第2話 三味線の怪

 その地味な着物の女が、紅梅軒にやってきたのは、まだ吉原が活気づく前の昼下がりのことだった。

 地味な着物とは裏腹に、眼光鋭く、まっすぐに背筋が伸びた姿は、凛として神々しくさえある。それだけに、左手首から指先に厚く巻かれた包帯が痛々しい。

「これは、菊龍姐きくりゅうねえさん。いらっしゃいませ」店主がにこやかに出迎える。

「すっかり、ご無沙汰しちゃったね」女性は、カウンター席に腰を下ろした。「珈琲をもらおうかね」渋い声をしている。

「はい、かしこまりました」店主が笑顔で応じる。「その後、左手はいかがですか?」

「だいぶ良くなったよ。来月にはお座敷にも出られそうだ」

 菊龍は吉原の芸者だった。東京で芸者といえば、柳橋や新橋、深川などが有名だが、ここ吉原にも芸者がいる。しかも、他所よそからは一目置かれる存在だ。なぜなら、芸一筋に生きているからだ。

 芸者の世界では、見習いの〈半玉はんぎょく〉から芸者へと一本立ちする時に、〈水揚みずあげ〉という慣習がある。はじめて客と関係を持つことで、その客が旦那となって、必要な費用をすべて賄うのだ。

 だが、吉原芸者は違った。水揚げはせずに、旦那を持たずに自前で借金をして一本立ちをするのだ。

 それができるのも、吉原には客と床をともにしてくれる花魁がいるからだ。〈色〉と〈芸〉とが切り離されているのが吉原なのだ。

 だから、どこよりも厳しく芸を磨くことができる。それだけに芸自慢が多く、玄人はだしの芸を披露する芸者が多かった。

 普通、芸者の三味線といえば〈中棹三味線ちゅうざおじゃみせん〉でいき端唄はうたや小唄を演奏するのが常だが、菊龍に至っては、三味線も一番棹が太くて胴も大きい〈太棹三味線ふとざおじゃみせん〉を用い、〈人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり〉の太夫よろしく〈義太夫節ぎだゆうぶし〉を語るのだ。

 その芸は玄人はだしで、評判が評判を呼び、菊龍は吉原の人気者になった。あのことがあるまでは⋯⋯。

 気高い香りがどこからか漂う。

「この匂いは⋯⋯」

 見れば、店主がカウンターの隅で火のついた線香を香炉に立てたところだった。

「それは、伽羅だね?」菊龍が店主に訊いた。

「さすが、よくご存知ですね」店主が魅力的な笑顔で応える。「香典返しにいただいたのです。怪談好きだった故人の供養のために、線香が立ち切れるまでの間、店を訪れた方たちには、怪談を語っていただいているのですよ。珈琲をお飲みになる前に、お願いできますでしょうか?」

「おあいにくさま、わっちはお化けには縁のない人間なのさ」

「そうでしょうか、私は噂でしか知りませんが、その左手の指についての話などは、よくできた怪談だと思うのですがね」

「わかったよ」菊龍は諦めたように溜息を吐いた。「それじゃ、聞いてもらいましょうか。この指にまつわるお話を」

 彼女は、ぽつりぽつりと語りだした。


 吉原芸者の活躍の場は、〈引手茶屋ひきてぢゃや〉のお座敷だ。

 ここ吉原には〈大見世おおみせ〉〈中見世ちゅうみせ〉〈小見世こみせ〉と二百八十以上の〈貸座敷(遊女屋)〉に三千人の花魁がいるが、最上級の貸座敷である大見世へは、引手茶屋を通してからでないと登楼とうろうすることはできなかった。しかも客は登楼前に引手茶屋で宴会を催さなければいけない。その時に呼ばれるのが、吉原芸者なのだ。

 しかし不思議なもので、本来は大見世に登楼するための引手茶屋なのに、貸座敷にはいかずに菊龍の芸だけを楽しんで帰る客たちで溢れるようになっていた。

 当然、その噂は本職の人形浄瑠璃の太夫や三味線弾きに届かないわけがない。東京興行の折に、三味線弾きの〈亀澤寅次郎かめさわとらじろう〉から座敷がかかった。

(とうとう、きたね。この時が)

 菊龍は身の引き締まる思いだった。

 己の芸を見ていただく嬉しさと、芸者の分際で断りもなく文楽ぶんらくの真似事をしていることに、とがめられるのではないかという不安とが入り混じっていた。

(こうなりゃ、やるしかないさ)

