『高嶺のあなたに、泥だらけの愛を』
さんたな
第1章:泥濘(ぬかるみ)の恋心編
第1話『泥濘(ぬかるみ)の底から見上げる月』
六月の雨は、どうしてこうも貧乏臭い匂いがするのだろう。
錆びついた鉄と、アスファルトから立ち上る埃、そして生乾きの衣類が放つ酸っぱい湿気。それらが混ざり合い、俺――佐藤健太(さとう・けんた)の鼻腔を塞いでいる。
午後七時。定時はとっくに過ぎているが、空は分厚い雲に覆われ、夜のように暗い。
「……くそ、チェーンが外れた」
独り言は、叩きつけるような雨音にかき消された。
俺の手は真っ黒な油まみれだ。相棒である社用自転車――通称『銀チャリ号』は、俺と同じ二十九歳くらいの年季が入った代物で、肝心な時によく機嫌を損ねる。
俺は営業三課の「お荷物」だ。
同期がプリウスやカローラといった社用車で颯爽とバイパスを走る中、俺だけがこのボロ自転車で近隣の住宅街をドブネズミのように這い回っている。理由は単純。俺には運転免許がないからだ。
金がないから教習所に行けなかった学生時代。就職してからも、パチンコと安酒に逃げて貯金を作らなかった二十代。
気づけば二十九歳。貯金残高三万二千円。彼女いない歴=年齢。
鏡に映る自分は、タヌキを少し湿らせて不機嫌にしたような、何の特徴もない顔をしている。
「おい佐藤、まだそんなとこで油売ってんのかよ」
会社の通用口から、笑い声が降ってきた。
見上げると、同期の松田がタバコを吹かしている。あつらえたばかりのオーダースーツに、整えられた髪。手には車のキーが光っている。
「雨の日くらいタクシー使えよ。あ、金ねえのか。ごめんごめん」
「……お疲れ様です」
「部長が戻る前には消えとけよ? その汚いナリ見たら、また機嫌悪くなるからさ」
松田はゲラゲラと笑いながら、自動ドアの向こうへ消えた。
悔しい、と言い返せればどれだけ楽か。けれど、俺の喉元まで出かかった言葉は、自身の不甲斐なさという重りで胃の腑へと落ちていく。
俺は油で汚れた手を雨水で洗い流し、自転車を押して軒先へと向かった。
その時だった。
重低音が、湿った空気を震わせた。
水たまりを切り裂くようにして滑り込んできたのは、漆黒の流線型。ドイツ製の高級車だ。雨粒さえもが、そのボディに触れることを恐れて弾け飛んでいるように見える。
運転席から降りてきた初老の運転手が、恭しく後部座席のドアを開ける。
その瞬間、世界が変わった。
最初に現れたのは、磨き上げられた黒いピンヒール。
アスファルトに突き刺さるような鋭角なヒールが、優雅に地を踏む。
続いて、タイトスカートに包まれた完璧な曲線美。年齢を感じさせない、引き締まった足首からふくらはぎへのライン。
二階堂薫子(にかいどう・かおるこ)。四十五歳。
営業部の部長にして、この会社の実質的な支配者。「女帝」とあだ名される、俺の雲の上の上司だ。
(……いい匂いだ)
距離にして五メートル。雨の匂いも、俺の体臭も、すべてを塗り替えるような高貴で冷ややかな香水の香り。
俺は濡れた前髪の隙間から、彼女を盗み見た。
整えられた黒髪をアップにし、白磁のように白い肌には、一切のシミもシワも見当たらない。冷徹な知性を宿した切れ長の瞳は、前だけを見据えている。
美しい。
そして、どうしようもなく「支配されたい」と思わせる圧倒的なオーラ。
社内恋愛禁止。そんな規定がなくとも、誰も彼女に触れようとはしない。格が違いすぎるからだ。
だが、俺は違う。
俺のような底辺の人間は、失うものがない分、妄想だけは肥大化する。
(あわよくば、この女が……)
何か弱みを握られて、俺にすがりついてこないか。
停電したエレベーターに閉じ込められて、二人きりにならないか。
そんな下劣で、浅ましくて、現実逃避じみたポルノのような妄想だけが、俺の惨めな日常を支える唯一の糧だった。
薫子が、ふと足を止めた。
エントランスへ向かう動線の端に、濡れ鼠の俺が突っ立っていたからだ。
「……おはようございます、部長」
反射的に頭を下げる。雨水がボタボタと床に落ちた。
無視されるだろう。いつもそうだ。彼女にとって俺は、オフィスの観葉植物よりも存在感のない背景なのだから。
しかし、彼女はゆっくりと首を巡らせた。
その瞳が、俺を捉える。
まるで、高級レストランの料理に混入した異物を見るような目だった。
「佐藤さん」
心臓が跳ねた。名前を憶えていたのか。
「は、はいっ!」
「あなた、ここは会社のエントランスよ」
声は鈴を転がすように美しいが、温度は絶対零度だった。
「はい、あの、自転車が故障して……」
「言い訳は聞いていないわ。私が言いたいのは」
薫子は一歩、俺に近づいた。
香水の香りが濃くなる。俺の喉がゴクリと鳴る。
「その湿った雑巾のようなスーツで、得意先を回ってきたの?」
「……え」
「お客様はね、商品を買うんじゃないの。夢を買うの。あなたのような、生活感と疲労と貧しさが染み付いた人間から、誰が夢を買いたいと思うのかしら」
言葉のナイフが、的確に俺の急所を抉っていく。
反論の余地などなかった。事実だからだ。
「近づかないでちょうだい。私のコートに、そのカビ臭い匂いが移る」
彼女はハンカチを取り出し、口元を軽く覆った。
その仕草があまりにも優雅で、そして残酷で、俺は立ち尽くすしかなかった。
彼女は踵を返し、カツカツとヒールの音を響かせて自動ドアの向こうへと消えていく。
残されたのは、俺と、壊れた自転車と、止まない雨だけ。
惨めだった。
涙が出そうなくらい、自分がちっぽけだった。
だが、俺の身体の奥底で、奇妙な熱が渦巻いているのを感じていた。
見下された。ゴミ扱いされた。
その事実が、たまらなく俺の神経を逆撫でし、同時に興奮させていた。
――いつか、あのすました顔を歪ませてやる。
俺を見下したその瞳が、涙で潤んで俺を見上げる瞬間を見てみたい。
あの完璧な女帝を、この泥だらけの手で引きずり下ろして、俺のものにしてやる。
それは愛なんて呼べる代物ではない。
劣等感から生まれた、歪んだ復讐心に近い執着。
けれど、何もない俺にとって、それだけが今、明日を生きるための強烈なエネルギーになりつつあった。
俺は泥だらけの手で拳を握りしめ、彼女が消えた自動ドアを睨みつけた。
(つづく)
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