6-1. 寛大なご配慮に感謝します

 アイザを出てからの旅路はあっという間だった。

 資金を得たことで余裕が生まれたこともそうだが、今まで以上に魔物との戦いに時間がかからなくなったことが大きい。その要因は自分にあると傲慢ながらも考えている。

〝不死〟の祝福があると分かってから、俺は魔物との戦いで躊躇することが減った。魔物の懐に飛び込みインファイトを仕掛ける。二足歩行の魔物を羽交締めにしてカイにぶった斬らせたこともあった。その時はさすがにヒサラから説教を食らうことになったのだが。

「シラセさん、前にシズ姉に言ったことを忘れたの? たまたま生き返っただけで本当に〝不死〟なのかは分からないんだから、あまり軽率な行動は取らないで」

 ヒサラの言うことは尤もだ。でも俺は死の恐怖と同じくらいパーティの足手まといになることが嫌だった。結果的には〝不死〟に頼るような致命傷を負うこともなく、途中で二、三の村や街に寄り——そこでもなんだかんだトラブルに巻き込まれた——旅が進んだ。

 そして一ヶ月後、俺達は王都に到着した。

「でっっっっか!」

 街道の終わり、小高い丘から王都の全景を見渡してその壮大さに圧倒された。

 王都は周囲を堀と城壁で囲んだ言わば城塞都市のような作りになっており、壁の内側には大小いくつもの建物が見える。丘陵をそのまま都市にしたのだろう、中心に向かうに従って高低差が生まれていき、頂上には一際目立つ白亜の城が天を衝いていた。

「壁の外側にも街がある……あれだけでエルオースやアイザに匹敵する規模だぞ」

「王都は人口の密集が著しくて、もう城壁の内側は満杯なんです。ですからああやって堀と城壁を囲うように新しく街を作ることになったんですよ」

 シズの言うとおり、堀を隔てた周囲には比較的新しくシンプルな造りの建物が多く見られる。逆に城壁の内側の建物は豪奢なものがほとんどだ。

「城壁の内側は領教区と呼ばれ、領人や領主様、それに神教の関係者などが住んでいます。商工業者や農民などの一般市民は城壁の外側の市街区に住んでいます」

「壁で区別してるってわけね。よくやるわ」

 領主であるアイツォルク卿は当然ながら領教区に住んでいるので、俺達は城壁を通過するために市街区へと足を踏み入れた。

 市街区は堀と城壁を囲むようにして同心円状に広がっていた。建物は二階か高くても三階ぐらいの高さで、木造と石造が半々といったところ。通りはきちんと石畳で舗装されて獣車の往来も多い。俺の世界でいえばちょうど東京の下町に似た印象を受ける。

 行き交う人々の格好も千差万別だ。俺達のように簡素な旅装の一団もいれば、チャイナドレスやトーブのような特徴的な衣装に身を包んでいる姿もある。

 それら大勢に自然と混ざる紅白の髪の人間、つまり咎人の存在も目を引く。彼らはこれまで目にした虐げられる姿ではなく、大手を振って街を歩き、商品を売買している。たまに奇異の目を向けられていることもあるが、それは王都の人間ではなく決まって旅人からだった。

「王都は国中から人が集まってきます。そこには亜人族も含まれますし、咎人も例外ではありません。いくつもの人種が入り混じったこの場所では、咎人だけを排除するような価値観は薄れているんですよ」

「あくまでも王都で生活できることが前提だけどね。住む場所もないようなやつは衛兵から追い出されるわ。もちろん税が払えない場合も同様よ」

「ヒサラとカイは来たことがあるのか?」

「オレたちも来んのは初めてだ。ヒサが知ってんのはじーさんに聞いたんじゃね?」

「あんたもその場で聞いてたでしょ……」

 当初の予定よりも早く王都に到着したので暇を持て余すかと思ったが、シズが面会の依頼をアイツォルク卿の従者を通じて頼むと、ちょうど時間があるらしくそのままお目通りが叶う運びとなった。

