第89話 真夜中の訪問者
六甲山の夜は、街の明かりから少し離れているせいか、星がよく見えた。
神戸市街のネオンが、眼下で宝石みたいにちらちらと瞬いている。
そんな神戸の夜景を見下ろす一等地に、ひときわ目立つ塊があった。
倶蓮牙家・六甲山本邸。
山肌を削って作られたプライベートエリア。
広大な敷地を囲む高い塀。四隅に配置された監視塔。庭には魔導センサーと、巡回する私兵たち。さらには複数の監視カメラ。
日本有数の権力者が住まう場所は、さながら難攻不落の要塞だった。
——普通なら、だが。
「……警備がザルだな」
俺は、少し離れた斜面の木の上に立ち、全体を見下ろしていた。
俺の目——【解析】には、張り巡らされた赤外線レーザーや、魔力感知センサーの網の目が、鮮明な赤いラインとして見えている。
隙間だらけだ。俺の身体能力なら、あの中を縫って歩くことなど造作もない。
俺の左手には、ぐったりとした獣哉が襟首を掴まれぶら下がっている。
さっきから時々「うぅ……」と唸っているが、意識は戻っていない。たぶん平手のダメージと、過魔素苔のリバウンドが同時に来ているんだろう。
「さて、と」
俺は一度深呼吸し、光魔法を展開した。
「<
淡い光が身体を包む。
これは強固な防御結界ではなく、光の屈折をわずかに歪めるだけの薄い膜だ。
外から見えたときに、ほんの少し視線を滑らせる効果——つまりは光学迷彩みたいなものだな。
完全な透明化ではない。
でも、人の視界ってのは案外いい加減だ。気づきたくないものは、勝手に視界から消える。俺は今日それを体験し実感した。
「行くか」
俺は木から飛び降りると、塀を軽く蹴って跳躍した。
監視カメラの死角を縫い、センサーの射線をまたぎ、音もなく庭に着地する。
目の前を、武装した警備員が二人、談笑しながら通り過ぎていく。
俺は彼らのすぐ横を、堂々と歩いて抜けた。
足音はしない。気配もしない。
先ほど、蛇崩が使っていた「認識阻害」の技術を、見よう見まねに、
屋敷の縁側に足をかけ、目的の部屋を探る。
気配を読み、魔力を感じ、【解析】で推察する。おそらく、場所は特定できた。奥座敷、最も警備が厳重な書斎だ。
俺は気配を殺したまま、書斎の縁側に近づく。
障子の向こうに、人の気配がある。一人だ。
微かな衣擦れの音と、苛立たしげに貧乏揺すりをする振動が伝わってくる。
……機嫌が悪そうだ。まあ、当然か。
息子が大失態を演じ、
おそらく今頃、俺をどうやって始末するか、その算段でもつけている頃だろう。
俺は障子に手をかけ——おっと忘れていた。
インベントリから獣哉の隠し金庫を取り出す。置けば音が目立つと思い、1メートルちょっとの鉄の塊を軽々抱え上げた。
右手に金庫、左手に獣哉。両手が塞がっているので、行儀が悪いが脚で一気に障子を開け放った。
夜の冷気が室内に流れ込み、充満していた紫煙を散らす。
「……誰だ!?」
書斎のデスクに座っていた老人が、弾かれたように振り返った。
白髪のオールバックに、鋭い眼光。倶蓮牙財閥の総帥。獣哉の父、倶蓮牙厳造だ。
警報は鳴っていない。廊下の護衛たちが騒ぐ気配もない。
突然障子が開かれたことに、厳造は目を丸くして固まっている。
「どうも、こんばんは。夜分遅くにすみません」
俺は、まるで友人の家に来たかのように気安く声をかけながら、
「き、貴様……どうやって……!」
厳造が声を震わせる。
デスクの下にある緊急ボタンに手を伸ばそうとするが、俺の視線に射抜かれて動きを止めた。
「どうやってと言われましても。普通に歩いて来ましたけど」
俺は無遠慮に部屋の中央まで進み、持ってきた物を放り投げた。
まず、ボロボロになった獣哉が、ゴミ袋のように畳の上に転がった。
気絶しているが、息はある。顔は腫れ上がり、見る影もないが、親なら見分けがつくだろう。
そして、もう一つ。
屋敷が揺れるほどの重量感と共に、巨大な鋼鉄の塊が書斎のフローリングをへこませる。
「息子さんと、お忘れ物をお届けに来ましたよー」
「こ、これは……?」
「息子さんの親孝行かな? いろいろとあなたたちの悪行が残されてましたよ?」
俺は金庫から、USBメモリや書類の束を取り出し、厳造の目の前にちらつかせた。金庫の中身を【解析】した際、特に「効きそう」なやつをピックアップしておいたのだ。
「
具体的な内容を口にするたび、厳造の顔色が蒼白になっていくのが見えた。
脂汗が額に浮かび、葉巻を持つ手が小刻みに震えている。
総帥の喉仏が、わずかに動く。
この反応だけで、金庫の中身の重要度がよく分かった。
これは、獣哉が「いつか父親を蹴落とすため」に集めていた、倶蓮牙財閥の暗部そのものだった。
「これが世に出れば、財閥は終わりですね。もちろん、あなたも」
俺は、努めて穏やかに微笑んだ。
だが、目は笑わない。底知れない深淵のような闇を意識して、厳造を見据える。
