第一章第三節

黒い影が空を裂き、村の外れへ落ちた。

 その瞬間、地面が揺れ、人々の悲鳴が夜に溶けていく。


 魔王軍は――本当に来た。


 アレンは走っていた。

 足がもつれ、転びそうになりながらもただ前へと。

 自分でも理由が分からない。ただ胸の奥が焦げるように熱く、逃げ出したいのに逃げられなかった。


 守りたい。


 そんな大それた言葉を使う資格なんて、自分にはない。

 中級魔法しか使えず、村でも笑われてきた落ちこぼれなのだから。


 それでも足は止まらなかった。



 村から少し離れた丘。

 そこでアレンは“それ”を見た。


「……化け物だ……」


 血のように赤い双眸。

 異様な体躯を持つ魔族の兵士たちが、地面をずるりずるりと引き裂きながら進んでくる。

 十体――いや、もっといる。


 その中心で翼を広げる黒鉄のような巨躯。

 間違いなく小隊の“隊長級”だ。


 アレンの足が止まった。

 喉が乾ききり、呼吸が喉の奥で引っかかる。


(無理だ……勝てるわけがない……)


 中級魔法では、耐久も攻撃力も足りない。

 上級魔術師の城壁でさえ破られる相手だ。


 それでも魔族の視線は、アレンの細い身体を確かに捉えていた。


「人間を皆殺しにする」


「来るな……来るな……!」


 アレンは震える手で魔法陣を描く。


「《炎撃》《水衝》《雷矢》……っ、くそ……!」


 三つ展開するだけで魔力が震える。

 恐怖のせいで魔力が揺らぎ、集中できない。


 魔族が一斉に駆け出した。

 大地が揺れる。

 迫り来る殺気が、刃のように肌を切り裂く。


「やめろ……やめろッ……!!」


 放った魔法は、魔族の身体に傷をつけることすらできなかった。


 まるで豆鉄砲だ。


 アレンの身体が宙に浮き、次の瞬間地面に叩きつけられた。


「……ッあ……!」


 肺の中の空気がすべて吐き出される。

 視界がぐらつき、世界が遠ざかっていく。


 魔族が一体、口を開いた。

 鋭い牙が月光に照らされて光る。


 ――死ぬ。


 その瞬間だった。



 耳の奥に、

 まるで水の底から響くような声が、ゆっくりと滲み出してきた。


『……アレン』


 聞き覚えのない声。

 だが、どこか懐かしい音色。


『……助けてやろうか?』


(……誰だ……?)


 アレンは血の味がする唇を噛みしめる。


『力が欲しいのだろう?

 お前の願いは簡単だ。

 魔王軍を倒したい――そうだろう?』


 胸の奥が冷たくなる。

 それは確かに“誘惑”の声だった。


 その時、ふと幼い頃の父の声がよみがえった。


『アレン、悪魔には絶対に関わるな。

 やつらは力を与える代わりに、魂の欠片を持っていく。

 でもな――もし本当に守りたいものがあるなら……』


 焚き火越しに見た父の横顔。

 あの夜だけは、なぜか妙に真剣だった。


『悪魔と契約するかどうかは……最後は“お前自身”が選ぶんだ』


 その言葉が、今になって胸を刺した。



『アレン……選べ』


 声が、耳の奥で低く唸る。


『生きたいなら、力をよこせ。

 お前の身体を十分――それだけでいい。

 私は“お前のために戦う”』


 十 分 間。

 その間、身体は悪魔に支配される。


 その危険性は、アレンにも分かっていた。

 たった十分でも、命や心がどうなるか分からない。


 だが――


 村の方角から、誰かの悲鳴が聞こえた。


「やめて……! 子供が……!」


 アレンの心臓が跳ねた。

 肺が焼けるほど息を吸い、叫びたくなるほどの衝動が胸を叩く。


(守りたい……誰でもいい……誰でもいいから……誰か……誰かを守りたい……!)


 震える手がゆっくりと握られる。


 怯え、恐怖、苦悩、絶望――その全てが、

 ひとつの覚悟へと変わっていった。


「……分かった……」


『ほう?』


「力を……貸してくれ……!

 十……分だけだ……!

 村を……誰も……死なせたくない……!」


 そこには弱く脆く、

 それでいて何より“強い”人間の叫びがあった。


『契約は成立だ。

 アレン・リュース――お前の願い、確かに受け取った』


 次の瞬間。


 アレンを中心とし、黒煙が舞い広がる



「ッ……ぐ……ああああああああああ!!」


 身体が跳ね上がり、闇色の魔力が四散する。

 骨が軋み、血液が逆流するような感覚。

 世界の色が反転し、音が歪んでいく。


 アレンの蒼い瞳は、ゆっくりと――赤黒く塗りつぶされた。


『――十 分 間、借りるぞ』


 声が身体の奥から響き渡り、

 その瞬間、アレンの周囲で空気が爆ぜた。


 闇の魔力が渦を巻く。

 魔族たちが一斉に後ずさる。


「……な、に……あれ……?」


「け、気配が……変わった……!?」


 闇の中、アレン――いや、“何か”が立ち上がる。

 指先から溢れる魔力は、底なしの海のように深く、濃く、濁っている。


『退屈な雑兵どもだな――消えろ』


 アレンの手が、ゆっくりと横へ振られた。


 それだけで――


 地平線が裂けた。


 黒炎の奔流が龍のように咆哮を上げ、魔王軍の一隊を丸ごと飲み込む。

 巨躯の隊長が叫ぶ暇すらなく、影となって消えていった。


 爆発音ではない。

 大気が悲鳴を上げる音だった。


 丘に生えていた木々がすべて根こそぎ吹き飛び、地面が抉れ、

 夜空すら黒く染まる。


 まさに、

 自然法則をねじ曲げる“最上位魔法”の威力だった。


 魔王軍は――

 瞬殺。


 それを見た魔族たちは、震えながら逃げようとする。


 しかし、悪魔は笑った。


『逃がすと思うか?

 十分間は――私の“遊び時間”だ』


 次の瞬間、全方向に闇の刃が放たれ、

 逃げる影すら残さず、世界は静寂に包まれた。



 すべてが終わったあと。

 アレンの身体は揺れ、崩れ落ちた。


『……感謝するといい、人間。

 お前は確かに――選んだのだ』


 その声だけが響き、アレンの意識は暗い闇に沈んでいった。

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