不意打ち

見鳥望/greed green

 ーーヤバイ、限界だ。


 休日、気付けば社会人三年目を迎え荒波にもまれながら過ごす日々の中、久しぶりに大学の友人達と飲み明かした。自分含め変わらずバカばっかりだが、大人ぶってはしご酒の末最後は洒落たバーなんかにも入った。しっとりとした空気感と今まで飲んだことのない酒の味に酔いしれ、気付けばすっかり泥酔状態だった。


「気を付けて帰れよ」


 健司の声に手を上げ応えた。意識はわりとはっきりしていたが、視界と足取りはひどくおぼつかなかった。一人暮らしの自分の家に電車を乗り継いで帰るのはなかなかな苦行だった。


 ようやく最寄り駅に降り立ちしばらく歩いていると途端に強烈な便意をもよおした。なんとか堪えたい所だったが、酒のせいもあって足取りは重く家までは到底間に合わない。コンビニでもあれば良いが絶妙に何もない路地の中、引き返して駅まで戻るのも厳しい。

 

 そんな所に公園の公衆便所が目に入った。

 昔からずっとあるのか薄汚れ寂れた公園だった。そんな所の公衆便所をわざわざ利用した事はないし、したいと思ったこともない。だが今は緊急を要する状況だ。正直酔いの中でさえ迷いはあったが背に腹は代えられない。俺はよろよろと公衆便所に入っていった。

 

 まるでホラーゲームのような頼りなくチカチカとした電灯の中、三つある個室の一番手前に入る。一番油断してはならない瞬間。どろどろになった脳にしては上出来だ。こんな時にも冷静な思考はまだ保たれている。落ち着きながらもパンツを下ろしすぐさま用を足す。


 解放。そこはかとない安心感と恍惚感。

 危うい所だった。さすがに若いとはいえ調子に乗って油とアルコールを腹にぶちこみ過ぎた。次回からは気を付けた方がよさそうだ。


 こんこんこん。


 そんな事を考えていると不意に物音がした。

 

 ーーノック?


 なるほど。自分と同じく窮地に陥った類の人間か。だが残念ながらまだ腰を上げる程の余裕はない。完全に波が引いているわけではないのでもうしばらくは滞在させてほしい。まだ無理だという意味も含め俺は内側からノックを返す。


 こんこんこん。


 全く変わらない調子でまたノック音がした。なんだこいつ。居るって言ってるだろうが。


 こんこんこん。


 ーーあれ?


 こんこんこん。


 同じリズムと間隔で繰り返されるノック。反射的に何も考えずノックを返してしまったがそこでようやくおかしな事に気が付いた。

 ノック音は正面の扉ではなく右隣の個室から鳴っていた。


 ーー隣に人なんていたか?


 便意にばかり意識がいってよく覚えていないが、とにかく一番近い手前の個室を選んだ。しかし普通に考えてこんな時間に夜中の寂れた公衆便所に先約がいるとは考えづらい。気付かぬうちに隣に陣取られたという事か。


 ーーいや待てよ。


 急激に酒が抜けて頭がクリアになっていく。冷静さを取り戻すとどんどん違和感が一気に強くなっていく。


 ーー何の為のノックだ?


 ノックをする状況なんて個室が埋まっていて我慢ならない時ぐらいだろう。ただ現在ほぼ唯一と思われるその可能性すら潰されている。ノックは扉ではなく右隣の個室から行われている。隣からわざわざノックをする理由なんてあるか?


 ーーあ。


 そうか、あるぞ。至極ベタな理由があるじゃないか。なんだそれならそうと言ってくれたらいいのに。自分の個室をぐるりと確認する。備え付けのトイレットペーパーは横並びに設置されており、手前がなくなったら奥からスライドさせて使用できるようになっている。

 なるほど、これが欲しかったという事か。俺は奥のペーパーを取り出す。そしてペーパーを投げようと上を見上げた瞬間動きが止まった。


 ーー……は?


