第一章

第11話 ついてくるか

 翌朝。


 エルフィは宿を出た。日が昇ったばかり。空気が冷たい。街はまだ静かだ。昨夜の喧騒が嘘のように静まりかえっている。


 ギルドへ向かった。クエストを探すためだ。金が必要だった。宿代を払うと、残りは心もとない。旅を続けるには、稼がなければならない。


 石畳を歩く。朝露が光っている。パン屋の煙突から煙が上がっている。焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。一日が始まろうとしている。


 昨日のことを思い出した。


 あの少女。ネルフィア。何度も挑んできた。何度も倒れた。それでも立ち上がった。泣きながら、笑いながら。


 変わった子だった。


 ギルドに着いた。


 扉を開けた。


 中は思ったより賑やかだった。朝から冒険者たちがいる。酒を飲んでいる者もいる。朝から酒を飲むのか。そういうものなのだろう。


 そして、声が聞こえた。


「だから! ランク上げてって言ってんの!」


 聞き覚えのある声だった。


 カウンターの前。少女が立っていた。昨日の少女。ネルフィア。剣を背負っている。体中に擦り傷がある。昨日の傷だろう。


 カウンターの向こうにはベルグがいた。腕を組んで、少女を見下ろしている。


「何度言えば分かる。ランクは実績で上がるもんだ」

「だからクエスト寄越せって!」

「お前のランクで受けられるのはそこにある」


 ベルグが壁を指した。掲示板。羊皮紙が何枚も貼ってある。


「こんなの雑用じゃん! 薬草採取とか、荷物運びとか!」

「雑用じゃねぇ。立派な依頼だ。どれも誰かが困って出してる依頼だ」

「でも魔物討伐がしたいの! 戦いたいの!」

「お前のランクじゃまだ早い」

「なら実績を積ませてよ!」

「だからその実績を積むクエストを――」

「堂々巡りだな」


 ベルグがため息をついた。大きなため息。慣れた様子だった。呆れているようで、どこか楽しそうでもあった。


 周りの冒険者たちも慣れた様子で見ている。毎朝の光景なのだろう。誰も驚いていない。誰も止めない。むしろ朝の風物詩のように眺めている。


「ネルフィア」


 ベルグが言った。


「お前、昨日ボロボロになってただろう。誰にやられた」


 ネルフィアの顔が変わった。悔しそうな顔。でも、どこか嬉しそうな顔。


「……あの人」

「あの人?」

「昨日、ギルドに来てた人。あんたが戦ってた」


 ベルグの目が細くなった。


「何度やっても勝てなかった。一度もかすらなかった」


 ネルフィアが言った。


「でも、楽しかった。すっごく楽しかった」


 その時、ベルグの視線が動いた。入口の方へ。エルフィを見た。


「……噂をすれば」


 ネルフィアが振り返った。


「あ!」


 顔が輝いた。駆け寄ってきた。足を引きずりながら。


「昨日の! また会えた!」


 エルフィは答えなかった。少女を見ていた。


 あれだけ負けたのに、また会えて嬉しそうにしている。普通なら避けるだろう。恥ずかしいと思うだろう。この少女は違う。


「ねえねえ、今日も立ち合いしてくれる?」

「……怪我が治ってからにしろ」

「これくらい平気!」


 平気ではないだろう。足を引きずっている。


 エルフィはネルフィアの横を通り過ぎた。掲示板へ向かった。依頼を探す。


 依頼がいくつも貼ってある。薬草採取。荷物運搬。害獣駆除。魔物討伐。ランクによって受けられるものが違うらしい。


「お前さん」


 ベルグが声をかけてきた。


「依頼を探しているのか」

「……ああ」

「好きなのを選べ。お前さんなら何でも受けられる」


 エルフィは掲示板を見た。


 魔物討伐の依頼があった。森に棲む魔物。村が困っている。報酬はそれなりだ。


 手を伸ばした。依頼書を取った。


「あ、それあたしも行きたかったやつ!」


 ネルフィアが言った。


「でもランクが足りなくて受けられなくて……」


 エルフィはネルフィアを見た。


 昨日の立ち合いを思い出した。何度も挑んできた。何度も倒れた。何度も立ち上がった。泣きながら、それでも立ち上がった。


 そして、魔力の流れを思い出した。


 あの少女が剣を振るたびに、魔力が滞っていた。詰まっていた。フィルターがかかったように。剣を通る時に、力が削がれていた。出力が落ちていた。本来の力が出ていなかった。