今、俺は猛獣だ。目の前の老人を、いつでも食い殺せる位置にいる。
「単刀直入に言いますね」
俺は、少し真面目な声に切り替える。
「——俺と、俺の周りに、二度と手を出さないって約束をしてほしい。そうすれば、このデータは俺が墓場まで持っていきます」
書斎の空気が、ピンと張り詰めた。
しばしの沈黙。
「……脅迫のつもりか?」
厳造がギリと歯を食いしばる。屈辱に顔を歪めている。
「天下の倶蓮牙を、たかが平民が脅すつもりか!」
「提案ですよ」
視線だけで人を殺せそうな威圧的な眼差しに、俺は平然と返した。
「俺は別に、倶蓮牙を潰すのが目的じゃないんですよ」
俺は静かに続ける。
「ただ、桜と家族と、今の生活を守りたいだけだ。そのために一番効率のいい方法が、『倶蓮牙にとって、俺に手を出すのはデメリットしかない』って状態を作ることだった」
総帥は、何も言わない。
「あなたが一番守りたいのは、何ですか? 息子さん? 財閥? 資産? 築いてきた地位?」
「——」
総帥の目が、少しだけ細められる。
「獣哉くんのことは、残念でしたね。『不出来な息子が、親の威光を笠に着て暴走した』。『財閥本体は関知しておらず、むしろ被害者である』。……そういう筋書きで幕引きを図り、彼を勘当すれば、あなたの面目は保てるでしょう?」
アメとムチ。逃げ道を用意してやる。
追い詰めすぎれば、窮鼠猫を噛む。プライドの高い権力者には、これが一番効くはずだ。
全てを獣哉の個人的な犯罪として切り捨てれば、トカゲの尻尾切りで本体は生き残れる。
厳造の目が揺れているのが分かった。
彼は、俺という「武力」と、データという「社会的凶器」を天秤にかけている。
長い沈黙の後、厳造は葉巻を灰皿に押し付けた。
「……いいだろう」
絞り出すような声だった。
「獣哉は……廃嫡する。どこぞ病院へ送ろう。二度と表舞台には出さん。そして、貴様らへの干渉も一切禁じる。……これでいいか」
「賢明なご判断、感謝します」
俺は一礼した。そして、すっと手を伸ばし、厳造の肩に触れた。
ビクッ、と厳造が震える。殺されると思ったのか、身を強張らせる。
「——念のため、保険をかけさせてもらいました」
「な、何を……?」
「【沈黙】の遅延発動術式です」
もちろん、そんな便利な魔法はない。単なるフリだ。でもそれを確認すべき手段はない。
だが、【王獣の牙】という暴力の塊をたった一人で、それも僅かな時間で壊滅させた『ランクワン』という未知が、それに
「もし約束を破って、俺や俺の周りに害をなそうと命令を下した瞬間——あなたの喉は潰れ、二度と声が出なくなります。心臓も止まるかもしれませんね」
俺はハッタリを交えて告げる。
「き、貴様ッ……!」
「あくまで保険ですよ。約束を守っていれば、ただの健康なお爺ちゃんです」
俺はニッコリと笑い、金庫を再び掴みあげる。
「では、失礼します。……ああ、それと」
俺は振り返り、最後に冷え切った声で告げた。
「忘れないでください。俺が『何事もなく』ここまで来て、あなたの首に手が届くという事実を。……少しでも俺たちの周りで何かあった時が、あなたの、そして財閥の『終わり』です」
それだけ言い残し、俺は夜の闇へと飛び出した。
背後で、厳造がへなへなと座り込む気配を感じながら。
◇
屋敷を出ると、東の空が白み始めていた。
長く、騒がしい夜が終わる。
「……帰ろう」
六甲山の斜面を駆け下りる。
空気が冷たい。肺に刺さる感じが、逆に心地いい。
ふと、スマホを取り出して時刻を見る。
午前四時過ぎ。空の端が、ほんの少しだけ薄くなっていた。
「……長い夜だったな」
神戸から岡山へ向かって、跳躍を繰り返す。
街灯が点々と続く高速道路の上を飛び越え、夜明け前の田畑の上を走り抜ける。
インベントリの中では、例の金庫が静かに鎮座している。
重さも、大きさも感じないけれど、その中身の「重さ」は、ちゃんと理解しているつもりだ。
財閥一つを揺るがすだけの証拠。
でも、それを振り回すつもりはない。
ただ、俺と俺の大切な人たちの「平和」を守るためだけに使うつもりだ。
「……早く帰って、寝たい」
正直な感想が口から漏れた。
桜が実家で良かった。
今日は入学式で疲れたはずだし、今頃はぐっすり眠っているだろう。
俺が財閥だの裏社会だのと殴り合っていたことなんて、これからも知らなくていい。
そう思うと、少しだけ頬が緩んだ。
「はやく会いたいな」
東の空が、少しずつオレンジ色を帯びていく。
戦いは終わった。
厄介ごとは片付き、脅威は去った。これからは、少しだけ騒がしいけれど、平和な日常が戻ってくるはずだ。
俺は、朝焼けの中を走りながら、小さく呟いた。
「——まったりしたいなぁ」
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