ご気分は最悪です

@sabo527

ご気分は最悪です

 病院の白い天井。近くにも遠くにも聞こえる何かの機械音。

「お目覚めのようですね」

 清潔そうな白衣を纏った男性が身をかがめて尋ねてきた。

「ご気分はいかがですか」

 僕はゆっくりと辺りを見回し、手足の感覚を確認した。

「なんだか頭の中がすっきりした気分です」

 医師はその答えにうなずき、それから時計を見ながら手元のキーボードに何かを打ち込む。

「お名前は、言えますか」

 はい、と僕は答える。「僕は…」

 その瞬間かすかに医師の表情が曇ったように見えたのは気のせいか。

「僕の名前は、ヤギハシ、ヨシフミ、です」

 医師は再びキーボードを叩き、ご家族がお待ちですと言った。いつからいたのだろうか看護師が周囲の機材を片付けている間、病室の外では医師が両親に何事かを説明している。

 ドアが開かれ母親がベッドの側へと通された。

「かあさん…」

「頑張ったね。ちゃんと元通りになったそうだよ」

 父も脇の椅子に座った。

「うん、先生の話だとすっかり元通りだそうだ。今日明日にでも退院出来るみたいだな」

 だがふたりの表情はなぜか複雑そうに見える。なぜだろう。考えすぎだろうか。

「まあ今日はゆっくりして明日家に帰ればいいんじゃない?」

 母がそう言い父もそれにうなずいた。そして、いろいろ準備もあるからとそそくさと帰って行き、僕は病室にひとり残された。


 退院の手続きが長引いて、家に着いたのは夕方にさしかかる時分だった。本棚にぎっしり並んだ背表紙を眺め、どれもその内容に覚えがないことに気付く。当然だ。僕はその本を読んでいない。着替えた部屋着は、それが着慣れたもののようにしっくりくるくせに、僕の好みではまず買わないようなものだった。

 慣れるしかないな。本を一冊手に取ってペラペラとページをめくるものの、細かい文字に目が痛くなる。

 その時扉が開いて彼女が駆け込んできた。

「ヨシくん…」

 彼女は僕の顔をまじまじも見つめ、それから右手で頬に触れた。

「ヨシくん、だよね」

 多分予感はしてたと思う。僕は、と答えかけた瞬間、彼女の瞳から涙がこぼれた。そして、ごめんなさいと絞り出すように言って部屋を出て行った。

 慣れなければいけないことが多すぎる。


 自分が元通りに治ったことは、復学してすぐに周囲に知れ渡ったようだ。みんな腫れ物に触るように近づいては、二言三言話して落胆して去って行く。

 これは僕が悪いのか。彼女はあれから側にも来ない。幼馴染みのミツオが部屋を尋ねてきたのは次の日曜だった。

「その、元気か」

「うん…元通り、さ」

「卒業式以来だな」

 高校が別れて、いや、三年に上がったあたりから彼とは疎遠になっていた。なっていた、と思う。病気の兆候は二年の夏休み明けには始まっていた。進級でクラスが別々になった頃までは覚えている。

「俺は、嬉しいよ。帰ってきてくれて」

 そう言ってくれるのはミツオだけかも知れない。僕は気付くと声も出せずに泣いていた。

「なんか近寄りがたくなっちゃってな、ごめんな」

 片思いの彼女と同じ高校に行きたい。そう思って勉強を始めたものの、小学生からの怠惰が祟ってちっとも身に付かなかった。遊ぶ間も惜しんで、することといえば参考書の文字を上滑りするだけ。だから、二年次の期末考査で学年一位を取ったことは周囲を驚かせた。

 でも僕は覚えている。自分の力ではなかったことを。この病気は強いストレスから精神を守るために発症する場合もあるそうだ。そしてそれはやがて僕自身を“差し置いて”一人歩きを始めた。

「慣れなきゃ、だな」

 僕が、僕自身が理想としていた優秀で人当たりが良く博識な、彼女が好きになるような好人物ではないということに慣れるしかないのだろう。

 ミツオが帰った後も一晩中眠れずに考えた。両親も、自分の学力では望み得ない高校で出来た友人たちも、彼女も、“僕”ではない“俺”の帰りを今でも待っているのだとしたらこの先どうやって生きていけるのか。

 死んだ方が良いのかなあ。ふとそういう考えが頭をよぎった瞬間、胸の奥から声が聞こえた。

《だったら替わってくれよ》

 今まで感じたことがないほどの頭痛に見舞われ、僕は意識を失った。


 “俺”は“僕”とは違い、誰からも愛される存在だった。こんな自分より、“俺”の方がずっと優秀で、性格も良い。両親も、彼女も、友人たちも、“俺”の帰りを待っている。

 なのに、同じ病室の天井を眺めているのは“僕”だ。

「思うように成果を上げられない苦悶のうちに、優秀な《もうひとりの自分》が生まれてしまったのでしょう」

 医師はそう告げる。同じ外見でもずっと華やかな“俺”の方を、誰もが好ましいと思うはずだ。ミツオは悲しむかも知れないが、僕が“俺”を演じるには、今回の昏倒がチャンスなのかも知れない。その方がみんなが喜ぶとベンサムだって言うだろう。より多くのひとの幸福の前では僕とミツオの希望は我が儘に過ぎない。

 だが、どれだけ努力しても“俺”のようにはなれないだろうとも思う。いずれ化けの皮が剥がれて、今よりももっと周囲を落胆させるに決まってる。

「ご気分はどうですが」と医師が目覚めた僕に問いかけるが答えは最悪の二文字だ。

「死に至る病、って今実感してますよ」

 今僕は、僕が僕自身にしかなれないことに絶望している。そして、対峙すべき“俺”は、僕が殺した。もし目覚めたのが“俺”だったら、“俺”は僕をどうしただろう。性格の良い“俺”のことだから抹殺したりはしなかっただろうか。《だったら替わってくれよ》なんて、“俺”には似つかわしくないセリフは、僕の心の声なのかも知れない。ビリー・ミリガンの同居人達がビリーを守ろうとしたように、“俺”もまた……


「解離性同一性障害のドキュメントとしてはキイスの作品は興味深いですよね」

 僕の独り言を聞いていた医師が話しかける。でも僕はキイスを読んだ記憶など無い。ベンサムも、キェルケゴールも。

「先生」

 僕は、おずおずと精神科医に向かい合った。

「多重人格で生まれた副人格がその持ち得た知識や性格を主人格に譲渡したような事例はありますか」

 “俺”は性格が良いと聞いた。本当は、“いい性格をして”いたのではないか。窓に映る俺の顔は、底意地の悪い、でも無邪気な笑顔で僕を見てる。お膳立てはしたぞ、あとは僕次第だ、とでも言いたげな笑顔。

 とりあえず今日から自分の一人称を“俺”にしてみようか。前途多難だ。気分は最悪。だが道は開けた。

 俺は医師に礼を言い、家族の待つロビーへとひとりで歩いた。

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