0.2秒間のきらめき

白亜結晶

第1話

第一章:灰色の宣告

試験管の中で揺れる液体は、いつもと変わらぬ美しいプルシアンブルーだった。だが、それを掴む私の指先は、まるで厚いゴム手袋をはめているかのように感覚が遠い。

「多発性硬化症(MS)。おそらく再発寛解型でしょう」

医師が淡々と告げた病名は、40歳を迎えたばかりの私の人生に、冷ややかなピリオドを打つように響いた。

私の名前は博志(ヒロシ)。中堅化学メーカーの研究開発部に勤める、どこにでもいる研究員だ。学生時代から電気化学を専攻し、定年まで地味ながらも堅実な研究生活を送るつもりだった。週末には地元の仲間とフットサルで汗を流す。それが私のささやかな幸福だった。

だが、私の免疫システムは、あろうことか私自身の神経を敵とみなしたらしい。

投薬治療により進行は抑えられているものの、徐々に、しかし確実に私の体は自由を失いつつあった。最初は躓きやすくなり、次に視界が霞む日が増え、そして指先の微細な震えが頻発するようになった。

ピペットを握る手が震え、実験データを正確に取ることが難しくなることもある。フットサルのコートに立っても、かつてのようにボールに反応できない。仲間たちは「無理するなよ」と気遣ってくれるが、その優しさが逆に惨めだった。

メンタルが腐りかけていた。自分の体が錆びついていく恐怖に、心を蝕まれていたのだ。


第二章:青白い閃光

その日は、湿度が高く不快な午後だった。

私は一人、実験室に残っていた。新型電池の電解液評価。単純だが根気のいるサイクリックボルタンメトリー測定の最中だった。

ドラフトチャンバーの中で、ビーカーに満たされた電解液に参照電極、対極、そして作用電極をセットする。作用電極は細長い白金線だ。

「……くそっ、またか」

指先が痙攣した。

震えを止めようと力を込めた瞬間、筋肉が意図しない収縮を起こす。ビーカーの縁に置こうとした手が跳ね上がり、鋭利に加工された白金電極の先端が、私の顔に向かって跳ね返ってきた。避ける間もなかった。

「あぐっ!」

鋭い痛みが右目のすぐ下、眼窩の縁に走る。電極の先端が皮膚を突き破り、神経の束が通る深部へと突き刺さった。

不運は重なる。その瞬間、装置の不具合か、あるいは私の体が回路の一部になったのか、高電圧のパルス電流が電極を通じて私の顔面に流れ込んだ。

バチッ、という音と共に、視界が真っ白に染まる。

脳髄を直接鷲掴みにされたような衝撃。焼けるような臭い。

私は悲鳴を上げることもできず、床に崩れ落ちた。意識が遠のく中、最後に見たのは、床に転がって無機質な光を放つ白金電極だった。


第三章:静止した世界

目が覚めたとき、私は病院のベッドではなく、まだ実験室の床にいた。

時計を見ると、倒れてから10分も経っていないようだった。右目の下がズキズキと痛むが、火傷も出血もほとんどない。鏡で見ると、小さな赤い点が残っているだけだった。

大事にならずに済んだと安堵し、私はふらつく足で帰路についた。

異変に気づいたのは、駅のホームだった。

通過列車のアナウンスが流れる。黄色い線の内側に下がる。猛スピードで通過する特急列車。

いつもなら風圧と共に一瞬で過ぎ去るその鉄の塊が、私の目には違って見えた。

窓の中の乗客。スマホを見ているサラリーマン、あくびをする女子高生、新聞を広げる老人。

それらが、まるでコマ送りのように鮮明に見えたのだ。

ナンバープレートの数字はおろか、車両の連結部にある汚れまでが、はっきりと脳裏に焼き付く。

「……なんだ?」

疲れのせいかと思った。だが、違った。

改札を出て、いつもの居酒屋へ入る。同僚の山本が待っていた。

「おっ、ヒロシさん、遅いっすよ。まーた実験ですか?」

山本の声が、少しゆっくり聞こえるような気がした。いや、音は普通だ。だが、山本の表情筋の動きが、手に取るようにわかる。

「とりあえず、生でいいすか? その前に、負けたら一杯奢りで」

いつものじゃんけんだ。私はこれに弱かった。

「じゃーん、けーん……」

山本の掛け声と共に、彼の手が動く。

こぶしが振り下ろされる。その瞬間、私の視界の中で世界が引き延ばされる。

山本の手首の筋肉が収縮し、指が開こうとする微細な動き。中指と人差し指が伸び、薬指と小指が畳まれる予備動作。

(チョキだ)

私の脳が瞬時に判断を下す。思考が恐ろしいほどの速度で回転する。

私はゆっくりと、自分の手を握りしめ、グーを出した。

「……ポン!」

「うわっ、マジか! 今日も勝てると思ったのに」

まぐれだと思った。もう一度やる。

今度は山本の親指と人差し指が伸びようとしている。残りの指は曲がったままだ。

(またチョキだ)

