第8話 風の匂いが教えてくれたこと
スペインに来て半年が過ぎた。
アパートの窓からは、相変わらず市場に向かう人たちの声と、
どこかのカフェから漂ってくるコーヒーの香りがした。
朝、トマトをこすりつけたトースト——パン・コン・トマテをかじり、
バルコニーでカフェ・コン・レチェを飲む。
私の日常は、そんな静かな時間で始まる。
東京で過ごしていた頃、
朝はいつも「行かなくちゃ」「準備しなきゃ」で心がいっぱいだった。
でもスペインでは、急がなくてもいい。
少し遅れても笑って許される。
——このゆるさが、私を救ってくれた。
◇
市場へ行くと、マリアが大きな蟹を手にして笑った。
「今日はフィデウアよ! パエリアのパスタ版!」
「食べたい!」
「もちろん! あなた、最近いい顔してるもの」
「そうかな?」
「そうよ。
最初のあなたは“正しいかどうか”を気にしていた。
今のあなたは“好きかどうか”で生きてる顔」
私は照れながら笑った。
「……好きに選んでいいんですね。人生も」
「当たり前よ。
あなたの人生でしょう? 誰のものでもないわ」
そう言って、マリアは私の肩を軽く叩いた。
「スペインの女はね、“自分が満足するかどうか”だけを基準にするの。
周りが何を言おうと関係ないわ。
だって周りは、あなたの人生の責任を取ってくれないもの」
胸の奥に、
ゆっくりと暖かい何かが広がっていくのを感じた。
◇
その日の夕方、
悠人と海辺を歩いた。
地平線の向こうは、少しだけオレンジ色に染まっている。
波が寄せては返す音が、絶え間なく耳に入る。
「さゆり、最近ほんとに穏やかになったよね」
「そう? 自分ではよく分からないけど……」
「うん。なんか、生きてるテンポがあってきた感じ」
潮風で髪が揺れる。
私はゆっくり海を眺めた。
「ねえ悠人」
「うん?」
「私さ……
“日本にいなきゃいけない”って、
ずっと勝手に思い込んでたんだよね」
「うん」
「でも、そうじゃないんだってやっと分かった」
波打ち際に足跡がふたつ並ぶ。
「私は日本が嫌いなわけじゃないよ。
でも……あそこにいると、
“こうでなきゃいけない”“普通はこう”って声が大きすぎて、
本当の自分がかき消されちゃう気がしてた」
風がゆっくり吹き抜けた。
「スペインに来て、初めて思ったの。
“あ、自分の心ってこんなに自由だったんだ”って」
悠人は黙って聞いてくれていた。
「だからね——」
私は、海に向かってそっと息を吐いた。
「もう少し……スペインで暮らしたい。
自分の気持ちが満足するまで、ここで生きてみたい。」
そう声に出した瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
ずっと張りつめていた紐が、優しくほどけるような感覚だった。
「いいよ」
悠人は笑って言った。
「さゆりがそう思える場所なら、俺も一緒にいたい」
「……ありがとう」
「一年って決めなくてもいいじゃん。
帰りたくなったら帰ればいいし、いたいならいればいい。
それだけでよくない?」
私は海を見ながら、ゆっくり目を閉じた。
日本で聞いてきた“こうすべき”という声が、
遠くで波の音に溶けていく。
「……うん。“いなきゃいけない場所”なんて、本当はないんだよね」
そう言うと、
潮風が頬をなでていった。
視界の向こうには、
地平線がどこまでも広がっている。
“こう生きなければいけない”という狭い世界から、
私は静かに抜け出したのだ。
◇
活気溢れる市場も、
朝のトマトパンも、
マリアの豪快な笑い声も、
全てが私の心に根を張り始めていた。
だからもう決めた。
——私は、ここで暮らす。
——自分の心が満足するまで。
——誰の価値観でもなく、私のペースで生きるために。
バルセロナの街に灯る夜の光が、
やさしくまたたいていた。
パン・コン・トマテの朝に——子どもを産まない私の一年間スペイン暮らし 風谷 華 @Neko-ne
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