第8話 私の酒を割ったな!? 魔女の爆裂制裁

「やれッ!!」

 馬車が急停止した。

 強烈な慣性で、俺はもう少しで壁に頭をぶつけるところだった。

「痛っ……」

 頭を押さえる間もなく、外から複数の足音が聞こえてきた。

 幌の隙間から人影が見える。少なくとも十人はいる。

「詰んだ!」

 こいつが悪党だとわかってはいたが、いざ現実にこうなると、手足が冷たくなるほどビビる。

 早すぎる! 準備時間ゼロじゃねぇか!

「テ、テレサ!」

 俺はすがるような目で隣を見た。

 その銀髪ロリは、空になった酒瓶を睨みつけ、飲み足りないとばかりに不機嫌な顔をしていた。

「あいつら……」

「うるせぇな……」

「文句言ってる場合か! 殺されるぞ!」

 俺はなりふり構わず車内の隅に縮こまり、狭い空間で視線を走らせた。

 武器? ない!

 防具? ない!

 どうする? この狭い車内は棺桶だ。奴らが突入してきたら、俺たちは袋の鼠だ!

 その時、俺の目がバアルの後ろに積まれている荷物に止まった。

 麦の穂のマークが描かれた麻袋。

 あれは……小麦粉?

 ……。

 ……狂気じみている。

 こんな比較的密閉された空間でアレをやるなんて、自殺行為だ。

 だが、これしかねぇ!

「死ねぇ人身売買野郎!」

 俺は叫び声を上げ、火事場の馬鹿力で小麦粉の袋に飛びつき、引き裂いた。

「テレサ! 死にたくなきゃ伏せろ!!」

「あ?」

 俺は小麦粉の袋を掴み、狂ったように車内で振り回し、同時に両足で暴れて粉塵を舞い上げた。

 バサァァァァッ――!!

 視界が真っ白な粉塵で遮られる。

「ゲホッ、ゲホッ!!」

「な、なんだコリャ!?」

「目が! 目があああ!」

「今だッ!!」

 俺は隅に縮こまり、袖で口と鼻を塞ぎ、もう片方の手で壁にかかっていたランプを掴んだ。

 危険だ。

 密閉空間でこれをやるのは正気の沙汰じゃない。

 だが、俺は奴隷として売り飛ばされるのは御免なんだよ!

「くたばれぇぇぇ!!」

 俺は奇声を上げ、ランプをその白い粉塵の雲の中へと全力で投げ込んだ。

 パリン。

 ランプが割れる。小さな火種が、空気中に浮遊するデンプン粒子に触れた。

 しかし。

 予想していた天変地異のような大爆発は起こらなかった。

 火種は白い粉塵の中で二、三回明滅し、まるで喉を詰まらせたかのように、「ジュッ」という音を立てて――消えた。

「……」

 車内には静寂が訪れた。

 舞い散る小麦粉だけが静かに降り積もり、全員を雪だるまのように染めていく。

「……あれ?」

 俺は固まった。

 なんで? 本には書いてあったはずだ……あ、そうか、空間の密閉性が足りない上に、さっきの衝撃で酸素濃度が……

「舐めてんのかテメェッ!!」

 失敗の原因を考察する暇もなく、顔中粉まみれのゴロツキが突っ込んできた。

「ぐふっ!」

 重い拳が俺の胃袋にめり込む。

「この馬鹿を引きずり出せ! 半殺しにしろ!」

 俺は死んだ犬のように車外へ引きずり出され、泥の上に叩きつけられた。

 すぐに七、八人のゴロツキが俺を囲み、雨のような蹴りが降ってきた。

「痛い痛い!! 顔はやめろ!!」

 俺は頭を抱えて丸まり、足の隙間から絶望的な目で馬車を見上げた。

 終わった。完全に終わった。

 その時だ。

 パリーン!

 車内から、澄んだガラスの割れる音が響いた。

 続いて、バアルの焦った怒鳴り声が聞こえた。

「くそっ! 暴れるな! 私はただお前たちを大人しく……」

 彼の声は唐突に途切れた。

「私の……酒?」

「あ? 何だ?」

「お前、私の酒を……」

「割ったのか?」

 ドガァァァァァァァァァン————————!!!!

 目が眩むような青い光柱が、車内から天へと突き抜けた。

 頑丈な商用馬車が、分厚い幌の屋根が、その瞬間、紙細工のように吹き飛び、空中で四散した。

「うわああああああ!!」

 悲惨な叫び声と共に、肥え太ったシルエットが青い爆光の中から弾き出された。

 彼は空中に美しい放物線を描き、遠くの茂みへと落下し、二度と動かなくなった。

 俺をリンチしていたゴロツキたちの動きが止まった。

 足を上げたまま、あるいは拳を振り上げたまま、呆然と「オープンカー」に改造された馬車を見上げている。

 俺も痛みを忘れ、ただただその光景を見つめていた。

 黒煙が立ち込める荷台。

 煙の中から、小さな人影がゆらりと現れた。

 テレサの手には、割れたガラス瓶の首の部分が握りしめられていた。

 熱波で銀髪が舞い上がり、その紅い瞳が煙の中で不気味に発光している。

「ヒック……」

 彼女はゴロツキたちを見下ろした。

「だ……誰の許可を得て……」

 彼女の視線が、床板に染み込んだ液体に向けられる。

「あれは私のだ」

「私の酒だ」

 いや、それは他人の酒だろ?