「カイくん、ヒサちゃん。ごめんなさい、二人には宿で待っていてほしいんです」

 市街区に宿を取って面会の支度を整えている最中に、シズはそう兄妹に切り出した。

「アイツォルク卿はその、神教に非常に厳格な方で……」

「咎人を通したくないんでしょ、分かってるから。あたし達はその辺りで見物でもしているわ」

「オレも領主なんてのには会いたくねー」

 アイツォルク卿との面会はシズと俺の二人で行くことになり、支度を終えて城壁まで来たところで兄妹と別れる。カイは早く王都を見物したくてうずうずしていたし、ヒサラはそんな兄に付き合うのを面倒そうにしながらも内心では楽しみにしているように見えた。

 通行料を支払って城門をくぐると、城壁の内側は市街区の喧騒とは反対に落ち着いた雰囲気に満ちていた。邸宅に備え付けの庭やよく整備された街路樹から小鳥のさえずりが聞こえる。大声を出そうものなら衛兵が飛んできそうな勢いだ。

 アイツォルク卿の邸宅は城門から少し坂を登ったところにあった。煉瓦と鉄柵の正門で待っていた従者に招かれて、俺達は邸宅へと足を踏み入れた。

 邸宅はロフェルにあるシズの家を何倍も広くしたものだった。赤絨毯が隙間なく床に敷かれ、マホガニー色の腰壁と白の漆喰が美しく調和している。細部まで凝った意匠には共通して花の紋様が見てとれた。

「それはアイツォルク家の紋章で、リリアの花をあしらったものです。私の家もこの紋章から派生したものなんですよ」

 アイツォルク家とロフェル家。領主と領人の関係を考えれば頷ける話だ。

 初老の従者の案内に従って、俺達は二階の応接間に通された。アイツォルク卿は別の部屋で仕事をしているとのことで、しばらく待つ必要があるらしい。

「意外と簡素な内装なんだな、領主の家っていうのは」

「いえ、アイツォルク卿があまり派手なものを好まないだけで、他の領主様の家はもっと豪華です。それにここにある家具はどれも特注品ですよ。アイツォルク卿は煌びやかなものより、材質や由来など目に見えない価値を好みます」

 シズは王都で暮らしている時にこの邸宅で働いていたらしく、客人のもてなしのためアイツォルク卿の好みやこだわりについて把握しているようだった。

 その後も時間を潰すためにシズと話していると、入り口の扉が音を立てて開き、従者とともに白い正装に身を包んだ男が現れた。

「待たせた」

 男は立ち上がろうとした俺達を手で制し、テーブルを挟んで向かいのソファに腰を下ろした。

「久しぶりだな、シズカ嬢」

「お久しぶりです、アイツォルク卿。この度は面会の機会を頂き誠にありがとうございます」

 シズが頭を下げたこの男こそ、フューシー・レ・ウォル・アイツォルク。ロフェル村のあるアイツォルク領の主だった。年齢は三十一だと事前にシズから聞いていたが、なるほど顔付きには若さが残っている。白銀の髪を後ろに流し、鋭い碧眼で威圧するように俺達を見る姿は、人の上に立つことを当然と思う人間の立ち振る舞いだ。

「お前の兄から話は聞いている。情報院に入りたいそうだな。目的はその男か?」

「その通りです。この方はシラセさんと言って——」

「いやいい。紹介せずともすでに素性は耳に入っている」

「と、言いますと……?」

 状況の読めない俺達を横目にアイツォルク卿は従者に顎で合図した。すると部屋にもう一人、今度は女性の従者が扉の影から現れた。あの顔、どこかで出会ったことがある気がする。

「アイザで会っただろう?」

「あ……!」

 アイツォルク卿の言葉で思い出す。アイザでシズと一緒に龍の生贄にされそうだった女。一人は龍に喰われたがもう一人は行方不明になっていた。龍の攻撃で谷に落ちたのだと思い込んでいたが、まさか生きていたとは。

