短編小説|パワーズ・オブ・テン
人里から遠く離れた、霧深い山あい。
そこに、老賢者ハルの家はあった。
「……ここに、“魔王を討った魔法使い”がいると聞いた」
鋭く、研ぎ澄まされた声。
現れたのは、当代最強と名高い剣士。
名をヴァンと言った。
「魔王を倒したあなたの存在を、国は危ぶんでいる」
ハルは、椅子に座ったまま、彼を見上げた。
「国王に命じられた。あなたを見極めろと」
ふっと笑い、杖を掴んでゆっくりと立ち上がる。
「ああ、そろそろ来る頃だと思ってたよ」
杖を静かに支えながら、ヴァンに視線を送る。
わずかに顎を引き、指先で二度、静かに手招きした。
ヴァンの目が細くなる。
次の瞬間、空気が張り詰めた。
ハルの動きは、老いた体からは想像できないものだった。
かつて魔王軍を相手に、前線に身を投じた“戦う魔法使い”。
その気配は、今なお全身に残っていた。
杖を横に払うと、目の前の空気が揺れ、まるで衝撃波のような力が生まれる。
ヴァンは反射的に身を引き、鞘に納めたままの剣でその一撃を受け止めた。
鈍い音とともに床が軋み、部屋の空気が重たくなる。
斬り込む、打ち返す、踏み込む、かわす──たった数手の応酬。
しかしそれだけで、お互いの実力は十分に伝わっていた。
ハルは足を止め、静かに口を開いた。
「……さすがは当代最強の剣士だ」
ヴァンも無言で頷く。
目の奥にわずかな尊敬と、不可解の色が混ざっていた。
ハルはゆるく笑い、杖の先で棚を示した。
木の盆がふわりと宙に浮かび、卓の上にすっと降りる。
古びた陶器のカップが、ひとつ、ふたつと並んだ。
香ばしい湯気が立ちのぼる。
「せっかくだ。少しくらい話をしよう。お茶でも飲みながら」
少し間をあけて、ハルが続ける。
「まぁ、長くはならないさ。……感覚の上では、ね」
ヴァンは眉をひそめたが、何も言わずに腰を下ろした。
そして、ハルは静かに語り始めた。
「私は、転生者だ」
ヴァンは言葉を失い、ハルを見つめた。
異世界から来た者──転生者。
常識を超えた、稀有な存在。
神に選ばれ、特別な力を授かる者もいるという。
一代で国を築いた英雄、竜を従えた戦士、天空城を落とした弓使い。
そんな伝説には、決まって“転生者”という言葉がついてまわる。
「最初の頃の魔力量は微々たるものだった。せいぜい水を沸かす程度で、とても戦えるような力じゃなかった」
それでも彼は魔法を学び、冒険者として世界を巡った。
魔王を討ったのは、旅立ちからわずか十年後のことだった。
そこに至るまでの道のりは、努力だけでは語れない。
「私には、女神から授けられたスキルがあった。その名も”パワーズ・オブ・テン”」
「……パワーズ・オブ・テン?」
「そう。毎年、魔力量が10倍になるスキルだ」
たった1年で10倍。
2年で100倍。
10年で、100億倍。
「その力で、魔王を倒した」
成長すればするほど、次の年はさらに加速する。
ヴァンは、ふと目を伏せた。
魔王を討ったのは60年前。
では今、彼の力は──。
「魔王討伐から10年。私は天地を創造するだけの力を得た。
さらに30年、空間をねじ曲げ、時間に干渉できるようになった。
そして60年、私は宇宙の法則すら操れるようになっていた」
その瞬間だった。
世界が、ゆがんだ。
空間にひびが入り、空気が揺れる。
ハルの姿が、ぶつぶつと分裂していく。
1人、2人、4人、8人──
無数のハルが空間に溢れ、溶けては形を変え、また消えていく。
その中心で、たったひとりのハルだけが、まっすぐこちらを見つめていた。
そして突然、視界が変わった。
ヴァンの目に映ったのは、彼の知識を超えた光景だった。
粒子、原子、分子、細胞、物体、都市、大陸、惑星、銀河、銀河団、そして宇宙構造。
それらの景色が急速に流れ、
すべてを通過したと思ったら、
その中心に──ハルがいた。
次の瞬間、ヴァンの意識に何かが突き抜けた。
自分の老い、死、星々の終焉、宇宙の果て。
それでも続く、次の人生。その先の、そのまた先。
すべてが、一瞬で流れ込んできた。
理解しようとすると、それらは別のものにすり替わる。
思考が追いついたときには、世界はまた最初から始まっていて、気づけばヴァンは、ふたたびハルの前に座っていた。
「……私の話は、ここまでだよ」
老賢者ハルは、静かにそう言って、椅子にもたれた。
さっきまでの揺らぎは、すっかり消えていた。
幻影のハルたちはいない。光の粒もない。
老いた男が、ただ椅子に座っているだけ。
ヴァンは体中の汗が止まらなかった。
目はどこか虚ろで、まだ夢の続きを彷徨っているようだった。
現実と幻の境が、どこからどこまでだったのか、もうわからない。
ヴァンは何か大事な使命があってこの地を訪れたはずなのに、──理由が、思い出せなかった。
ただ、気づいた時には椅子に座って、ただ静かにハルを見ていた。
「……私は……なぜ、ここに?」
ハルは目を細め、ほんの少しだけ微笑んだ。
「その問いを聞くのも、これで何度目かな」
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