『期待値(プライド)の向こう側 ~40歳・無職・スロプロ。俺の人生(RUSH)は、いつ抽選されるのか~』

無音

朝8時半、40歳無職。俺は死んだ目で抽選ボタンを押す。

【プロローグ:社会の裏側、朝8時30分】

 乾いた風が、コンビニ袋をアスファルトの上で転がしていく。  北関東の幹線道路沿い。  巨大な立体駐車場を抱えたパチンコ店『グランド・オアシス』の裏手には、すでに百人近い行列ができていた。


「……寒みぃな」


 ケンジ(40歳)は、色のあせたグレーのパーカーのポケットに手を突っ込み、身を縮こまらせた。  吐く息が白い。  手元のスマホには、昨夜閉店間際にチェックしたデータサイトの画面が表示されている。  特定の末尾番号、前日の凹み台、店長のクセ。  それらの数値を脳内で反芻し、導き出した「狙い台」の番号を、呪文のように繰り返す。


 ふと、道路の向こう側を見る。  駅へと向かう歩道を、スーツを着たサラリーマンの群れが早足で歩いていた。  彼らは一様に無表情で、同じ方向を向き、社会という巨大な機械の歯車になりに行こうとしている。


(……ご苦労なこった)


 ケンジは心の中で毒づく。  俺は違う。俺は誰にも縛られない。上司もいなければ、満員電車もない。  自分の腕一つ、読み一つで金を稼ぐ「プロ」だ。


 そう自分に言い聞かせる。  だが、スマホの黒い画面に映り込んだ自分の顔――無精髭と、死んだ魚のような目をした中年の顔を見て、ふと胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 俺は自由なのか?  それとも、社会から弾き出された廃棄物なのか?


「抽選、開始しまーす!」


 店員のマイクパフォーマンスが、思考を遮った。  列が動き出す。  ケンジの前には、今どきの派手な格好をした若者の集団がいる。「軍団」の打ち子たちだ。  後ろには、スマホにマイクを付けたYouTuberらしき男(カイト)が、「今日は特定日なんでね~」と独り言を喋っている。


 順番が回ってきた。  運命の抽選機。  ケンジは祈らない。ただ、無心でボタンを押す。


 【 No.8 】


 良番。  並び三百人の中で、一桁台。


「……よし」


 ケンジは小さくガッツポーズをした。  これで、昨夜から狙っていた本命の「スマスロ」が取れる。  勝った。今日は仕事になる。  安堵と共に、脳内でドーパミンがじわりと滲み出すのを感じた。


 だが、それは同時に、「今日もまた一日、あの爆音と光の箱の中に閉じ込められる」という、逃れられないサイクルの始まりでもあった。


 午前9時。開店。  ケンジは吸い殻を携帯灰皿に押し込み、戦場へと足を踏み入れた。


【前編:投資という名の麻酔】

 午前9時。開店。  『軍艦マーチ』などという牧歌的なBGMは、今のホールにはない。  重低音のEDMと、電子音が渦巻く戦場だ。


 ケンジは脇目も振らず、最新台のシマへと走った。  確保したのは、角から二番目の台。  データ分析によれば、今日ここに「設定6(最高設定)」が入る確率は80%を超えている。


「頼むぞ……」


 一万円札をサンド(貸出機)に投入する。  諭吉が吸い込まれ、台のクレジット表示が『50』に変わる。  労働の対価ではない。ただの数字だ。  ケンジにとって、金は生活費であると同時に、戦うための弾薬だった。


 レバーを叩く。リールが回る。ボタンを押す。  ウェイト(待ち時間)すら惜しみ、最速で消化する。  この単純作業を、一日に九千回繰り返す。  トイレも食事も極限まで削り、期待値を積み上げる。それが、スロプロという生き物だ。


 ――3時間後。  ケンジの台は、静まり返っていた。


「……おいおい」


 投資、5万円。  単発のバケ(レギュラーボーナス)と、伸びないATが数回。  出玉はすべて飲まれ、追加投資が止まらない。  ケンジはスマホのカウンターアプリの数値を睨みつけた。  小役確率は悪くない。モード移行も高設定挙動だ。  だが、肝心のアーム(腕)が腐っている。ここ一番で引けない。


 隣の台では、例の配信者の若造(カイト)が座っていた。  あろうことか、彼は座って数千円でAT(大当たり)を射止め、スマホに向かって「うぇーい! オスイチ完走あるでこれ!」と騒いでいる。