私はまたグーを出す。

十回やって、十回勝った。

山本の顔が引きつっている。「ヒロシさん、なんか……今日、目つき怖くないっすか?」

私は自分の手のひらを見つめた。

MSの症状は消えていない。指先は相変わらず少し痺れているし、走れば足はもつれるだろう。

だが、私の「目」と「脳」だけが、異常な進化を遂げていた。

動体視力は猫科の動物並みか...そして、入力された視覚情報を処理する脳の判断速度は、おそらく常人の五倍以上に跳ね上がっている。

あの電流が、私の視神経と脳のシナプスを新たな超高速回路に再編成してしまったのだ。


第四章:鉄壁のオヤジ

週末のフットサル。当初私は辞めるつもりで参加していた。

動きが鈍くなったゴールキーパーなど、チームのお荷物でしかない。

「ヒロシさん、無理しないでくださいね」

チームメイトの若者が気遣わしげに声をかける。

試合開始。相手チームのエースがドリブルで独走してくる。

速い。普通の目で見れば速い。だが、今の私には、彼の動きはまるで水中の出来事のようにスローに映る。

右足に体重が乗る。左足がボールの右側を叩こうとしている。軸足の膝の向き、視線の角度。

(右下、サイドネット狙い。カーブをかけてくる)

シュートが放たれる遥か前、インパクトの0.2秒前には、弾道が「見えて」いた。

私の体は重く、筋肉の反応速度自体は以前と変わらない。動物のような反射神経で飛びつけるわけではない。

だが、「答え」が分かっているなら、予測して事前に動き出すだけだ。

私はシュートが放たれる前に、右へ一歩、重心を移動させていた。

放たれたボールは、読み通りに美しい弧を描いて右隅へ。

そこには既に、私の手が置かれていた。

パシッ。

派手なダイビングも何もない。ただ、飛んできたボールを蝿でも捕まえるようにキャッチした。

「えっ……?」

蹴った相手のエースが呆然としている。

それから先は、奇跡の連続だった。

至近距離からのボレーシュート。インパクトの瞬間の足の角度でコースを読み切り、顔面付近へのシュートを首を少し傾けるだけで避けると同時に手で弾く。

フェイント。相手の上半身が揺れても、ボールを蹴る足の筋肉は嘘をつかない。私は微動だにせず、相手がバランスを崩して自滅するのを待った。

体が動かないなら、動かなくていい場所に最初からいればいい。

無駄な動きを極限まで削ぎ落とし、最短距離でボールの未来位置に手を置く。

病に侵された体だからこそ到達した、究極の省エネ・セービング。

その日、私は一本のシュートも許さなかった。

「ヒロシさん、あんた……何者なんだ?」

社会人リーグ、県大会。私の所属する弱小チームは、守護神の力だけで勝ち上がっていった。

私の体は相変わらず軋んでいる。試合後は足が痺れて動けなくなる。それでも、コートの中にいる時だけ、私は自由だった。

噂は瞬く間に広まった。


第五章:遅れてきたプロ契約

「J3のクラブですが、練習に参加してみませんか」

スカウトが現れたのは、全国社会人大会でベスト4に入った直後だった。

相手は万年最下位争いをしている地方クラブ。話題作りでもなんでもいい、とにかく失点を減らせるキーパーを探していたらしい。

40歳。難病持ち。普通なら門前払いだ。

だが、スカウトは私の目を見て言った。「あなたのセービングは、予知能力に近い。あんなものは見たことがない」

会社に辞表を出した。

「正気か? 治療費はどうするんだ」上司は止めた。

「今しかできないんです」私は答えた。

研究者としての未来は閉ざされつつある。だが、この「目」がある限り、私は別の実験ができる。人間の可能性という実験を。

ただ、プロの世界は甘くなかった。

フィジカルコンタクトの強さ、シュートの威力、連携のスピード。すべてがアマチュアとは段違いだ。

練習初日、私はプロの洗礼を受けた。体がついていかない。読みが当たっても、強烈なシュートに手が弾かれる。

「なんだあのおっさん。動けてないじゃないか」

チームメイトの冷ややかな視線。

だが、私の脳は適応し始めた。

5倍の思考速度で、私は自身の肉体の動かし方を再計算する。

筋力が足りないなら、ボールの芯を外して受け流せばいい。手が届かないなら、ディフェンダーに指示を出してコースを限定させればいい。

私はゴール前から、フィールド全体を支配し始めた。

敵のパスコース、味方の疲労度、風向き、芝の状態。すべてが情報として脳に雪崩れ込み、瞬時に最適解を弾き出す。

「3番、右切れ! 10番が走るぞ!」

私の指示通りに動いたディフェンダーが、パスをカットする。

私は「司令塔としてのゴールキーパー」へと進化していった。

そして迎えたデビュー戦。

後半40分からの途中出場。1点リードを守り切るための投入。

スタジアムがざわつく中、私はゴールマウスに立った。

不思議と恐怖はなかった。静寂があった。

私の目には、観客席のコーラの泡が弾ける様子さえ見えている。

ロスタイム。相手チームの猛攻。

ペナルティエリア外からのミドルシュート。

(来る、だがわかっている)

