第2話 いじめっ子と社畜だった前世

 美大……そりゃあ幼少期から絵が上手いだのなんだの言われれば、そういう進路を考えなくもない。ただ、浪人するのが当たり前とされていた美大に行きたいと、厳格な親に言う勇気はなく、俺は平凡な一般大学に入学した。


 自分の気持ちを押し殺してまでして、行きたくもない大学に行けばそれは支障をきたすってもんだ。大学でろくに友達もできなかった俺はだんだんと通うのが苦痛になり、いつしか大学を止めていた。


 退学後、今度こそ親を説得して俺は絵の道へと……美大の代わりに誰でも入れるような美術の専門学校へと入学する。専門学校での生活は割と楽しかった。別に何がどうしたという事件はなく平穏な日々だったが、誰にも邪魔されずに絵を描く環境があるってこと自体が有益に思えた。


 卒業後、就職を選ばなかった俺は、親の目から逃げるように家を出て一人暮らしを初める。日々、生活費を稼ぐためのアルバイトに明け暮れた。休みの日はそりゃあ、こつこつと百号キャンバスにアーティスト気取りで絵を描いてみたり、イラストを描いてみたりと、いろんなことをした。

 だがどれも実らず、どれをやってみても完成されない作品が増えるだけで、日の目を見ない作品が部屋を埋めていくだけだった。


 そんな俺も三十が過ぎれば諦めが付くってもんだ。長く働いていた飲食店のアルバイト先で社員にならないかとお声掛けがあった。俺は「はい、なります!」と二つ返事で答え、晴れて社員になった。

 ただ人生とは難しいもので……いや、自分が勝手に難しくそう考えていただけかもしれない。上司からのパワハラにあい、十歳以上離れた学生バイトからも信頼されずにバカにされ、しまいにはブラック企業よろしくのまる一ヶ月休みなく毎日朝から晩まで働かされた。


 そんな日々が続いた帰り道、電車のホームで……怖さはなかった、こうも簡単に人は決意ができるんだ、と俺はその時そう思った。


 ――享年三十四歳。


 世間では短い人生というのだろうか。もし人生をやり直せることができるとしたら……あの時ああしとけば、こうしとけば……俺がその時どう思ったかなんて覚えちゃいないが、何かを願ってしまったのだろう。こうして転生してしまったのだから――


 ***


「ねぇ、やっぱおじいに見てもらおうよ」


 俺は納屋なやの壁に寄っかかりながら、その子に視線を送った。


「大丈夫だって。ただ目眩めまいがしただけ。今はなんともないよ」


 俺は体を起こし、その子の肩にぽんと手を置いた。


「リチャーズ、ひどい汗だよ……」


「大丈夫だって、少し歩こう。目眩をした時は頭に血が通ってない、歩いて体に血を巡らせた方がいいんだ。あはは……」


「……そういうもんなの?」


「そういうもんだよ」


 そんなジト目で見ないでくれ。やっぱ怪しまれているのか? この子に実は転生者でしたって言うべきか? いやいや、それは伏せておこう。


 転生したなんてにわかには信じがたい。でも、こうして現実に俺は異世界にいる。


 それにしても、さっきまで日本の記憶もここでの記憶も全く無かったのはなぜだろうか? 日本での記憶は思い出したが、不可思議ふかしぎなのはこの世界でのリチャーズとしての記憶が全くないことだ。この小さな脳みそで考えられるのは二つだ。



①俺は転生されたばかりで、このリチャーズって男と人格が入れ変わってしまった。

 もしそうだとしたら、元々のリチャーズの人格はどこへ行ってしまったのだろうか?



②実はリチャーズとして赤ん坊で生まれた時に、すでに俺は転生していた。

 この場合は、前世の日本の記憶がない状態で俺はこの異世界で育った。しかし頭への強い衝撃を受けたことで、今までの異世界の記憶、それと引き換えに日本の記憶がよみがえってしまったということだろう。



 ①と②どちらも考えられる。う~ん、転生された時期が定かではない……が、今はそこはどうでもいいか。右も左も分からない状態だ、今優先すべきことは現状を把握することからだ。


 俺の体を見るに……十歳ぐらいか?


「よいしょっと」


 俺は子供には少し高い大きなおけをよじ登って除いてみた。思った通り、桶には雨水らしきものが溜まっていた。どれどれ、う〜ん……お世辞にもイケメンとは言えないな。どうせ転生するならイケメンが良かった。残念ながら黒髪だしパッとしない。肉付きも良くない、痩せ過ぎだ。


「リチャーズ、何してるの?」


 まずい、不審に思われる。


「いやあ〜……なんていうか、もっと筋肉質でイケメンだったら、こうもいじめられないのにな〜って思って」


「……別にいいんじゃない。リチャーズはリチャーズよ。筋肉質なんて私のタイプじゃないわ」


 おお、なんだ、タイプって? この子もしかして俺がタイプなのか! それなら俺に付きまとってくる理由も分かる。決してロリ好きではないが、顔立ちも良いしスラッとした体型、この子の将来が楽しみだ。