 本人は気づいていないだろう。比較対象がないから。ずっと剣を使ってきたから。でも、エルフィには分かった。二千年、数え切れないほどの戦いを見てきた。魔力の流れを見抜く目がある。


 剣ではない。


 あの少女に合う触媒は、剣ではない。もっと他の何かがあるはずだ。


「……ついてくるか」


 エルフィは言った。


 ネルフィアの目が丸くなった。


「え?」

「修行だ。実戦の」


 ネルフィアの顔が輝いた。眩しいほどに。太陽のように。


「いいの!? 本当に!?」

「……気が変わらないうちに準備しろ」

「やった! ありがとう! 絶対邪魔しないから! 足引っ張らないから!」


 飛び跳ねた。足が痛そうだった。でも、気にしていない。嬉しさが痛みを忘れさせている。


「荷物は? 準備は?」

「家に取りに帰る! すぐ戻る! 待っててね!」


 走り出そうとして、足がもつれた。よろけた。でも、立ち直って走っていった。痛いはずなのに。


 エルフィは見送った。


 ベルグがカウンターから出てきた。エルフィの前に立った。大きな体。大剣を背負っている。ギルド長の威厳。でも、今は違う表情をしていた。


「お前さん」

「何だ」

「……羨ましいな」


 エルフィは眉をひそめた。


「何がだ」

「弟子ができて。一緒に旅ができて」


 ベルグの目が遠くを見ていた。どこか寂しそうな目だった。大戦を思い出しているのかもしれない。戦乱の時代。仲間がいた時代。


「俺はギルド長になっちまった。この街から離れられねぇ。旅なんてできねぇ」


 ベルグは自嘲するように笑った。


「若い奴を見送るばかりだ。羨ましいよ、本当に」


 周りの冒険者たちがざわついた。


「おいおい、ギルド長が羨ましいって言ってるぞ」

「そんなギルド長見たくねぇ……」

「しっかりしてくれよ、ギルド長」

「あの人、何者だよ。ギルド長にあんな顔させるなんて」

「昨日、ギルド長膝を付かせたやつだろ? 俺見てたぞ」

「マジかよ。あのギルド長を?」

「嘘だろ……」


 ざわめきが広がる。エルフィは気にしなかった。


 ベルグも気にしていないようだった。エルフィだけを見ていた。


「いい旅を」

「……ああ」


 しばらくして、ネルフィアが戻ってきた。大きな鞄を背負っている。剣も背負っている。息を切らしている。走ってきたのだろう。


「お待たせ! 準備できた!」


 エルフィは依頼書を持って歩き出した。


 ネルフィアがついてきた。隣に並んだ。顔が嬉しさで溢れている。


「ねえねえ、何の魔物? 強い? どこにいるの?」

「……森だ」

「森! いいね! 楽しみ!」


 エルフィは答えなかった。


 でも、悪い気はしなかった。


 五百年ぶりだった。誰かと一緒に歩くのは。誰かの声を隣で聞くのは。誰かに名前を呼ばれるのは。


 あの方が死んでから、ずっと一人だった。谷の底で、誰とも話さず、誰とも歩かず、ただ息をしていた。それが当たり前になっていた。一人でいることが普通になっていた。


 でも、今は違う。隣に誰かがいる。声が聞こえる。足音が聞こえる。温かさがある。


 気まぐれだ。ただの気まぐれだ。


 そう思っていた。そう思いたかった。


 ギルドを出た。朝日が眩しかった。街が動き出している。人々が歩き始めている。馬車が通り過ぎる。子供たちが走っている。一日が始まる。


「よろしくね、エルフィ!」


 ネルフィアが言った。満面の笑み。眩しい笑顔。


 エルフィは答えなかった。


 でも、歩調は合わせた。少女の足に。引きずる足に。ゆっくりと。急がずに。


 二人は歩き出した。


 城門へ向かって。森へ向かって。新しい旅へ向かって。

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