息切れ、痛風、老眼のおっさん冒険者達は“老齢の塔”を目指す。

けんぽう。

第1話 ミラとダリウス

 ——痛風、老眼、息切れ。

 彼らは今、その三重奏を奏でている。

 老齢の塔・一階層、ゴブリンの群れの中で。


 冒険者の全盛期は二十四歳——三十を過ぎれば「おっさん扱い」だ。

 


 夜の帷を裂くように、ゴブリンたちの叫びがこだました。

 湿った風と、焦げた血の匂い。松明の炎が乱れ、影が踊る。


 四人の冒険者が背を合わせ、包囲の中で踏みとどまっていた。


「オットー! この数は無理だ、前に出ろ! 盾になれ!」


 剣士ダリウスの声が張りつめる。

 しかし、返ってきたのは悲鳴だった。


「ぐぁあ!! すまん痛風が出た! しばらく右足は……動かん!」


 丸い腹を揺らし、オットーは地面に膝をついた。

 足首を押さえ、歯を食いしばる。汗が滝のように流れている。


「痛風!? ぜぇ……ぜぇ……こんな時にか……!」


 ダリウスは罵声を飲み込み、剣を振るう。

 刃がゴブリンの鉄爪を弾き、火花が散った。

 息が荒く、胸が焼けつく。


「ぜぇ……ぜぇ……エドガー! 魔法はどうした!」


「ま、待て……」


 エドガーは焦りながら魔導書を開く。

 しかし次の瞬間、顔をしかめて目を細めた。


「くそっ、老眼だ! 文字が滲んで見えん! 目薬をさす、少し待て!」


「読むな! 感じろ!」


 ダリウスのツッコミも虚しく、ゴブリンの群れはじりじりと距離を詰める。


 そんな修羅場の中で、ひとりだけ場違いに明るい声が響いた。


「出たわね、中年の三重奏!」


 金髪をなびかせ、少女ミラが笑っている。

 十六歳。パーティで最年少。どこか芝居を見ているような顔だった。


「笑ってる場合か! 援護を——」


「了解っ!」


 剣士は息切れ、盾役は痛風、魔導士は老眼。

 そして唯一の若者は、謎の笑顔で応援。


 ——なぜ、こうなったのか。話は十年前にさかのぼる。


 *


 この世界で、冒険者の人生は短い。

 十六でデビュー、二十四で全盛期。

 三十で引退し、遅くとも三十五で武器を置く。


 ダリウスもその一人だった。三十で剣を収め、中の上の冒険者として静かに終えた。

 そして彼は、夢に見たスローライフへ足を踏み入れた。


 だが半年も経たずに夢は夢でなくなった。


 ——朝。

 目覚めるのはいつも昼前だった。

 鳥の鳴き声も、風の音も、心に届かない。


 川で釣った魚を焼く。

 香ばしい匂いが立ち上がるはずなのに——何も感じなかった。


(……味がしない)


 ひと噛みごとに、口の中の虚無だけが増えていく。

 焼き加減を変えても、香草を添えても、何も変わらない。

 それはまるで、自分という存在そのものが味を失っていくようだった。


 夜になれば、元冒険者たちが集まる酒場へ向かった。


 そこには、年齢だけが増えた連中がいた。

 かつての仲間、顔見知り、昔は輝いていた面々が、夕暮れに照らされて机を囲んでいる。


「俺が若い頃はよ……」

「いやいや、お前のあの一撃は伝説だったって……」

「そうそう、“あの頃の俺たち”は……」


 全部、過去形。

 全員、同じ話を繰り返す。

 まるで壊れたオルゴールのように、同じ栄光にすがり続けていた。


 ダリウスは笑って聞きながら、いつしか気づいていた。


(……俺も、ここに取り込まれていくんだな)


 温い酒の匂いと、微妙に湿った木の椅子。

 それらが、ゆっくりと心を腐らせていく。


 ある夜のこと。

 酒場の帰り道、街灯の下でひとりの少年が立ち止まり、ダリウスを見上げた。


「おじさんの笑い方、なんか変だね」


 気まずそうに母親が少年を抱えて連れ去っていったが、ダリウスは返す言葉を失った。


(……笑い方?)