(……クソが。あんな適当な台選びで)


 苛立ちが募る。  だが、ケンジは席を立たなかった。  ここで止めるのは素人だ。プロなら、期待値を信じて突き進むしかない。


「設定はある……間違いなくあるはずだ」


 ケンジは六枚目の一万円札を投入した。  今のスマスロは怖い。  吸い込みが激しい分、吐き出す時も一瞬だ。だからこそ、心を殺して回し続ける必要がある。


 ――本当にそうか?  心の奥で、もう一人の自分が囁く。  『ただ意地になってるだけじゃないのか?』  『お前は40歳だぞ。職歴なし、貯金なし。この5万円があれば、何が買えた?』


 思考を振り払うように、ケンジはレバーを強く叩いた。


 ガガッ!!


 リールが回る。  金が消える。  クレジットの数字が減っていく。  それはまるで、ケンジのすり減った人生そのもののようだった。


「出るまで回せば……確率は収束するんだよ……」


 呟きは、店内の爆音にかき消された。


【中編:1/65536の走馬灯】

 午後2時過ぎ。  サンドの『貸出』ボタンを押しても、反応がない。  残高ゼロ。


 投資、8万円。  時間にして5時間。  ケンジの手が止まった。


 天井(最大投資額による救済発動)まで、あと少し。  だが、財布の中にはもう、千円札が数枚しかない。  ATMに行かなければならない。なけなしの生活費、家賃のために取っておいた口座の金に手を付けることになる。


「……くそっ、くそっ、くそっ……!」


 ケンジの目は血走っていた。  心臓が早鐘を打ち、脂汗が止まらない。  吐き気がする。  8万だぞ? 一般人が汗水垂らして稼ぐ半月分の給料が、たった5時間で溶けたんだ。


(やめろ。帰れ。これ以上突っ込んだら死ぬぞ)


 理性が警告する。  だが、体は動かない。この台から離れられない。  今ここで離席したら、後から座った誰かに「オカマ(他人が辞めた後にすぐ出されること)」を掘られるかもしれない。  それが何より許せない。俺が耕した畑だ。俺が刈り取るんだ。


「……まだだ。まだ終わってねぇ」


 震える手で、最後の千円札をサンドにねじ込む。  貸出ボタンを押す。    ピロッ。


 台のクレジット表示が『46』に変わる。  スマスロにメダルの音はない。静寂の中で、ただ数字だけが増える。  その静けさが、今は怖かった。


 視界が狭まる。  隣のカイトの声も、店内の爆音も、遠くのノイズのように聞こえる。  世界には、俺と、この筐体のモニターだけ。


 レバーを叩く。  第一停止、タン。  第二停止、タン。  第三停止、タン。


 リプレイ。次ゲーム。  ベル。次ゲーム。  ハズレ。次ゲーム。


 単純作業の繰り返し。  その果てに、俺は何を得た? 20年間、来る日も来る日もホールに通い、何を残した?  金か? いや、残っていない。  家族か? とっくに愛想を尽かされた。  恋人? ……由美子。俺がスロットに狂ったせいで去っていった、あの優しい女の顔が過る。


『ケンジ君、もうやめて。普通に働こう?』


 あの時、俺が頷いていれば。  今頃は、あのアスファルトの道を歩くサラリーマンたちのように、守るべき家庭を持って、日曜日に子供と公園に行っていたのだろうか。


「うるせぇ……」


 ケンジは歯を食いしばった。  後悔なんてするな。  俺は選んだんだ。このヒリつくような鉄火場を。  安定よりも、一瞬の脳髄が焼けるような興奮を。


 意識が朦朧とする。  無心で、ただ機械的に、右手がレバーを叩いた。


 ――その瞬間。


 プチュン。


 画面がブラックアウトした。  リールの回転音が消えた。  店内の喧騒さえも、遮断されたかのように静寂が訪れた。


「……あ?」


 ケンジの手が空中で止まる。  故障か? いや、違う。  画面の暗闇の中に、ゆっくりと、金色の文字が浮かび上がってくる。


 【 ULTIMATE FREEZE 】


 確率、1/65536。  一日九千回回しても、一週間、いや一ヶ月引けないかもしれない奇跡。  それが今、投資8万1千円目にして降臨した。


 リールが、ゆっくりと逆回転を始める。  まるで、失った時間を取り戻すかのように。


「……引いた」


 ケンジの目から、不意に涙がこぼれ落ちた。  嬉しいのではない。  助かった、という安堵でもない。  ただ、自分の20年が、この一瞬のためだけにあったのだと、肯定された気がしたのだ。


