第103話 湯けむりの夜

 食後。

 夜の温泉街を散歩など、少し腹ごなしをしてから、俺たちはメインイベント第二弾へと向うことになった。

 この離れ専用の、客室露天風呂だ。


 岩造りの湯船からは、手入れされた庭園と、その向こうに広がる星空が一望できる。

 源泉かけ流しの湯が、白い湯けむりを上げて俺たちを誘っていた。


「ど、どうする、ひろくん?」


 浴衣に着替えている桜が、上目遣いで見上げてくる。

 ほんのりと頬が桜色に染まった桜は、いつも以上に大人びて見える。


 『どうする』って何を? とは考えるまでもなく分かる質問である。

 温泉に一緒に入るか否か。答えは既に決まっている。いや、もともと答えなんて一つしかないのだよ。


「……い、一緒に入るか」

「う、うん……」


 大人の余裕を見せていこうと思ったが、初っぱなから噛んでしまう。

 だが、桜はますます顔を赤く染めて頷いた。


「……じゃ、じゃあ」

「うん」


 一瞬、沈黙。

 どちらからともなく、視線を逸らす。


「……先、どうぞ」

「じゃあ……私、先に行くね」


 桜が、そそくさと扉を開けて脱衣室へ入っていく。

 しばらくして、湯の音だけが聞こえた。


 ……落ち着こう。


 俺はラマーズ法で深呼吸してから、少し遅れて露天へ向かう。

 湯気の向こう、湯船に肩まで浸かった桜がいた。


「……あ」

「……うん」


 目が合って、すぐ逸らす。

 かけ湯をして、湯船に身を沈めた。温度は少し高めで、じわっと身体の芯まで温まる。


「ふぅ……極楽だな」

「ん」


 湯船は大人二人が足を伸ばしても余裕がある広さだ。

 俺と桜は、少しだけ距離を開けて並んで座り、夜空を見上げた。


 初春の澄んだ空気のおかげで、星が降るように綺麗だ。

 湯けむりの向こうに広がる満天の星空は、ダンジョンの天井とは違う、本物の輝きを放っている。


「……綺麗だね」

「ああ。来てよかったな」


 俺が呟くと、桜がお湯の中で、そっと距離を詰めてきた。

 ちゃぷん、と波が立ち、俺の腕に桜の滑らかな肌が触れる。


 普段の生活感のあるお風呂とは違う、どこか非日常的な緊張感と、それ以上の愛おしさが込み上げてくる。

 桜はそのまま、俺の肩にこてんと頭を預けた。


「……ねえ、ひろくん」

「ん?」


 桜が湯の中で、俺の手に自分の手を重ねてきた。

 熱いお湯の中でも分かる、柔らかい感触。


「今日は、ありがとう。

 すごく怖かったけど……ひろくんがいてくれたから、最後まで頑張れたよ」


 桜の横顔を見ると、お湯のせいか、それとも恥じらいのせいか、耳まで真っ赤に染まっている。

 濡れた髪が白い肌に張り付き、湯けむりの中で見る彼女は、どこか艶っぽくて、直視できないほど綺麗だった。


「俺の方こそ。桜のサポートがなかったら、もっと苦戦してたよ」

「うそ。ひろくんなら一人でも余裕だったでしょ?」

「精神的にキツいよ。あのスライム、一人で処理するとかただの罰ゲームだろ」


 俺が苦笑すると、桜も「確かに」と笑った。

 そして、重ねた手にきゅっと力を込めてくる。


「……私ね。もっと強くなりたいな」

「強くなりたい?」

「うん。今日は守られてばっかりだったから。

 ひろくんの隣にいても恥ずかしくないくらい、もっともっと強くなって……ずっと、ひろくんの『相棒』でいたい」


 その言葉に含まれた熱は、お湯の温度よりも熱く、俺の胸に響いた。

 探索者としての相棒。

 そして、それ以上の関係としての相棒。

 その両方への想いが、彼女の瞳から伝わってくる。


 俺は、預けられた彼女の頭を、濡れた手で優しく撫でた。


「なれるよ。桜はもう十分強いし、これからも強くなる」

「……うん」

「それに、俺も桜が隣にいてくれると助かるんだ。俺のブレーキ役になれるのは、世界中で桜だけだからな」

「ふふっ、ブレーキ役かぁ。責任重大だね」


 桜が嬉しそうに笑い、俺の腕にギュッと抱きついてくる。

 肌と肌が触れ合う感触。

 そこにあるのは、深い安心感と、愛おしさだけだ。


 俺たちはしばらくの間、言葉もなく、ただ星空と湯の温もりを共有していた。

 世界がどうなろうと、ダンジョンが何を仕掛けてこようと、今は、この夜があれば十分だった。


 俺は目を閉じる。

 温泉の余韻と、隣にいるあたたかい気配を感じながら。


 ——二人だけの世界。

 それは、間違いなく最高の報酬だった。


 ◇


 翌日。

 チェックアウトを済ませた俺たちは、名残惜しさを感じつつも岡山への帰路についた。

 戻る前に、黄泉比良坂ダンジョンに寄り、転移陣作成ワープ・クリエイトで作った転移ポイントへの転移を試してみる。

 無事成功した。

 行きがけの駄賃とばかりに、昨日は倒せなかった八岐大蛇を瞬殺して、いくつかのアイテムをゲットしておいた。

 あとは家に帰って、日常に戻るだけ——のはずだった。


 自宅としている拠点の前にたどり着いた時。

 そこには、日常とは程遠い異物が待ち構えていた。


 自宅拠点の前に停まっていたのは、黒塗りの高級車。

 車の前に立っていた金髪の女性が、こちらに気づいて一歩前に出た。

 以前、光魔法のオーブを受け取りに来た、あのアメリカのエージェントだ。


 確か名前は、サマンサ・リード。

 DDA《アメリカ合衆国ダンジョン局》の職員だったはずだ。


 前に会ったときは、余裕のある、いかにも“切れ者のエージェント”という雰囲気だった。

 だが今は違う。


 髪はきちんと整えられている。服装も完璧だ。

 それなのに、目の下にうっすらと影があり、視線はどこか落ち着いていない。


「……何の用ですか?」


 俺が警戒心を露わにして尋ねると、彼女——サマンサは一瞬だけ言葉に詰まり、それから深く息を吸った。


「Hi, Mr. Shibata. ——今日は、交渉に来たんじゃないわ」


 サマンサは、この前と同じようにニヒルな挨拶をしようとし、失敗した。すぐに笑みを落とす。

 そして、俺と桜の前に立つと――ためらいなく、頭を下げた。


 深く。

 迷いなく。


「お願い。助けてほしいの」


 その姿に、桜が息を呑む。

 俺も、さすがに言葉を失った。


「……話を聞きましょう」


 そう言うと、サマンサはゆっくりと顔を上げた。

 その目には、計算ではない、切実な感情が滲んでいた。


 ——どうやら、俺たちの「休日」は終わったらしい。

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