 俺達が思い出したことを察すると、給仕の女は軽く頭を下げた。

「なぜそちらの方がアイザに? わたし達の様子を見にきたということですか?」

「自惚れるなシズカ嬢。領人の娘の安否など気にして何になる。あいつをアイザに向かわせたのは別件だ。それはまた後で話すとして」

 アイツォルク卿は腕を組み、俺達を睥睨する。

「〝不死〟だそうだな、お前たち」

 その言葉に心臓が跳ねる。そうだ、あの女が生きているなら、シズが〝不死〟であることも俺が生き返ったこともアイツォルク卿に筒抜けに違いない。

「神教において呪いとも呼ばれる祝福だ。それを我が領地の領人の娘が持っているとはな。おまけに同じ呪いを持つ迷人まで連れている始末」

「……本当に申し訳ありません。私達も自らの祝福を知ったのはこの旅を始めてからなのです。決して隠していたわけではありません」

「それを証明する手立てはあるのか? 無いだろう? であればお前の謝罪に意味は無い。情報院への出入りぐらいであればこの面会をもって許可してやろうと思っていたが、神教に反する人間となれば話は別だ」

 完全にアイツォルク卿のペースだ。いや、元々交渉もクソもない。領主と領人という立場の違いがあるのだから、俺達はただ相手の話を易々諾々と聞くしかない。

「すみません……」

 シズと一緒に深々と頭を下げる。祝福なんて生来的な要素を自分でコントロールできるわけがないのに、それが足枷となることに歯痒さを感じる。

 解散だ、門前払いだ。また別の道を探さなければと思っていたところで、

「まだ話は終わっていない」

 アイツォルク卿が腕組みを解き、今度は顎に手を当てた。

「私はお前たちが〝不死〟だからといって全てを拒否しようだなどと考えてはいない。ときにそこのお前」

「は、はい。俺ですか?」

「お前以外に誰がいる。聞いた話によると、アイザで龍を相手に呪縛魔術を行使したそうだな。その力には少し興味がある」

「それは……」

 呪縛魔術は〝不死〟で蘇った直後に自覚なく行使できただけだ。だが、その事実を伝える前にアイツォルク卿は話を続けた。

「従者をアイザに行かせた理由だが、あの街で旅人が姿を消しているという噂と龍の目撃情報を確かめるためだ。統括軍としても放っておくわけにはいかないからな。そこに偶然出くわしたのがお前たちだ。龍との戦闘でアイザの人間は全員死亡したが、お前たちだけは生き残った。しかも逃走したわけではなく谷底に撃墜したというじゃないか」

 アイツォルク卿は口元を緩めた。

「なかなか優秀な部下を持っているようだな、シズカ嬢。闇術と神聖術の使い手が一人ずつ、それに腕の立つ戦闘員。どうだ、その力を私の隊で使うつもりは無いか? 返答次第では要望に応えてやらんでもない」

 軍隊への勧誘。提案のように聞こえるが、立場を考えれば拒否権などあるはずがない。

「もちろんです。隊の末席に加えていただけることを光栄に思います」

「結構だ。統括軍は現在いくつかの治安維持に関する任務を遂行している。お前たちにはそこに参加してもらいたい。情報院への出入りは任務の完了後に許可し、その時にはお前たちの呪いについても不問とする」

「寛大なご配慮に感謝します」

「勘違いするな、配慮するのは任務が完了したらの話だ。……さて、それでは私は仕事に戻らせてもらう。任務開始は明後日だ。詳しいことは従者から聞いておけ」

 話を終えたアイツォルク卿は立ち上がり、そのまま扉まで歩いていく。

「ああ、それとシズカ嬢。後で私の執務室まで顔を出すように」

「……はい」

 去り際に捨て台詞を残し、領主は応接間を出て行った。


 ***


 シズがアイツォルク卿の執務室に呼ばれている間、俺は一人応接間に取り残されていた。従者からの作戦の説明はシズが戻ってからになる。

 アイツォルク卿から何かしらの要求があることは予想していたし、それはシズとも共有していた。予想外だったのは〝不死〟の祝福がバレてしまったことだ。

 俺達が参加する治安維持作戦がどんなものかも気になる。治安維持と冠するぐらいだから考えられるとすれば魔物の討伐。しかも龍のような上位種を相手にすることになるだろう。仮に王都から遥か遠く離れた場所まで行くことになれば、それこそ年単位で時間がかかる。

