​第2話 『生乾きのカビと、数字の暴力』

翌朝、俺を待っていたのは「現実」という名の暴力だった。

​ 昨日の雨でずぶ濡れになったスーツは、ドライヤーで乾かしたものの、強烈な生乾き臭を放っていた。クリーニングに出す金も時間も惜しんだ結果がこれだ。

 ファブリーズを一本使い切る勢いで吹きかけたが、安い香料とカビの臭いが混ざり合い、かえって「不潔な男が無理して取り繕った」ような、鼻につく悪臭に変貌していた。

​「……うわ、なんか臭くない?」

「湿気た雑巾みたいな匂いするよね」

​ 朝のエレベーター。俺が乗り込んだ瞬間、背後の女子社員たちがヒソヒソと囁き合う。彼女たちはハンカチで鼻を押さえ、露骨に俺から距離を取った。

 俺は小さくなって、階数表示を見つめることしかできない。

 昨日の二階堂部長の言葉が蘇る。『私のコートに匂いが移る』。あの言葉は、ただの悪口ではなく、この世界の正解だったのだ。

​ 営業部のフロアに着くと、そこはすでに戦場だった。

 壁に張り出された『今月の営業成績グラフ』。

 俺、佐藤健太の棒グラフは、地平線のように平らだ。ゼロ。見事なまでのゼロ行進。

​「おい佐藤! これどういうことだ!」

​ 朝礼が始まる前、直属の上司である課長が、俺のデスクに書類を叩きつけた。

​「先週の見積もり、桁が一つ足りねえぞ! お客様から『お宅は安売り王か?』ってクレームが入ったんだよ!」

「す、すみません! 確認したつもりだったんですが……」

「つもり? お前の『つもり』で会社が潰れたらどうすんだ! これだから社会人経験の足りない奴は……」

​ フロア中に響き渡る怒声。

 俺は直立不動で頭を下げる。視界の端で、同期の松田がニヤニヤしながら、自分のパソコン画面――今月の契約成立リスト――を眺めているのが見えた。

​ そして、その騒ぎの奥。

 部長席に座る二階堂薫子が、ゆっくりと顔を上げた。

​ 心臓が凍る。

 昨日の今日だ。何か言われるかもしれない。「またあなたなの?」と呆れられるかもしれない。

 だが、現実はもっと残酷だった。

​ 彼女は、俺を見なかった。

 怒鳴られている俺を一瞥もしなかった。

 ただ、不快そうに眉を少し寄せ、近くにいた女性社員に何かを指示している。

​「……あ、佐藤さん」

​ その女性社員が、申し訳なさそうに俺に近づいてきた。手には空気清浄機のリモコンが握られている。

 彼女は俺のデスクのすぐ横にある空気清浄機を『強』に設定し、風向きを俺の方へ向けたのだ。

​ ブォォォォォン……!

​ 無機質なモーター音が、俺の周りの空気を強制的に吸い込んでいく。

 部長の指示だ。「そこの空気が汚れているから、清浄しなさい」という、無言の命令。

 俺は怒鳴られるよりも深く、人間としての尊厳を傷つけられた。

​「……すみません、課長。訂正して、すぐにお持ちします」

「お前は行くな! 松田に行かせる!」

「え」

「お前が行くと、その貧乏神みたいな顔と臭いで、まとまる話も流れるんだよ! お前は裏でホチキス止めでもやってろ!」

​ 課長は書類をひったくり、松田に「頼む」と渡した。松田は「了解っすー。佐藤、ドンマイ」と軽薄にウインクをして、颯爽と営業車へ向かう。

​ 俺は残された。

 電話も鳴らない。行く当てもない。

 ただ、空気清浄機の轟音だけが、俺の隣で唸りを上げている。

​ ふと、部長席の方を見る。

 薫子は電話中だった。流暢な英語で、どこかの海外クライアントと話している。知性、美貌、実績。彼女の周りだけ、スポットライトが当たっているかのように輝いて見える。

​ 同じ人間なのに。同じ空間にいるのに。

 俺たちは違う種族だ。

 彼女は天上の白鳥。俺は泥沼のドブネズミ。

​ 悔しさがこみ上げてくるはずだった。

 だが、俺の胸に去来したのは、昨日と同じ、あのねっとりとしたドス黒い感情だった。

​(……あんな完璧な女が、もし俺の前で崩れ落ちたら)

​ 英語を話すその唇が、俺の名前を呼んで許しを乞うたら。

 その冷徹な瞳が、熱を帯びて俺を見つめたら。

​ 俺はホチキスを握りしめた。針が指に刺さり、血が滲む。

 痛みで、俺はようやく自分が生きていることを実感した。

​ 昼休み。俺は一人、非常階段で百円のコンビニおにぎりを齧った。

 パサパサの米が喉に詰まる。

 スマホで『運転免許 費用』と検索する。

 表示された金額は三十万円。今の貯金の十倍だ。

​「……無理だろ」

​ 画面を消し、暗い階段を見下ろす。

 底辺の生活は、まだ始まったばかりですらなかった。俺はずっとここにいて、これからもここにいるのだ。

​ その時、階段の上からヒールの音が近づいてくるのが聞こえた。

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