 家に戻り、鏡を見る。

 そこに映っていたのは——


 目は死んだように沈み、

 口元には張り付いた愛想笑い。

 どれだけ頑張っても、その顔は全く動かない。


(このまま、あと半世紀……死ぬまで……?)


 その想像だけで、胸の奥が凍りついた。

 “スローライフ”という夢が、音を立てて崩れていく。


 ダリウスは椅子に座り込み、何もない天井を見つめた。

 静寂の中で、自分の鼓動だけが虚しく響く。


 ——あぁ、俺はもう、冒険者じゃない。

 ——ただ、生きているだけの空っぽの殻だ。


 そう思った瞬間、長い夜が、終わりなく続いていくように見えた。


 *


 転機は、思いがけず訪れた。


 親を亡くし、親戚の家を転々としてきた六歳の少女——ミラ。


「……腹は減ってるか?」


 ダリウスは優しい声音をつくるのに少し戸惑った。

 冒険者を引退して以来、人と暮らすことをほとんど忘れていたからだ。


 ミラはわずかに頷いた。

 その頷きには「うん」と口にする勇気すら足りないほどの、長い孤独がにじんでいた。


 ダリウスは台所に立ち、久しぶりに人のための食事を作った。

 湯気の立つスープを二人分よそうと、胸の奥に小さな温かさが宿った。


 食卓に並んだのは、質素なスープと焼いたパン。

 二人で椅子に座ると、ぎこちなさが空気に溶けていく。


 ダリウスはそっとミラを横目に見る。


「スープ、熱くないか?」


 ミラはスプーンを持つ手を止め、俯いたまま小さな声で答えた。


「……うん」


 ダリウスの表情がふっと柔らかくなる。


「……そうか」


 他愛のないやり取りだった。

 だが、こんなふうに誰かと食卓を囲むのは、いつぶりだっただろうか。

 ひと口ごとに胸の奥の空洞が少しずつ埋まっていくような、不思議な感覚だった。



 食後、二人で近くの公園へ出かけた。

 冬から春へ移り変わる風の匂いが、ミラの薄い髪をそっと揺らす。


 ミラは砂場の前に立ったまま、静かに足をもじもじさせていた。

 ほかの子供たちの輪の中に入りたそうに、けれど自信がなくて一歩が出ない。


(無理に言うべきじゃないか……?)


 ダリウスは迷いながらも、ただ見守ることにした。


 そのとき、元気な声が響いた。


「一緒に遊ぼうぜ!」


 同じ年頃の子供が、まっすぐミラに声をかけてくれたのだ。


 ミラはぱっと顔を上げる。

 その表情は、さっきまでの影が嘘だったかのように明るく、満面の笑みが弾けた。


「うん!」


 ミラは駆け出した。

 砂を蹴る音が弾み、子供たちの輪に吸い込まれていく。


 ダリウスは立ち尽くし、ゆっくりと息を吐いた。

 胸の奥で張り詰めていた何かがほどけていく。


「……よかった」


 ミラの笑い声が風に乗って響いた。

 その小さな背中を見て、ダリウスの胸に懐かしい温かさが広がった。

 


 半年も経たないうちに、ミラの表情はどんどん変わっていった。

 最初は遠慮がちに、次第に遠慮を忘れて、声を上げて笑うようになるまで、そう時間はかからなかった。


「ダリウス、いつものスープ作って!」


 ある夕方、ミラがエプロン姿のダリウスにまとわりついてくる。


「はいはい。ただいま、ミラ」


 ダリウスは苦笑しながらも、頭をくしゃっと撫でた。

 ミラはすでにテーブルの席について、パンを少しずつ齧りながら、足をぶらぶらさせている。


「今日はね、みんなと木登りしたんだよ」


「おお、そうか」


「それでね、私が“努力賞と奨励賞”をみんなに授与したの」


 得意げに胸を張るミラに、ダリウスは思わず吹き出した。


「どこで覚えたんだ、そんな言葉」


「えへへ、先生が言ってたのを真似したの」


 鍋の中で煮込まれる野菜の匂いと、ミラの話し声。

 それらが部屋の隅々にまで広がっていく。



 ある夜、ふと、ダリウスは洗面所の鏡の前に立ち尽くしていた。


 湯気の残る鏡を手で拭うと、そこにはくたびれた中年男の顔が映っていた。

 目尻のシワ。少し増えた白髪。

 そして——いつのまにか張り付けていた、あの「愛想笑い」が、剥がれ落ちた後の、素の表情。


 穏やかな顔だった。


(……俺は、ミラを救ったと思ってた)