 ゴッド・ファンファーレと呼ばれる、甲高く、神々しい確定音が鳴り響く。  キュインキュインキュイーン!!!!  その音は、ケンジにとって、どんな名曲よりも美しく、残酷な「生の賛歌」だった。


「……へっ、ざまあみろ」


 ケンジは涙を拭い、ポケットから加熱式タバコを取り出してくわえた。  隣で配信していたカイトが、スマホを持ったままポカンと口を開けてこちらを見ている。


「す、すげぇ……。おっさん、ここで引くかよ……」


 ケンジは若者には目もくれず、逆回転するリールを見つめた。  ここからだ。  ここから、俺の人生(RUSH)が始まるんだ。


【後編:換金所の月】

 そこからの記憶は、曖昧だった。  覚えているのは、絶えることのない電子音と、震えるような高揚感だけ。


 積み重なるAT(アシストタイム)。  上乗せされる枚数。  完走、そして「ツラヌキ」による再突入。  スマスロ特有の爆発力で、飲み込まれた8万円が、倍、いや3倍の速度で吐き出されていく。


 【獲得枚数:12,000枚 OVER】


 今日、何度目かのエンディング到達。  画面には、機種のキャラクターたちが「Congratulations!」と祝福している。  万枚オーバー。スロッターの夢であり、到達点。  だが、ケンジの表情は冷めていた。  熱狂は去った。あとに残るのは、心地よい疲労感と、賢者タイムのような静けさだけだ。


「……取り切ったか」


 午後9時。  ケンジは席を立った。  クレジットを精算ボタンで流す。  隣のカイトが、気まずそうに声をかけてきた。


「あの……お疲れっす。万枚とか、マジで神っすね」 「……ああ」 「俺、さっきまでアンタのこと、終わったオッサンだと思ってました。……でも、あのフリーズ引いた時の背中、ちょっとカッコよかったっす」


 若者の素直な言葉。  ケンジは鼻で笑い、加熱式タバコの吸い殻を片付けた。


「勘違いすんな。俺はただの中毒者だ。カッコいいもんじゃねぇよ」


          *


 景品交換所の小窓から、大量の黄色いプラスチック板が吸い込まれていく。  特殊景品(大)の束。重みが違う。  しばらくして、トレイに押し出されてきたのは、分厚い万札の束と、小銭。


 24万数千円。  投資8万1千円を引いて、16万円以上のプラス。大勝だ。  普通のサラリーマンの給料一ヶ月分を、たった半日で稼ぎ出した計算になる。


 だが、ケンジは札束を財布にねじ込むと、近くのコンビニに入った。  買ったのは、発泡酒と、ホットスナックのチキンだけ。


 店の前の駐車場。  車止めに腰掛け、プシュッ、と缶を開ける。


「……乾杯」


 誰もいない夜空に向かって、缶を掲げる。  月が綺麗だった。  昼間、サラリーマンたちが歩いていた道は、今はひっそりと静まり返っている。


 勝った。  今日は勝った。  だが、明日は? 明後日は?  この24万円も、また来週にはサンドの中に消えているかもしれない。  保証なんてどこにもない。退職金もない。あるのは、このヒリつくような孤独だけ。


「……でもまぁ、悪くねぇ人生だ」


 ケンジはチキンを齧り、苦い酒を流し込んだ。  社会のレールからは外れた。  多くのものを失った。  それでも、あの「1/65536」を引いた瞬間の、脳が焼けるような全能感だけは、誰にも奪えない俺だけの宝だ。


「さて……帰ってデータまとめるか」


 ケンジは空き缶をゴミ箱に投げ入れた。  スマホを取り出し、明日の「特定日」のホール情報をチェックする。  その背中は、朝よりも少しだけ、力強く見えた。


 俺の人生(RUSH)は、まだ終わらない。  明日もまた、抽選ボタンを押すために、俺は並ぶのだから。


(完)

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『期待値(プライド)の向こう側 ~40歳・無職・スロプロ。俺の人生(RUSH)は、いつ抽選されるのか~』 無音 @naomoon

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