第7話 スペインの田舎へ——風と大地の匂い

 日曜日の朝。

 窓を開けた瞬間、爽やかな風が部屋にすべり込んできた。


「今日さ、ちょっと田舎行ってみない?」


 キッチンでパンを焼いていた悠人が言った。


「田舎?」


「マリアが、“ここから車で一時間の村がいい”って教えてくれた。

 市場で食べられない料理もあるらしいよ」


「行きたい!」


 スペインに来てから、私の“行きたい”はずっと素直に出てくる。

 最近、そのことがうれしい。


     ◇




 レンタカーで一時間ほど走ると、

 風景が一気に変わった。


 ビルも人も消え、

 黄金色の麦畑がどこまでも広がっている。


 風が一面を揺らすたび、麦が波のように動く。

 道路脇には、石造りの家がぽつぽつと並び、

 犬が自由に歩き回っている。


「ああ……すごい……」


「都会とは別世界だよね」


 バルセロナの活気とはまったく違う。

 ここでは、時間そのものがゆっくり歩いている。


 ——東京だったら、立ち止まることすら許されないのに。


     ◇




 村に入ると、

 広場の角に小さなバルがあった。


「¡Buenos días!(おはよう!)」


 中では、白髪の男性が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいて、

 犬が足元で寝ていた。


「ランチ、食べられますか?」


「もちろん! Sit, sit!」


 メニューは手書きで、

 気まぐれ料理(Plato del día)とだけ書かれている。


「何が出てくるんだろ……」


「こういうのが一番うまいんだよ」


 しばらくすると、大きな土鍋が運ばれてきた。


「これは……?」


「ソパ・デ・ガレーガ。ガリシアのスープさ」


 店主が胸を張って説明する。


 白いんげん豆、じゃがいも、キャベツ、

 そして干し肉から出た旨味が溶け込んでいる。


「いただきます……」


 一口飲んだ瞬間、

 胸の奥がじんわり温かくなった。


 にんにくではなく、

 野菜のやわらかい甘さが体中に染み渡る。


「これ……なんか泣きそうになる味なんだけど」


 悠人が笑う。


「わかる。なんか……優しいね」


 スペインの家庭料理は、とにかく“優しい”。

 派手さはないけれど、深く沁みる。


 日本の味噌汁みたいに、

 心の底を温めてくれる。


     ◇




 スープを飲みながら、私はふと思った。


 ——私は日本で、何をそんなに怖がっていたんだろう。


 産まないと言うと、

 「かわいそう」

 「いつか後悔するよ」

 そう言われるのが怖かった。


 出産に対する恐怖もあった。

 痛みも、身体の変化も、自分の命のことも。


 でも、スペインで暮らしているとわかってきた。


 怖いと感じるのは、悪いことじゃない。


 怖さそのものより、

 “怖いと言えない環境”がつらかったのだ。


 ここでは——

 怖いと言っても誰も眉をひそめない。


 むしろ「当たり前よ」と笑ってくれる。


 そういう社会の空気が、

 私の中の恐怖までふわっと薄めていくように感じた。


     ◇




 食後、村の外れにある丘に登った。


 麦畑の向こうには、青い空がまっすぐ広がっている。

 風が遠くから吹き抜ける。


「ねえ悠人」


「うん?」


「なんか私、ここにいると……

 “どう生きるべきか”じゃなくて、

 “どう生きたいか”が見える気がする」


 悠人は少し驚いた顔をして、

 それから静かに笑った。


「それって、すごく大事じゃない?」


「うん。東京では、ずっと見えなかったんだよ」


 東京では、

 目の前に“正しい生き方”が並べられていて、

 そこに合わせないといけない気がしていた。


 スペインでは、

 “正しい”より“楽しい”が基準になる。


 その差が、心の重さを変えるのだ。


     ◇




 風が麦を揺らす音が、サワサワと耳に届いた。


 私はそっと目を閉じた。


 私は——

 子どもを産みたいと思わない。

 出産は怖いし、人生を全部変える覚悟もない。

 でも、それでもいい。


 その気持ちは、

 “間違い”ではなく、

 “私の人生の形”なのだ。


 そう思えるようになったのは、

 この広い大地と、

 スペインの人たちの自由さのおかげだ。


「……来てよかったね」


 私が言うと、

 悠人は麦畑を見つめたまま頷いた。


「うん。ほんとに」


 麦の匂いを含んだ風が、

 静かに私たちの間を通り抜けた。

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