 視界に映るものがなんなのか認識できない。最初何かがぶら下がっていたり引っ掛かっているのかと思った。

 違う。認識できないのではなく脳が拒絶していたのかもしれない。

 肌色と小さく四角い無機物。それはスマホを持った人間の手首だった。スマホはカメラか動画を撮るように俺を見下ろしていた。

 

 酒は完全に抜け、あれだけ波打った腹の違和感は一瞬にして掻き消えた。下ろしたパンツを勢いよく履き直しろくにベルトも締めずに慌てて個室を飛び出した。完全にパニックだった。振り返る事もせず全速力で家へと突っ走った。


 自室の扉を開けるやいなやその場に崩れ落ちた。心臓は爆発しそうなほど脈打ち、全身の筋肉が恐怖で震えていた。


 ーーなんだあれ。


 思考は入り乱れまるで整理がつかない。隣からのノック。見下ろす手首とスマホの映像が頭にこびりついて離れない。

 まるで意図が分からない。なんであんな事をされなければならないのか。俺が用を足している様を盗撮していたという事なのか。じゃあなぜわざわざノックなんてするのか。


 ーー……まさか。


 あいつらのドッキリかイタズラか。べろべろに酔っている俺を実は後からつけていたとか。

 いや、バカではあるがこれは笑えない。笑えないようなイタズラをするような奴らではない。じゃああれは一体……これは俺の姿がどこかで晒される可能性があるという事なのか。


 分からない。何もかもが分からない。俺は一体どうすればいい。

 警察。いや、警察がこんな話信じてくれるか? 今の時点で明確な実害も発生していない。何より泥酔状態だった事もある。


 結局思考は巡るばかりで何も出来ず、その日はろくに睡眠すらとれずに一夜を明かした。








 えらいもので一週間も過ぎればあの日の恐怖はほぼ払拭されていた。帰り道の都合上どうしても公園の横を通る必要があり、その都度嫌な気持ちになったがそれでも身体と頭は慣れていった。よからぬ俺の映像が世間に晒されるのではという恐怖もあったが、今の所心配しているような事は起きていなかった。


 念のためあの日飲んだメンバーにも確認してみた。泥酔していてそもそも記憶がない者もいたが、意識がちゃんとあった者からも『そんな事は誰もしていないし、皆それぞれ真っすぐ帰ったと思う』との事だった。


 たまたまあの日あの場に居合わせた頭のおかしい奴のイタズラか何か。そう思う事であの日の出来事は片付ける事にした。

 




 それから数日後の休日の朝、唐突なチャイム音で目を覚ました。仕事で疲れた身体を引きずり不機嫌を隠すことなく扉を開けると、チェーン越しに背広を着た男性二人が立っていた。


「お休みの所申し訳ございません。少しお話聞かせていただけますでしょうか?」


 そう言って男は俺の前に警察手帳を取り出した。






【速報】都内で男をバラバラ殺人容疑で逮捕 犠牲者を公衆便所で“流した”疑い

 警視庁は新山健司容疑者(年齢不詳)を、都内で発生したバラバラ殺人事件の犯人として緊急逮捕したと発表した。容疑は被害者の遺体の四肢や胴体を切断し、近隣の公衆トイレの便所内で“流す”行為を行ったという極めて猟奇的かつ残忍な内容だ。

 捜査関係者によると先週末に通報を受け現場検証を行ったところ、公衆便所の下水管から複数の異臭とともに人体の一部と思われる断片が発見された。これを受けて警視庁捜査員が監視カメラ映像や近隣の聞き込みを進めたところ、容疑者である新山の行動に矛盾が浮上。事情聴取の末、逮捕に至ったという。

 警察は新山容疑者が被害者を殺害後、便所に遺体を捨てたものの、詰まりや流れにくさなどの事情から「複数回にわたり身体の部位を切り分け、何度も流していた可能性が高い」とみている。現場の便所は現在封鎖され、専門家による鑑識作業が続行中だ。

