第3話 吉相花魁

 その日、紅梅軒の〈口開くちあけ(最初の客)〉は、白い顎髭あごひげが印象的な猫背の老人だった。

「いらっしゃいませ」店主は、にこやかに出迎える。

「噂通りの仏蘭西フランス人形のような綺麗な顔してるな。女たちが騒ぐのは無理もない」老人は顎髭をしごきながら言った。

「初のご来店ありがとうございます、渋川天膳しぶかわてんぜん先生」

「おや、私のことを知っているのかい?」

「もちろんですとも、吉原一の〈人相見にんそうみ〉なのですから」

 人相見とは、人の顔を見て運勢や吉凶を判断する占い師のことである。〈観相師かんそうし〉とも呼ばれている。

「綺麗な顔だけじゃなく、口もうまいんだな」天膳は嫌味な笑みを浮かべる。

「で、おいでになられた理由はなんですか? 私をからかいにこられたわけではないのでしょ?」

「旭屋の麻衣子ちゃんに、ここにくるように言われてな。店主が怖い話を集めてるって」

「怪談ですね?」店主は身を乗り出す。

「私の話は、お化けや幽霊には縁遠いんだが」

「いいんですよ。お化けなんかよりも、生きている人間の方がよっぽど怖いですからね」目が輝いている。

「そうだな、〈人の心はおもての如し〉っていうしな」

「なんです、それは?」

「人の顔が違うように、人の心もそれぞれ異なるという意味だ。人の心ほど、怖いもんはないさ」

「さすが、よくご存知で」

「そりゃそうだとも、私は人相見の中でも博識で知られているからな」天膳は自慢げに笑う。「今から話すのも人の執念ほど、怖いものはないという話さ」

「ぜひ、お願いします!」

 店主はカウンターの隅に置かれた香炉に、火をつけた線香を立てた。上品な香りが漂う。

「いいね、白檀びゃくだんは」天膳は鼻を鳴らす。

「これは、伽羅ですが」

「し、知ってるよ。言い間違えただけだ」天膳は真っ赤な顔をして否定した。

「それは、失礼しました」店主は笑いをこらえている。

「線香が立ち切れる前に語り終えなきゃいけないんだろ? まぁ、話すから聞いてくれ」

 天膳は咳払いをしてから語りはじめた。


 吉原の朝は遅い。

 昼も夜もない不夜城なのだから無理もないことだ。

 花魁たちが遅い朝食を食べ終わった頃に、渋川天膳は吉原へとやってくる。

 貸座敷のある通りを歩きながら、客が声をかけてくれるのを待つ。もちろん、客になるのは花魁たちだ。

(花魁には、良いことだけを伝えればいいんだよ)

 それが、吉原で占いをするコツだった。

 花魁が求めているのは、当たる占いじゃない。

(一時の気休めだ)

 苦界に身を置く花魁にとって、良いことばかりを告げる天膳の占いは心の拠り所だった。外れても、怒る者は誰もいない。

(お陰で、当たる人相の見方を忘れちまったよ)

 自虐的な笑みが浮かぶ。

「もし」

 後ろから声をかけられる。

(おっ、客か?)

 振り返ると、そこには鯔背いなせな男衆がいた。〈十文字楼じゅうもんじろう〉と染め抜かれた法被を着ている。

(十文字楼といえば、大見世じゃねぇか)

 天膳のお客は花魁と言っても小見世の女ばかりで、大見世はおろか、中見世からもお呼びがかかったことは一度もなかった。

 名のある花魁が、男衆に頼んでこっそりと呼びに来たのだろう。

(こりゃ、幸先が良いぞ)

 天膳は、ほくそ笑んだ。

「私に御用でございますかな?」天膳は、いかにも偉そうな態度で言った。

 占い師の虚勢とはそういうものだ。

「主人がお呼びだ。来てもらえねぇか」男衆はすごみのある低い声で言った。

(主人だと?)