 口に出さなくても、自分の心の声がよく聞こえる。


(親戚をたらい回しにされて、行き場がなくなってたあの子を、俺が引き受けたから、少しはマシな場所になったんだって……)


 鏡の中の男は、どこか居心地悪そうに視線をそらす。


(違うな)


(傲慢だ、うぬぼれだ、なんてご大層な善意だ)


 ゆっくりと息を吐く。


(逆だ、逆なんだ、救われたのは……俺の方だ)


 ただ時間をすり潰していた日々。

 何かを守っているふりをして、実は何も守れていなかった自分。


 そこに転がり込んできた、小さな命。

 スープを「おいしい」と笑ってくれる存在。


 *


 次の日から、ダリウスは冒険者ギルドに通い始めた。

 雑用でも、荷物持ちでも構わなかった。

 ミラのために、少しでも稼げるなら、それでいい。


 久しぶりの戦闘。

 身体は軋んだ。足も、肩も、昔のようには動かない。

 それでも、胸の奥に灯る感覚があった。

 ——生きている、という感覚だった。


 *


 十年が過ぎた。 

 ダリウスはもう四十を超えていた、ミラは十六歳になり、明るく、少し天然な少女へと成長していた。


 ある日、丘へ向かう道すがら、ミラがふいに立ち止まり、自分の右手をじっと見つめた。


「……あれ? なんか、ちょっとだけ力が入りづらい……気のせいかな?」


 ダリウスは思わずその手を取る。

 触れた指先は、いつもと変わらない温度に思えた。


「気のせいかも。ごめん、ごめん」


 ミラは自分でそう言って笑い、ぱっと手を離すと、いつものように先へ駆け出していく。

 ダリウスは胸の奥に、言葉にならない小さなひっかかりだけを残した。


 ミラが丘の斜面を駆け上がりながら、振り返って大きく手を振った。


「ダリウス、早くー!」


「ぜ、ぜえ……! ま、待ってくれ……!」

 

 ダリウスは足をもつれさせながら、必死に登ってくる。


 ミラは首をかしげ、呟いた。


「ダリウス、いま……子ヤギが“初めてのお散歩”してる感じだったよ?」


「……っ!」

 

 ダリウスは一瞬だけ胸を押さえたが、すぐ照れたように笑い返した。


「歳だよ歳……。」


 そしてようやく、彼はミラの横へ追いつく。


 丘の向こうに広がっていたのは——


「……!」


「すごいっ! 花畑!」


 ミラは両手を広げて、まるでそこに風そのものになったかのように笑う。


 色とりどりの花が、陽の光を浴びて揺れ、風が波のように草原を渡っていく。

 彼女の明るい笑い声は、その景色のど真ん中に、ひとつの光を落とした。


 ダリウスはその光を見るように、そっと微笑む。


(……あぁ、幸せって、たしかにこういう瞬間のことを言うんだな)