 カナタに来てからもう半年が経とうとしている。俺のいた世界は今どうなっているのか。そもそもカナタと俺の世界で時間の流れは同じなのか。別世界から帰ったら何十年も経過していたなんて展開の小説や漫画は枚挙にいとまがない。

 どちらにせよ、俺の世界で結奈を待たせていることに変わりはない。結奈のことだから愛想をつかすことは無いだろうが、怒られるのは間違いない。

 本当に? 実はもうとっくに別の——

「違う」

 首を振って下らない空想をかき消す。

「……遅いな」

 シズがアイツォルク卿の執務室に呼ばれてから三十分が経過しようとしていた。広い応接間のしんとした雰囲気の中で待つというのは、退屈でもあり不安を掻き立てるものでもある。

 シズとアイツォルク卿はどういう関係なんだろうか。領人と領主という上下関係を抜きにしても、年齢はそこまで変わらない上にシズはこの邸宅で働いていたというし、すでに昵懇の間柄でもおかしくはないんじゃないか。先ほどは俺や従者がいる手前、堅苦しいやり取りを交わしていたが、執務室で二人きりになったら……。

 そこまで想像して、急激に胸から胃が締め付けられるような感覚がこみ上げてくる。

 この感覚はなんだ? 俺には結奈がいるはずだ。自分の女を取られたように考えるのはよせ。

「シラセさん?」

 不意に声をかけられて顔を上げると、扉の前にシズが立っていた。その後ろには先ほどの従者の姿も見える。

「どうしたんです? そんな怖い顔をして」

「あ……ああ、大丈夫。ちょっと任務について考えていただけで」

 先ほどの想像のせいでシズの顔をまともに見られない。俯き加減に答える俺をシズも疑問の目で見てくる。

「本当に?」

「本当だって……。それよりも任務のことを聞かないと」

 無理やり話の流れを変えて、従者から任務の概要を説明してもらう。

 予想していたとおり任務というのは魔物の討伐のことだった。軍が出張っているのだから当然といえば当然だが、結局やることはこれまでの旅路でこなしてきた依頼と変わらない。

 俺達はアイツォルク卿の領主部隊に臨時兵として配属されることになった。役割としては遊撃隊で、本隊と協力して任務を遂行する。単位はシズを隊長に俺とカイ、ヒサラが戦闘員として下につく形だ。四人がバラバラになるケースも想定していたのでこれには助かった。

 最初の任務はエサンという山間の集落で開始する。そこは王都から東に二日ほど歩いたところにあり、近ごろ魔物の目撃情報が増えているらしい。それだけならどこにでもある話なのだが、奇妙なことに普段は縄張り争いを繰り広げる種が同時に目撃されたらしく、異常事態を考慮して統括軍に依頼が持ち込まれたそうだ。

 任務開始はアイツォルク卿が言ったとおり明後日という話だった。今から王都を発ってもギリギリ間に合うかというところ。道理でアイツォルク卿との面会がスムーズに進んだわけだ。

 それ以外の部隊編成や戦術などは貰った資料で任務開始までに確認しておくことになり、急ぎ従者に礼を言うとそのままアイツォルク卿の邸宅を後にした。

「差し支えなければ教えて欲しいんだが、執務室でアイツォルク卿と何を話したんだ?」

 領教区から市街区に戻る道すがら、俺はシズに尋ねた。

「ほとんどはロフェルに関することです。最近は魔物の動きが活発になっているせいで徴収できる税が減るかもしれないということ。それに領主部隊の登用の話も」

「登用って、俺達とは違うのか?」

「……ええ。領主部隊は基本的にその領地の村や街から選ばれた人間が登用されます。私達の場合は少し事情が違うので」

「確かに、選ばれたというよりは巻き込まれた方が正しいな」

「そうです。しかし今回に限って言えば遊撃隊という立場は利点でもあります。領主部隊は基本的に高齢や負傷による離脱しか認められませんが、遊撃隊はあくまで臨時兵ですから」