私は一歩も動かない。ボールは決まらず、クロスバーを叩いた。

跳ね返りを詰めようとするフォワード。

(左足、インサイド)

私は倒れ込みながら、足先だけを残す。ボールは私のスパイクに当たって外へ逸れた。

試合終了のホイッスル。

私はピッチに倒れ込んだ。歓声が、遠くから聞こえた。


第六章:最後の砦

それから2年。

私は「42歳の新人」として、サッカー界の異端児となっていた。

所属チームはJ1に昇格し、私は日本代表候補に名前が挙がるほどの存在になっていた。

「鉄壁のオヤジ」「預言者キーパー」。メディアは好き勝手な名前をつけた。

だが、代償は確実に支払われていた。

脳の超高速処理は、体に莫大な負荷をかける。試合が終わると、激しい頭痛と目眩に襲われた。MSの症状も、緩やかではあるが進行している。

右足の感覚は徐々に失われている。視覚情報と脳からの強制的な信号だけで、無理やり足を動かしている状態だった。

「次の天皇杯決勝が、最後になるかもしれませんね」

主治医は悲しげに言った。「これ以上負荷をかければ、視神経そのものが焼き切れるか、車椅子生活になるのが早まるだけです」

決勝戦の相手は、リーグ王者の名門クラブ。

会場は国立競技場。雨が降っていた。

雨粒の一つ一つが、空中で止まっているように見える。

私の世界は、あまりにも美しく、そして孤独だった。

0対0で迎えた延長後半終了間際。

ペナルティエリア内で味方がハンドを犯した。PK。

絶体絶命のピンチ。これを決められれば終わりだ。

キッカーは日本代表のエースストライカー。

彼はボールをセットし、ゆっくりと下がる。

雨足が強まる。スタジアムの数万人の視線が一点に集中する。

(怖いか?)

自問する。いいや。

(楽しいか?)

ああ、最高だ。

ピピーッ。笛が鳴る。

助走が始まる。一歩、二歩。

私の脳内クロックが極限まで加速する。世界が完全な静止画になる。

彼の重心、足首の角度、膝の入り方。

フェイントを入れてくる。一度キックモーションに入ってから、タイミングをずらすつもりだ。

普通のキーパーなら、最初のモーションで重心を崩される。

だが、私には見える。筋肉の微細な弛緩が、彼のフェイクを告げている。

(まだだ……まだ動かない)

彼は焦ったはずだ。私が微動だにしないことに。

土壇場で、彼は最も自信のあるコース――左上、隅への強烈なシュートに切り替えた。

筋肉が収縮し、インパクトの瞬間が近づく。

(ここだ!)

私の脳が、全身の神経に過負荷ギリギリの電流を流す。

動け、俺のポンコツな体。あと一回だけでいい。

錆びついた歯車が、火花を散らして回転する。

私は跳んだ。

重力を振り切るように。

伸びた右手が、雨を切り裂く。

ボールの感触。重い。熱い。

指先が弾き飛ばされそうになるのを、精神力だけで押し返す。

カァンッ!

ボールはポストを叩き、ピッチの外へ転がり出た。

スタジアムが爆発したような歓声に包まれる。

私は着地と同時に、泥の中に崩れ落ちた。

もう、指一本動かせなかった。視界が急速に暗くなっていく。

だが、チームメイトが駆け寄ってくる笑顔だけは、はっきりと見えた。


エピローグ

引退会見は、晴れやかなものだった。

私は杖をついて登壇した。

「悔いはありませんか?」記者が尋ねる。

「ええ。最高の実験結果が出ましたから」

私は研究職に戻ることはなかったが、今は少年サッカーのコーチをしている。

実際にプレーを見せることはできない。だが、子供たちの動きを見て、アドバイスをすることはできる。

「君、今シュート打つ前に一瞬、ゴール見たでしょ。キーパーにバレるよ」

「えーっ! なんでわかるの!?」

子供たちは私を魔法使いか何かだと思っているらしい。

私はベンチに座り、コーヒーを啜る。

多発性硬化症の進行は続いている。いつか、この目も見えなくなるかもしれない。

それでも構わない。

あの日、あの雨のスタジアムで掴んだ「0.2秒間のきらめき」は、誰にも奪えない私の宝物なのだから。

グラウンドに風が吹く。

舞い上がった砂埃の一粒一粒が、今日もきらきらと光って見えた。

(了)

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