 また警視庁は、被害者の身元確認とともに、容疑者が単独か、あるいは共犯者がいるかどうかについても捜査を拡大。近隣住民やトイレを日常的に利用する人々に対し、不審な人物や異臭・異常な振る舞いを見かけた場合の通報を呼びかけている。







 絶望的なまでの嫌悪と恐怖を二度と取り除けないトラウマとして脳の奥の奥に埋め込まれるような、そんな最悪の感覚だった。


 強烈な便意と酒のせいで正常な意識を奪われていた俺は自分の解放された便意に安堵していた。その横で想像を絶する残虐な行為が行われていた事も知らずに。

 俺が用を足す前から新山健司という男は解体した被害者の身体をトイレに流し続けていた。俺がトイレに入ってきたのは新山からすれば不意打ちだっただろう。


『その場で殺す事も考えたが、一旦監視する事にした』


 なのに新山の行動は妙に冷静で不気味なものだった。個室に籠る俺を新山は自身のスマホで撮影した。

 後からこの事実を聞いた時、思わず悲鳴を漏らした。

 一歩間違えていたら俺は殺されていた。声を出していたら、トイレットペーパーを投げ込んでいたら、逃げるのが遅れていたら、もし新山より先にあのトイレに入っていたら。様々な仮定が頭を過りあまりの恐怖に思わず吐いた。

 本当に危なかった。助かって良かった。


『念のためもう一度確認させてもらいたいのですが』


 新山が逮捕されてから警察に再度聴取を受けた。そこで知りたくもない真実を知る事になったわけだが、ここからが奇妙だった。


『あの日、隣からノックされたのは間違いありませんか?』


 変な質問だなと思った。何故わざわざそんな事を確認するのか。この時点で警察としては新山が犯人で確定していた。ノックの事実がどうであれそれは変わらないはずだ。

 酔っていたとはいえノック音に関してははっきり記憶に残っていたので、俺は間違いないですと改めて答えた。


『新山はノックなんてしていないそうです』


 ノックなんてすれば自分が横にいる事を主張するようなものだ。撮影はしたがそんな事をする意味はない。自分は一度もノックなんてしていない。

 それが新山の答えだった。


『まあ今更関係はないんですけどね。お酒も飲まれていたようですし。でも、良かったですね。そのノック音が聞こえてなかったら、撮られている事に気付けなかったわけですから』


 じゃああのノック音は何だったんだ。

 新山からすれば俺が内側からノックを返した事も奇妙だったのだろう。現実的な怖さの上に不意にオカルト的な怖さが加わった。


 とはいえ、警察の言う通りあのノック音がなければ俺は新山の存在に気付けなかった。もしかすると俺も一緒にあのトイレに流されていた可能性もあったかもしれない。そういう意味では俺はあのノック音に助けられた事になる。もしかすると被害者の無念やらが存在を主張したのか俺を助けてくれたのかもしれない。そうだとするなら感謝しかない。


『健司? 健司って誰だよ』


 ただもう一つこれとは別に奇妙な事があった。何てことないものではあるが妙に頭に残っていた記憶に後になって違和感を覚え、あの日飲んだ友人達に確認を取った。


“気を付けて帰れよ”


 別れ際に掛けられた健司の声。はっきりと脳がそれを健司の言葉と認識し、”健司”という漢字までしっかりと頭の中にも浮かんでいた。

 

 健司なんて友人はいない。あの日飲んだメンバーにも、当時から仲良くしていた仲間達の中にもそんな人間はいない。なのに俺はその場に健司といういないはずの存在を認識していた。


 新山健司。


 あの日聞いた声と犯人の名前の一致。これが何の偶然なのかは分からない。ただ自分の中で警告のようで悪戯めいた邪悪な悪意にも思えた。


 何をどう考えても説明がつかない出来事に、俺はそれ以上考える事を止めた。

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