 領主部隊が想像以上に重要な存在であることに驚く。アイザで話を聞いた時は、てっきりならず者集団が功績を認められて領主からお墨付きを貰えるのだと思っていたからだ。

 城門を抜けて市街地に入ると喧騒が耳に響いてきた。その音に紛れるように俺はもう一つの質問をシズにぶつける。

「『ほとんどは』ってことは、ロフェル以外の話題もあったのか?」

「……」

 答えたくないのかシズは黙ってしまう。無理に詮索するつもりは無いので話題を変えようとしたところ、

「……結婚の話です」

「なっ!?」

 不意に出してしまった大声に周りの人間がこちらを注目する。

「お、おめでとう。領主と結婚できるってのはその……光栄なことなんだよな?」

 この世界における身分ついて詳しく知っているわけではないが、今までの見聞を参考にすれば領主との結婚はいわゆる玉の輿というやつだ。しかし、シズはどこか複雑な顔をしていた。

「断りました」

「えっ!?」

 再び声を上げてしまう。さっきとは別の人間がこちらに顔を向け、そしてまた去っていく。口をぽかんと開けたままの俺を見て、シズはぽつぽつと話を続けた。

「先ほど初めて申し出を受けたわけではありません。私があの邸宅で働いている頃から何度かアイツォルク卿から話はありました。その度に断ってきたのですが、久しぶりに私が王都に来たことで改めて返事を聞きたかったそうです」

「それでまた断ったってわけか。悪い話じゃないと思うんだけどな」

「……」

 シズは無言で俺を見つめてくる。その瞳には複雑な色が現れている。

「……お話していなかったのですが、私には昔、ロフェルに結婚を約束した方がいたんです。その方は鍛冶屋の息子さんで、小さい頃からいつも一緒に遊んでいました。大きくなったら結婚しようとお互いに誓い合うぐらいに」

 結婚の約束。俺と結奈がしたものと同じ。

「……微笑ましいな」

「ありがとうございます。私はその思いを胸に抱き続けて、今のヒサちゃんぐらいの歳の頃に王都に行きました。アイツォルク卿から結婚の申し出があったのはその時です」

 そうなると当時のアイツォルク卿は二十三ということになる。さすが金銭的に余裕のある貴族は結婚に対してもためらいが無い。

「それ、断っても大丈夫だったのか?」

「いくら領主様といえど結婚を強制させることはできません。もちろん強制ではないと言いつつ立場を利用して意のままに操ろうとする人間もいますが、少なくともアイツォルク卿はそのような方ではありません」

「俺達には部隊への参加を強制したのにな」

「あれだって丁寧に断れば強制はしなかったでしょう。ただその代わりにもっと厳しい条件が提示された可能性はあります。いつでも面会ができるわけではありませんし、あの場では承諾するのが最良と思いました。それが強制だと言われれば確かにそのとおりですが……」

 結婚のような一線だけは超えないというところか。あの年齢で領主を務めるあたり、そういうところはやはり強かだ。

「それで、その人とは結婚しなかったのか」

「しません……いえ、できませんでした」

「……すまん」

「安心してください。ロフェルにはいませんが今も元気でいらっしゃいます。できなかったというのは、単にその方から断られたというだけです」

 バツの悪い顔をする俺にシズは笑いかける。その笑顔が話の内容と比べて不自然に思える。

「些細なことのように言うけど、相当な大事じゃないのかそれは」

「そうですね……ただ、正式に婚約していたわけではありませんし、お父様やお母様も本気にしていなかったそうですから」

 道の先から仲睦まじい男女が歩いてくる。その姿に畏まるように俺とシズは道を譲る。

「その人はなんで断ったんだ?」

 言って、訊くべきではなかったとすぐに後悔する。案の定シズの顔に翳りが差した。

「『自分のような平民がシズ様と結婚するなんて許されるわけがない』と、そうおっしゃっていました。私が王都から帰ってすぐのことです。王都にいた二年という月日は、私とその方の間にあまりにも深い溝を作ってしまいました。それと……」

「……?」

「いえ、なんでもありません」

 シズはそのまま歩速を上げた。その先にはいつの間にか俺達の泊まる宿が見えている。

 宿の前まで来て、シズはくるりと俺の方を振り返った。

「彼女さんに早く会えると良いですね」

 そう言って、シズは寂しそうに笑った。

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