらもただ前へと。
自分でも理由が分からない。ただ胸の奥が焦げるように熱く、逃げ出したいのに逃げられなかった。
守りたい。
そんな大それた言葉を使う資格なんて、自分にはない。
中級魔法しか使えず、村でも笑われてきた落ちこぼれなのだから。
それでも足は止まらなかった。
◆
村から少し離れた丘。
そこでアレンは“それ”を見た。
「……化け物だ……」
血のように赤い双眸。
異様な体躯を持つ魔族の兵士たちが、地面をずるりずるりと引き裂きながら進んでくる。
十体――いや、もっといる。
その中心で翼を広げる黒鉄のような巨躯。
間違いなく小隊の“隊長級”だ。
アレンの足が止まった。
喉が乾ききり、呼吸が喉の奥で引っかかる。
(無理だ……勝てるわけがない……)
中級魔法では、耐久も攻撃力も足りない。
上級魔術師の城壁でさえ破られる相手だ。
それでも魔族の視線は、アレンの細い身体を確かに捉えていた。
「人間を皆殺しにする」
「来るな……来るな……!」
アレンは震える手で魔法陣を描く。
「《炎撃》《水衝》《雷矢》……っ、くそ……!」
三つ展開するだけで魔力が震える。
恐怖のせいで魔力が揺らぎ、集中できない。
魔族が一斉に駆け出した。
大地が揺れる。
迫り来る殺気が、刃のように肌を切り裂く。
「やめろ……やめろッ……!!」
放った魔法は、魔族の身体に傷をつけることすらできなかった。
まるで豆鉄砲だ。
アレンの身体が宙に浮き、次の瞬間地面に叩きつけられた。
「……ッあ……!」
肺の中の空気がすべて吐き出される。
視界がぐらつき、世界が遠ざかっていく。
魔族が一体、口を開いた。
鋭い牙が月光に照らされて光る。
――死ぬ。
その瞬間だった。
◆
耳の奥に、
まるで水の底から響くような声が、ゆっくりと滲み出してきた。
『……アレン』
聞き覚えのない声。
だが、どこか懐かしい音色。
『……助けてやろうか?』
(……誰だ……?)
アレンは血の味がする唇を噛みしめる。
『力が欲しいのだろう?
お前の願いは簡単だ。
魔王軍を倒したい――そうだろう?』
胸の奥が冷たくなる。
それは確かに“誘惑”の声だった。
その時、ふと幼い頃の父の声がよみがえった。
『アレン、悪魔には絶対に関わるな。
やつらは力を与える代わりに、魂の欠片を持っていく。
でもな――もし本当に守りたいものがあるなら……』
焚き火越しに見た父の横顔。
あの夜だけは、なぜか妙に真剣だった。
『悪魔と契約するかどうかは……最後は“お前自身”が選ぶんだ』
その言葉が、今になって胸を刺した。
◆
『アレン……選べ』
声が、耳の奥で低く唸る。
『生きたいなら、力をよこせ。
お前の身体を十分――それだけでいい。
私は“お前のために戦う”』
十 分 間。
その間、身体は悪魔に支配される。
その危険性は、アレンにも分かっていた。
たった十分でも、命や心がどうなるか分からない。
だが――
村の方角から、誰かの悲鳴が聞こえた。
「やめて……! 子供が……!」
アレンの心臓が跳ねた。
肺が焼けるほど息を吸い、叫びたくなるほどの衝動が胸を叩く。
(守りたい……誰でもいい……誰でもいいから……誰か……誰かを守りたい……!)
震える手がゆっくりと握られる。
怯え、恐怖、苦悩、絶望――その全てが、
ひとつの覚悟へと変わっていった。
「……分かった……」
『ほう?』
「力を……貸してくれ……!
十……分だけだ……!
村を……誰も……死なせたくない……!」
そこには弱く脆く、
それでいて何より“強い”人間の叫びがあった。
『契約は成立だ。
アレン・リュース――お前の願い、確かに受け取った』
次の瞬間。
アレンを中心とし、黒煙が舞い広がる
◆
「ッ……ぐ……ああああああああああ!!」
身体が跳ね上がり、闇色の魔力が四散する。
骨が軋み、血液が逆流するような感覚。
世界の色が反転し、音が歪んでいく。
アレンの蒼い瞳は、ゆっくりと――赤黒く塗りつぶされた。
『――十 分 間、借りるぞ』
声が身体の奥から響き渡り、
その瞬間、アレンの周囲で空気が爆ぜた。
闇の魔力が渦を巻く。
魔族たちが一斉に後ずさる。
「……な、に……あれ……?」
「け、気配が……変わった……!?」
闇の中、アレン――いや、“何か”が立ち上がる。
指先から溢れる魔力は、底なしの海のように深く、濃く、濁っている。
『退屈な雑兵どもだな――消えろ』
アレンの手が、ゆっくりと横へ振られた。
それだけで――
地平線が裂けた。
黒炎の奔流が龍のように咆哮を上げ、魔王軍の一隊を丸ごと飲み込む。
巨躯の隊長が叫ぶ暇すらなく、影となって消えていった。
爆発音ではない。
大気が悲鳴を上げる音だった。
丘に生えていた木々がすべて根こそぎ吹き飛び、地面が抉れ、
夜空すら黒く染まる。
まさに、
自然法則をねじ曲げる“最上位魔法”の威力だった。
魔王軍は――
瞬殺。
それを見た魔族たちは、震えながら逃げようとする。
しかし、悪魔は笑った。
『逃がすと思うか?
十分間は――私の“遊び時間”だ』
次の瞬間、全方向に闇の刃が放たれ、
逃げる影すら残さず、世界は静寂に包まれた。
◆
すべてが終わったあと。
アレンの身体は揺れ、崩れ落ちた。
『……感謝するといい、人間。
お前は確かに――選んだのだ』
その声だけが響き、アレンの意識は暗い闇に沈んでいった。
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