朝廷側も、天皇、正成、義貞だけならば、もっと機動的に動けたんでしょうけど、荘園公領からの収入低下で経済的余裕を失い、男系子孫が増えて内部対立の火種を抱えた公卿を大量に抱えて、動きが遅くて効率悪いですね。それを組み替えて幕府の体制を整える高さんも恐るべし。
こうやってみると、建武体制もっと武臣をたいせつにしていれば、と思うのだけど、できなかったんだな。
天皇方が勝ったところで、新田義貞の首を差し出して講和という敗者側のような条件を出した楠木正成もすごい判断だと思いますが、どこまで本気だったのでしょう?
おもしろかったです。
作者からの返信
新政とうたいながらも、旧体制のデメリットを引き継いでおり、その辺が玉座の革命家の限界だったのかもしれません。
太平記だと、ことあるごとに公家の誰かが正成に反対していますが、つまりは公家層の反発があった、ということなのでしょう。
師直はこの辺を見ていて、というか働いてみて、この限界を取っ払おうとしたのかも^^;
建武政権は、天皇と公家を大将として勝ってしまったため、だからこそ武臣を軽んじる展開だったのでしょう。
元弘の乱において――武臣は、天皇と公家の言うことを聞いただけ、みたいな。
この辺を察したからこそ、尊氏は建武政権から距離を置いていたんでしょうね。
義貞の首を出して和睦、というのは梅松論に載っているみたいです。
太平記でそれやっちゃうと、湊川の戦いの前の、義貞と正成の飲み会への流れがおかしくなっちゃうので(笑)、載らなかったのでしょう。
正成としては、そこまでしても、和睦すべきだと思ったのでしょう。
実際に尊氏と戦った身としては、和睦の必要を痛切に感じており、ほんとうに首を出すかは置いておいて、何としても尊氏との和睦をと必死だったのかも。
……そして、こういう判断と諫言をする貴重なブレーンを、次の湊川であんな目に遭わせちゃう後醍醐は、もう限界だったと思います。
ありがとうございました。
編集済
こんばんは、御作を読みました。
正成さんの後ろ盾が……、この時点では亡くなられているといえ、よりにもよって大塔宮護良親王だったから、なおのこと公家たちは色々と反対したのかも知れません。
護良親王は良かれと思って征夷大将軍になろうとするし(天皇親政やりたい親父さんの意図を読み違えてる)、野盗崩れを囲うし、尊氏暗殺計画立案が噂されてるし……と、後醍醐帝の地雷を踏みまくった方だったからなあ。
結果的に、正成さんの正論はすべて封殺されちゃった。なんとも悲しいことです。
足利方からみた、彼の動きが面白かったです。
作者からの返信
大塔宮は中二病って言うか、そこまでせんでも……というところがありましたからね。
正成さん、そこはビジネスライクに大塔宮とは距離を置いています。
だから大塔宮が鎌倉に行っちゃった時も、変わらずに師直さんとキャッキャウフフしながら仕事してました^^;
でも公家からすると同じ穴の狢だったんでしょうね……。
だから正成さん、スペシャルで、敵二百万で、籠城戦なんだよと叫んでたけど(笑)、無視。
むしろ足利から「すごいなあ」と感心されているところ(だから梅松論に書かれているのでは)が、何とも言えません^^;
ありがとうございました。