「なんだかリチャーズ……いやらしい顔してるよ……」


「あはは……そぉ〜かな〜」


 やばいやばい、ついついニヤけてしまった。よだれが溢れ出てしまう。


 ん? あれは……いやな予感しかしないな。俺は女の子の背後、ずっと先からこっちに向かって来る人影をとらえた。明らかに俺たちに向かって来る。


「ぉお、いたいた〜、リチャーズ~! こんな所にいたのか。さっきは一発で伸びちまいやがったからな~。やり足りねぇんだよ」


「ダリル……。ねぇ、リチャーズ逃げよ……」


 こいつがダリルか。くそ、良い体格してやがる。おそらく俺と変わらない年だが、頭一個分は背が高いぞ。しかもこいつ、後ろに二人も子分を引き連れてやがる。典型的ないじめっ子だ。どの世界でもいじめっ子てのは似たりよったりだな。


「なんだなんだ〜エリィのケツに隠れて情けないな〜弱虫リチャ〜ズ〜」


 おお、この子エリィって名前なのか。思わぬ所から知れたな。まぁ、いいさ。笑うがいい。今は中身は三四歳のおっさんなんだ。人生経験が違う。知っているぞ、こういうのは過度に怖がったり歯向かったりするからいじめられるんだ。もちろん逃げるのも良くない。この場合は平常どおり無反応が一番いい。面白くないとかなんとか言って、いじめ飽きるはずだ。


 それにしてもいい匂いがするな〜、女の子の匂いだ。このままエリィちゃんの背に隠れていよう。


「ぐふふ〜、お前もなまいきな奴だな〜女はどいてろ!」


「きゃあ〜」


「エリィ!」


 俺はとっさに倒れてきたエリィの体を抱えた。そして不覚にも思ってしまった……くっそ、なんて柔らかいんだ。スラッとしているようで、意外と肉付きがある。やばい、興奮する。女に縁がなかった俺が幼いとはいえ、女の子を抱くことがあるなんて!


 ――まずい、まずい。そんなことを考えている場合ではない。このジャイ○ンをどうにかせねば。どうする? このまま無反応が一つの手であったが、果たしてそれは最善手か? この場合はやられてもいいから歯向かった方がエリィちゃんの好感度が上がるのか……?


「ぐふふ〜なんだ〜リチャーズ、バカ女にかばってもらって自分は何もしませ〜んってか! ひきょうな奴だな〜」


 いいさ、笑ってろ。挑発しているのが見え見えだ。この場はやはり黙っているのがいい。カッとなったり、怯えたりするからいじめが続くんだ。


「リチャーズ、かまっちゃだめよ……」

「わかってる」


 ほらな、エリィちゃんだってそう言っている。


「ぎゃははは〜……リチャーズもリチャーズだが、バカ女もバカ女だな〜。そ〜んなひきょうな奴のどこが良いんだ? ぁあ、そっかそっか〜、バカ女も落ちこぼれだったもんな。この前の試験でなんとかブラスト〜とか言って、こ〜〜んなちっちゃな石ころ一個出して終わり! ぎゃはは、あれは笑ったな〜」


 くっそ、なんだこの気持ちは。俺は日本でも小学生の頃いじめられていたんだ。いじめが何か知っている。反応するから面白がられる。いじめのサイクルに入ってしまうのは避けるべき。抑えろ抑えろ〜、俺。


 ん!? エリィ……泣いているのか? 涙は見せていない、でも俺にはそう見える。

 俺の腕の中で無表情にしているエリィ。大げさな言い方かもしれないが、この村はエリィをいじめている。リチャーズのこれまでの記憶からなのか、なぜだかそれが分かる。


 だからか……だから、いじめられているリチャーズをエリィはしたっていたんだ。俺とエリィは同じ落ちこぼれだから仲が良い。

 いや……そういうんじゃないな、俺には分かる。

 人が傷つくとはどういうことか知っている。だからお互い相手に優しくなれた。俺とエリィは相手を優しく気づかってきた、だから仲良しなんだ!


「――ッ、痛ってぇ、こいつやりやがったな!」


 気づいたら俺はダリルを殴っていた。


 少しは後悔したよ。かなうはずのない相手に手を出せばさ、それは倍返し所じゃない仕打ちが待っているのは知っていたから。でもさ、男なら行くでしょ? ふつう――


 ――デジャブ! この日は二度の気絶をした。

 目が冷めた時には、エリィちゃんが俺の胸の上に顔をつけてわんわんと泣いていた。


「悪くないな……」


 貧乏な村でいじめられている俺。せっかく異世界に来たのにひどいもんだ。それでもこの世界ではなんとか上手くやっていけそうな気がする。


 ――砂埃が舞う空を見ながら俺はそう思った。

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