 彼女の手の周りに、青い光が集束し始めた。

「ば、化け物だぁ!!」

「あのガキ、魔術師だ! 逃げろ!」

 ゴロツキたちもようやく事態を理解し、棍棒を放り出して逃げようとした。

「逃げる?」

 テレサは冷たく笑い、手に持ったガラスの破片を掲げた。

「言うことを聞かない悪い子には……お仕置きが必要だな!」

 彼女はガラス片を群衆に向かって力任せに投げつけた。

「喰らえ……」

 ガラス片はまばゆい青い光を纏(まと)い、空中で起爆した。

「『高爆霰弾(グレープ・ショット)』!!」

 ズドン————!!!

 土がえぐれ、木々が薙ぎ倒される。

 逃げ惑う十数人のゴロツキたちは、悲鳴を上げる暇もなく空へ打ち上げられた。

 バラバラバラ。

 数秒後、重いものが落ちる音が続いた。

 ある者は木の枝に引っかかり、ある者は茂みに頭から突っ込み、またある者は泥の上に大の字になり、誰一人として立っている者はいなかった。

「ふぅ……」

 テレサは大きく息を吐き、パンパンと手の埃を払った。その顔には、一仕事終えた後の爽快感が浮かんでいる。

 彼女はゲップをし、体が少しふらついたかと思うと、その場にペタンと座り込んだ。

「あーあ……力みすぎて、腰やった……」

 恐るべき幼女だ……。

***

 戦闘終了から十分後。

「実入りは上々だな」

 俺は地面にしゃがみ込み、気絶しているバアルの懐からずっしりと重い革袋を抜き取った。中を改めると、金貨だ!

 たった五枚だが、銀貨は五十枚以上ある!

 金以外にも、俺はバアルが着ていた暖かそうな毛皮のコートを剥ぎ取った。

「おい、レン」

 車内からテレサの声がした。

「酒がねぇ。マジでねぇ。一滴も残ってねぇ」

 彼女はひっくり返った荷物を漁り、あたりにガラクタを撒き散らしていた。

「我慢しろ」

 俺は毛皮のコートのボタンを留めながら、馬車の前方へと歩いた。

 金は手に入った。装備も手に入った。

 だが、一つだけ致命的な問題が残っている――移動手段だ。

 俺は馬車の操縦なんてできない。テレサのような酔っ払いに手綱を渡せるわけもない。

 つまり、運転手が必要だ。

 俺は車輪のそばで震えながら気絶したフリをしている御者の前で足を止めた。

 俺はそばに散らばった壊れた積荷の中から、黒い粒を一掴み拾った。嗅いでみると、鼻を突く馴染みのある刺激臭がした。

 黒胡椒(ブラックペッパー)だ。

 この世界では、おそらく金と同等の価値がある高価な香辛料(スパイス)なのだろう。

 俺は御者の顎を掴み、無理やり口を開けさせ、そのスパイスをねじ込んだ。

 そして近くにあった水袋を口に突っ込み、強引に流し込んだ。

「グボッ! ゴホッゴホッ!!」

 御者は白目を剥いてむせ返り、飛び起きた。

「あ! 痛てぇ! 熱い!」

 彼は喉を押さえ、恐怖に満ちた目で俺を見た。

「き、貴様……俺に何を飲ませた!?」

 俺は立ち上がり、彼を見下ろし、声を低くして言った。

「これは東方の秘術――『蠱毒(こどく)』だ」

「こ……蠱毒……?」

 御者の顔色が一瞬で白紙のように変わった。

「そうだ。これは生きた毒虫の卵だ」

 俺はもっともらしくハッタリをかました。

「今、お前の胃の中で孵化が始まっている。その喉の灼熱感こそ、奴らが内臓を食い破り始めた合図だ」

「俺の特製解毒剤を飲まなければ、遠からずお前の腸は食い破られ、心臓は穴だらけになるだろうな」

「ひいいいい!!」

 御者は腰を抜かし、地面に額を擦り付けて懇願した。

「助けてくれ! 旦那様、助けてくれぇ! 死にたくねぇ!」

 恐怖は最高の鞭だ。

 特に、こういう教養のない迷信深い連中にはよく効く。

「生きたければ簡単だ」

 俺は御者台を指差した。

「俺たちを王都まで送れ。着いたら、解毒剤をやる」

「行く! 行きます!」

 御者は転がるように飛び起き、御者台によじ登った。手綱を握る手は小刻みに震えている。

「旦那様、しっかり乗ってくだせぇ! すぐに出発します! 俺ぁ腕には自信があるんでさぁ!」

 よし。問題解決。

 俺は満足して頷き、ステップに足をかけた。

 テレサは散乱した荷物の真ん中に座り込み、干し肉を恨めしそうに齧っていた。

「お前、あいつに何を食わせたんだ?」

 彼女は興味なさそうに尋ねた。

「胡椒(こしょう)だ」

 俺は毛皮のコートに身を包み、クッションに背を預けた。

「……お前って奴は」

 テレサは俺を見た。

「性格、ねじ曲がってるな」

「お褒めに預かり光栄だ」

 俺は肩をすくめ、後ろへ流れていく景色を眺めた。

 王都……か。

 頼むから、話の通じる文明的な場所であってくれよ……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る