 ミラが笑いながら花を摘もうとしたその手が、次の瞬間、白く硬く、音を立てて止まった。


「……冷たい」


 その一言で、世界の温度が変わった。


 指先から手首へ、じわじわと白が広がっていく。

 土の色も、花の色も、やけに遠くなった。


 治療師の言葉は、冷えた水のように耳に落ちてきた。


「石化症。進行性です。あと五年……もてば良い方でしょう」



 病院を出ても、風景は現実味を欠いていた。

 石畳を踏む足音だけが、二人の間にぽつぽつと落ちる。


 しばらく歩いたところで、ミラがふいに足を止めた。

 道端の、小さな公園の前だった。錆びたブランコが二つ、夕暮れの中で静かに揺れている。


「……乗ってもいい?」


 ミラが顔を上げずに問う。

 ダリウスが小さく頷くと、ミラはぎこちない足取りでブランコに腰を下ろした。


 鎖をぎゅっと握る小さな手が、かすかに震えている。

 体を前に倒すたび、靴先が砂をほんの少しだけ蹴った。


「ねぇ、ダリウス」


 ミラは視線を宙に浮かせたまま、呟くように言った。


「石になっちゃったらさ……ダリウスのスープ、もう『熱い』って言えないのかな」


 夕焼けが、固まりかけた横顔を赤く染める。

 その言葉は冗談みたいな形をしているのに、どこにも笑いの成分がなかった。


 ダリウスの喉が、ひくりと鳴る。

 何かを言おうとして、言葉が砂のように崩れ落ちた。


 やがてミラは、ゆっくりとブランコから降りた。

 何事もなかったかのように隣へ歩み寄ると、いつもの調子を真似るみたいに笑ってみせる。


「行こっか」


 ミラは、空を見上げて笑い妙に饒舌で誤魔化そうとする。

 その笑顔は、十年前、公園で友達に誘われたときと同じ——だがどこか寂しげだった。



夕食、ランプの光が揺れ、家を優しく包んでいる。


「ダリウス。スープ、熱くなかった?」


 優しく問いかける声。

 十年前、ダリウスが言ったあの言葉を、そっと返すように。


 ダリウスはぎこちなく笑った。

 頬が引きつり、笑みがどうしても形にならない。


「……あぁ」


 ミラは俯いた。

 歩くたび、影が二人の間に落ち、その影は小さく震えていた。


 沈黙が続いた。


 ある日、ミラがぽつりと言った。


「……ねぇ、ダリウス」


「なんだ?」


「残り少ない時間……最後まで笑っていてほしいな」


 風が止まる。

 夕暮れの光がミラの横顔を照らし、その瞳の奥までオレンジに染めた。


 ダリウスは思わず立ち止まり、うつむいた。

 胸の奥が、ぎり、と音を立てる。


「ミラ……俺は……俺は……」


 言おうとしても、言葉が喉で崩れ落ちた。

 笑おうとしても、顔が震える。


「……笑って……ほしいのに……」


 無理やり笑顔を作った瞬間、涙が一気にあふれた。

 頬を伝い、顎を伝い、地面に落ちる。


 その顔は、笑えていなかった。

 泣き笑いなんて言葉では追いつかないぐらい、ぐちゃぐちゃで、苦しくて、どうしようもなくて。


 ミラはその顔を見て、目を丸くした。

 そして——同じように涙を流しながら、くすりと笑った。


「……ダリウスは……笑顔が下手だね」


 その言葉は、十年ぶりに聞いた彼女の小さないたずらだ。

 泣きながら笑う二人の影が、夕陽に伸びていく。


 その影だけは、どこまでも寄り添っていた。


 *


 翌日、ダリウスは街の図書館へ向かった。

 古文書を漁り、地図を調べ、伝承を読み漁る。

 そして、一つの記述に行き当たる。


 ——五十年前に発見された“老齢の塔”。

 齢三十五を超えし者のみが入ることを許され、

 塔の最奥に辿り着いた者には、いかなる病も癒す薬が授けられる——と、五十年前の探検隊の記録には記されていた。

 ただ、その真偽を確かめた者は、まだ一人もいない。


 ページを閉じ、ダリウスは立ち上がった。


「今度は、俺がミラを助ける番だ」


(……一人じゃ無理だ。あの塔に挑むなら、誰かの力を借りるしかない)


 老齢の塔に挑むには、仲間が必要だった。

 脳裏をよぎるのは、かつて肩を並べて戦った魔法職の男の顔だった。

 老いぼれた今でも、あの一撃だけは誰にも真似できないと信じている——

 痛風・老眼・息切れの中年パーティに、もう一人の中年が加わる。

 ……ただし、彼はとある病で、魔導書の文字がほとんど見えていないのだった。

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