第5話
暖かな夕日が街を包み込むなか、ひかりは川沿いの遊歩道をゆっくりと歩いていた。
リナが語った故郷の話や、音楽への思い入れ。そして彼女が口にした、「音楽の力」という言葉。
それは、ひかりの心の奥深くに眠っていた記憶を無理やり引きずり出すような不思議な力を伴っていた。胸の中で静かに、それでも確かに響き続けている。
あれは冬の日のことだった。ひかりが20代で保育士を目指していた頃、児童養護施設での泊まり込み実習に参加していた。施設の子どもたちと触れ合いながら、実習を通じて多くを学ぶ…そのはずだった。
施設の一角で出会ったのは、小学校1年生くらいの少女だった。目が大きく、華奢な体つき。しかし、彼女の笑顔はどこか引きつるような、寂しさを隠そうとする作りもののようだった。
施設内で他の子どもたちから冷たく扱われているところを何度も見たひかりは、少女が常に「孤独」と向き合っていることに気付かされた。
ある日の午後、ひかりが職員室で書類の整理をしていると、廊下の奥からかすかな声が聞こえてきた。
「どこにあるんだろう…」
独り言のような、小さなつぶやきだった。その声に導かれるように廊下を進むと、施設の隅で少女が必死に棚を覗き込んでいる姿が目に入った。戸惑いと不安の表情を浮かべていた。
「どうしたの?」
ひかりが静かに声をかけると、少女は驚いたように振り向いた。
「……私の髪留めがなくなっちゃったの。たぶん、春香ちゃんたちが隠したんだと思う。」
「髪留め?」
彼女は少しだけうつむきながら、ぽつりと付け加えた。
「赤い花の形のやつ。お気に入りだったの。でも、みんな知らないって言うの。」
その言葉を聞いた瞬間、ひかりの胸は締め付けられた。施設での長い日々の中で、誰にも頼ることができない小さな少女の孤独が滲み出すようだった。ひかりは膝をついて少女と目線を合わせ、柔らかく笑いかけた。
「一緒に探してみようか?赤い花の髪留め、きっと見つかるよ。」
少女は少しためらいながらも、ひかりの差し出した手を握った。小さなその手からは、頼ることへの戸惑いと、それでも信じてみたいという願いが伝わってきたようだった。
(あのときの小さな手の感触は、今でも忘れられない)
その日から、二人の絆は少しずつ深まっていった。
実習も終盤にさしかかったある夕方、ひかりが施設のピアノで子どもたちと一緒に歌う時間がやってきた。日が沈みかけた窓辺から差し込む柔らかい光のなかで、澄んだ音色が響いていた。少女もそっと近づき、ひかりの隣に立った。
「これから讃美歌を歌うの。知ってる?」
「…さびか?」
興味を示すような、でもまだ少し警戒するような声。それでも少女はピアノの鍵盤に視線を向けていた。ひかりは歌い始めた。優しいピアノの伴奏に合わせて、手話を交えながら歌詞を子どもたちに伝えていく。
「ここはね、『神の愛』を表している手話だよ。この動き、見える?」
ひかりが柔らかな動作を見せると、少女は目を輝かせた。そして、その動きを真似しながら無邪気に笑った。
「これ、すき。」
ひかりは胸が熱くなるのを感じた。こんなに心を閉ざしていた少女が、ひかりの声や手話を通じて笑い、楽しむ姿に、何かを救われたような気持ちになった。
その日から、少女は毎日のようにひかりに「また歌おう」「もっと教えて」とせがむようになった。賛美歌が二人の間で小さな絆を象徴する大切なものとなっていった。
しかし、実習の終わりはやってきた。最終日、ひかりは別れの時間が近づくことに胸を痛めていた。
「また来るから、それまで元気で待っててね。」
「ほんとに来る?」
少女の小さな声は震えていたが、その瞳は必死にひかりを信じようとしていた。
「約束する。もっと手話も教えるし、また一緒に歌おうね。」
少女が小さく頷くのを見て、ひかりはその小さな肩を優しく抱きしめた。しかし、その約束は果たされることはなかった。思い通りにならない事情が重なり、ひかりはもう一度施設に足を運ぶことができなくなってしまったのだ。
ふと歩みを止め、ひかりは空を見上げた。その胸には、時間が経っても消えない後悔と、それを覆い隠すことのできない罪悪感が横たわっていた。少女の笑顔、そして、神の愛を示す手話。そのすべてが、心の中で今も鮮やかに生き続けている。
「音楽の力」 その言葉は、ひかりにとってまだ触れるのが怖いものだった。
それでも、心のどこかで再び旋律を紡ぐ時が来ることを…そして少女との絆に、自分らしく向き合える日を、願わずにはいられなかった。
(続く)
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