 自分にできることは、稽古に励むしかない。

 お座敷の日まで、寝る間も惜しんで稽古に励んだ。

 そして当日を迎えた。

 場所は引手茶屋の〈えびす屋〉だ。

 座敷に現れた亀沢寅次郎はでっぷりと太った、ニコニコと笑う布袋様ほていさまのような人物であった。

「あんたかいな、菊龍さん、というのは?」声も優しい。

「はい、さようで」菊龍は深々と頭を下げた。

「噂は聞いてるで、太棹の三味線で太夫顔負けの義太夫節を語るんやてな?」

「芸者だてらに勝手な行い、お許しくださいませ」更に頭を下げる。

「かまへん、かまへん。わしは嬉しいのや」

「嬉しい?」

「そうや、なんやかんやいうても東京は歌舞伎が人気や。人形浄瑠璃を知らんお方もようけおる。あんたが評判になれば、文楽のええ宣伝になるやないか」

「もったいないお言葉で」

「礼を言いたいのは、こっちの方やがな」

 今度は寅次郎が深々と頭を下げた。

(なんて、嬉しいことを言ってくれるんだい)

 菊龍は思わず、涙ぐむ。

「それでは聞かせてくれるか、あんたの義太夫節を」

「はい、よろこんで」

 菊龍は支度をすると、太棹の三味線を奏で語り始めた。

「おっ、思ってたのよりええやないか」寅次郎も上機嫌だ。

 だが、語りが進んでいくにつれて寅次郎の眉には皺が寄り、険しくなっていく。

(なぜだい、なぜそんな顔するのさ)

 菊龍は寅次郎のかわりようが理解できなかった。やがて、語りが最高潮に達したその時、寅次郎が飲んでいたさかずきを菊龍めがけて投げつけた。

「やめんかい!」

 盃は菊龍の眉間にあたり、血が浮かび上がる。

「黙って聞いてりゃ、ええ気になりよって。いくら芸者の遊びでもほどがあるわい!」

「遊びだって!」菊龍は寅次郎を睨み返す。

「なんや、その目は? それが客に対する芸者の目か!」

「目がどうした? 気に入らなきゃ、なんとでもしやがれ!」

「言うたな、こいつ」

 寅次郎はつかつかと菊龍のもとに行くと、左手を手首からじ上げた。

「痛っ!」

「お前のようなもんに太棹を弾かれたら、文楽三味線の名折れや。二度と弾けんようにこうしたる!」

 寅次郎は菊龍の人差し指をポキリと折った。

 菊龍はあまりの痛さに悲鳴を上げる。

「まだまだ、もう一本や」

 今度は中指をポキリと折る。

 菊龍はあまりの痛さに、畳の上でのたうちまわった。

「これで少しは堪えたやろ、喉をつぶされへんかっただけでも感謝するんやな」

「あんまりだ、あんまりじゃないか⋯⋯わっちがなにをしたというんだい?」菊龍は荒い息をしながら寅次郎を睨みつけた。

 寅次郎はそれにはこたえずに、財布から十圓札を何枚か抜き出すと菊龍めがけて叩きつけた。

「なんだい、これは?」

「休業補償や、これで十分やろ。これからは三味線はやめて、都々逸どどいつでも口ずさむのやな」足音をドンドンと響かせて座敷を出ていく。

(ちくしょう、おぼえてやがれ!)

 引手茶屋の者たちの迅速な対応で病院に運ばれた菊龍は、どうにか指を失わずにすんだ。

「心配せずとも動くようになります。しかし、かなりの時間を要するでしょう」それが、医者の診断だった。

 菊龍は入院することとなった。あの出来事は噂となって、吉原中を駆け巡っていることだろう。

(なんでわたしが、こんな目に遭わなけりゃならないんだい)

 悔し涙が溢れてくる。

 入院して何日目だろうか、日にちの感覚もなくなりだした頃、えびす屋の女将が見舞いにやってきた。

「あんた、知ってるかい。亀澤寅次郎のこと?」女将が訊いた。

「やめておくれ、その名前は聞きたくもない」

「やっぱり、知らないんだね。首をくくって死んだよ」

「えっ、どうして?」

「なぜだかわからないんだけどね、あいつの左手の中指と人差し指が急に動かなくなっちまったのさ」

「なんで、また?」

「それが不思議なんだよ、普段はなんともないのにさ、舞台に上がると急に指が動かなくなるのさ。そんなんじゃ三味線は弾けっこない。それでもって、思い詰めて首をね」女将は首を吊る真似をした。「菊龍さん、あんたがあいつに折られた指も、確か⋯⋯」

 そこから先、二人は黙ってしまった。


「これが事の顛末てんまつ、そのすべてさ」菊龍は深い溜息を吐いた。「どうしてやつは、私にあんなことをしたんだろうね?」

「決まっているじゃないですか、姐さんの芸に嫉妬したんですよ」店主はさらりと言った。

「まさか、相手は三味線弾きの名人だよ」

「名人は名人を知ると言いますからね。姐さんの才能が恐ろしかったんでしょう」

「だから、良心の呵責で指が動かなくなっちまったのかね?」

 ここで線香が燃え尽きた。

「無事に語り終わりました。お話のお礼です。さぁ、どうぞ」

 店主は淹れたての珈琲を差し出した。



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