 吉原の楼主ろうしゅは商売柄、験担げんかつぎやまじないが好きな者が多い。だが、十文字楼の主人は占い嫌いで知られていた。

(どうして、私なんかに?)

 天膳は気持ちの整理がつかないまま、男衆に案内されて十文字楼へと向かった。

 五百坪の敷地に建つ十文字楼は、瓦屋根を持った堂々たる二階建ての木造建築で、天井まで達する格子に圧倒される。

 これは〈総籬そうまがき〉と呼ばれる、大見世だけが持つ特徴だ。

「さぁ、こっちだ」

 格式の高い玄関を入り、中へと進む。〈帳場ちょうば〉、花魁たちが休憩する〈髪部屋かんべや〉、男衆や女中などがいる〈男部屋〉と〈女部屋〉を通り、見世の一番奥にある〈家族部屋〉へと案内された。ここは楼主とその家族が住む私的な空間で、部外者が入れるようなところではなかった。

「お連れしました」男衆が楼主に告げた。

「ご苦労だった、下がっていいよ」

「へい」

 楼主は、恰幅のいい色眼鏡をかけた五十半ばの男だった。

「すまないね、呼び止めたりして」

「い、いえ、滅相めっそうもございません」天膳は、這いつくばるように頭を下げた。

 さっきまでの虚勢はどこかへいってしまった。それほど、二人の間には〈格に違い〉があった。

「私が占い嫌いなのは知っているね?」楼主が天膳に訊いた。

「ええ」そうとしか、こたえられなかった。

「占いはまやかしだ。占い師は都合よく、嘘ばかりを言って金儲けをしている」

「はぁ」反論ができない。

「とくに嫌いなのが人相見だ」

「はぁ」

「自慢じゃないが、私のほうが人を見る目はある。商売柄、何万もの人間とつきあってきたからね。ここ吉原は、魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこするところだ。一目でどんな人間かを見抜けなければ痛い目にあう」

「ごもっともなことで」

「でもね、今度ばかりは自分の〈神眼〉に自信が持てないのさ」

「と、いいますと」

「部屋に女を待たせてある。十八歳になったばかりの美しい娘だ。育ちがいいのは一目でわかった。その良家の娘さんが、自ら進んで花魁になりたいとここへやってきたんだ」

「それは変わってますね。周旋人しゅうせんにん(紹介業者)を通さずに、自ら借金の直談判にきたのですか?」

 楼主は首を振る。「金はいらないそうだ」

「なんで、また?」

「生活には困ってないそうだ。実家の横浜の商家は、娘が五歳の時に人に騙されて乗っ取られ、両親は悲観して自害したが、その後は祖父母に引き取られ、なに不自由なく暮らしているという」

「金に困らずに、こんなところへやってくる娘なんておりません」天膳は鼻で笑った。「〈禍福かふくあざなえるなわの如し〉というじゃないですか、幸福と不幸は交互に訪れる。どんな良家の娘さんも運に見放されることもある。落ちぶれたことを認めたくないだけじゃないんですかね」

「たしかに、お前さんの言うとおりだ。どんな高貴なお人も地に落ちる時がある。でもね、そんな時は顔にも影がさしているもんだ。薄暗い影がね。だがその娘には影がないのさ。太陽のように輝いている。こんなところにくるような娘には、私には見えないんだよ」

「それで、私を?」

「うむ。人相見のお前さんが見てどんな占断を下すのか、知りたくなったんだ」

「ようございます。この渋川天膳、全身全霊で観相いたしましょう!」

 くだんの娘は、りんとした姿勢を保ったまま、別の部屋で控えていた。

(楼主の言う通り、どこから見ても良家のお嬢様だ)

 天膳は娘の前に座った。娘はまっすぐに天膳を見つめる。

(なんて、澄んだ目をしてるんだ)

 まじまじと人相を見る。

(こいつは、どうだ)

 驚きに身震いが止まらない。

「どんな具合だい?」楼主が天膳に問いかける。

「まさに〈吉相きっそう〉であり〈福相〉、すべての良き運が味方をしております。この娘が言っておることに嘘はないかと」

「やはり、そうなんだね」

 楼主と天膳は顔を見合わせ「うーん」と唸った。

 娘が楼主に向き直っていた。「ご楼主様、私をお雇いいただけますか?」

 楼主も膝を揃えて娘に向き直る。「本当に、花魁になってもいいんだね?」

「はい、ただしお願いがあります」

「どんなことだい?」

「初めてのお相手となるお客様は、私自身に選ばせてほしいのです」

「お前が〈初見世はつみせ〉の客を選ぶというのかい?」

「はい、我儘わがままは承知しておりますが、何卒、お願いいたします」娘は深々と頭を下げた。

 楼主は不審に思いながらも、承知するしかなかった。

 娘は〈白波しらなみ〉と名付けられた。

 白波とは、風で波の先が砕けて白くなることを言うが、歌舞伎の〈白浪五人男〉で有名な〈盗賊〉の意味も併せ持つ。娘の得体のしれないところが、二つの意味を持つ名前の由来となった。

 楼主が用意した初見世の相手は、面倒見のいいことで評判の製薬会社の社長だった。しかし、白波は首を横に振った。

 次は仏具屋の若旦那をすすめたが、これも拒んだ。

「そりゃ最初の相手だもの、色男がいいに決まってるさ」御内所ごないしょは、わかりきったようなことを言う。

 それで楼主は、売出し中の歌舞伎の女形をすすめたが、これも嫌だと言う。

 この頃には白波のことは噂となり、器量自慢、財力自慢の男たちが次々と名乗りを上げた。

 そんな中に、横浜と神戸で外国人相手に商売をしている、大村権蔵おおむらごんぞうという艶福家えんぷくかがいた。あちらこちらで浮き名を流し、遊び方も汚く評判が悪い男だ。

 しかし、白波は初見世の相手に大村権蔵を選んだ。楼主も御内所も首を傾げるしかなかったが、大村の喜びようは大変なものだった。

 吉原の大見世ではまだ、〈江戸のしきたり〉が守られていた。はじめて客が訪れる〈初会しょかい〉は、花魁がいる〈本部屋ほんべや〉で芸者や幇間ほうかん(太鼓持ち)呼んで遊ぶが、〈寝所〉に入ることは許されず、そのまま帰ることとなる。それは二回目も同じで、これを〈裏を返す〉という。

 白波は大村を派手に遊ばせて、とてつもない額の金を使わせた。突然の〈お大尽だいじん(富豪)〉の登場は、十文字楼はもちろんのこと、引手茶屋や料理屋、芸者や幇間など、吉原の者たちを十分に潤わせた。

 そして三回目の夜を迎えた。これで大村は〈馴染なじみ〉となって、ようやく花魁の寝所に入ることが許される。

 その夜、大村は白波花魁の寝所に泊まった。

 翌日、女中が白波の本部屋を訪れると、二人は死んでいた。剃刀かみそりで喉を切ったのだ。辺りは二人の血が混ざり合い、さながら血の池地獄のようだったという。


「二人は、心中だったのでしょうか?」店主が訊いた。

「表向きはそうなってるがな」天膳が顎髭をしごく。

「違うのですか?」

「楼主がこっそり教えてくれたよ、仇討あだうちだったそうだ」

「それはまた、どうして?」

「楼主宛の置き手紙によれば、実家の店を乗っ取り、両親を非業の死に追いやったのは大村で、そのかたきを取るために、十文字楼の花魁になったそうだ。初夜を拒み続ける花魁が噂になれば、艶福家の大村が放っておくはずがない。いずれは訪れると考えてのことだ」

「それで、自らが初見世の客を選ぶことを願い出たのですね」

「本当に恐ろしいのは、おばけや幽霊じゃなく人の執念だよ」

 線香が燃え尽きた。残り香が広がる。

「無事に語り終えました。お話のお礼です。さぁ、どうぞ」

 店主は淹れたての珈琲を差し出した。


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