第7話 怪しい馬車と毒入りワイン

 三日目の朝。

 俺は渇きで目を覚ました。

 唇はひび割れ、喉からは煙が出そうだ。昨晩の恐怖と長距離移動で、最後の水分まで使い果たしていた。

「水……」

 隣から嗄(か)れた呻き声が聞こえる。

 テレサが起きたようだ。今の彼女には昨晩の覇気など欠片もなく、顔面蒼白、目の下の隈は俺より酷く、まるで干からびたキノコのようだ。

「レン……死ぬ……」

「水……もしくは酒……」

「俺だって飲みてぇよ……」

 俺は乾いた唇を舐め、絶望的な目で周囲を見渡した。

 荒野のど真ん中だ。水なんてどこにもない。

「もうダメ……」

「マジでダメ……」

 自分が干物になる未来を想像した、その時だった。

 背後から馬蹄の音が聞こえてきた。

 視線の先、舞い上がる砂煙の中から、一台の二頭立て馬車がゆっくりと近づいてくるのが見えた。

 それはかなり立派な商用馬車だった。荷台は厚手の幌(ほろ)で覆われ、御者台には防風ランプが吊るされている。馬たちも毛艶が良く、強そうだ。

「おーい!!」

 俺は必死に両手を振り回し、道の中央へ飛び出した。

「止まってくれ! 頼む! 止まってくれ!!」

「どうどう――」

 御者の掛け声と共に、馬車は俺の目の前でピタリと止まった。御者は人相の悪い屈強な男で、鞭を握りしめ、凶悪な眼光で俺たちを一瞥した。

 続いて、荷台の幌がめくられ、小太りの中年男が降りてきた。少し上等な茶色の革ベストを着て、顔には愛想のいい笑みを貼り付けている。彼は糸のように細い目で俺たちを値踏みした。

「おや、若い旅人さんですかな?」

 商人の視線は、俺の貧相な格好に一瞬留まり、すぐに後ろでフラフラしている銀髪の少女へとスライドした。

 商人の視線が、テレサの整った顔立ちを嘗め回すように這う。そして再び俺を見た。

 ……怪しい。

 その笑顔は、あまりにも「親切な近所のおじさん」すぎた。

「こんな炎天下、遮るものもない街道を歩くなんて自殺行為ですよ」

 商人は馬車から飛び降り、揉み手をして近づいてきた。

「見たところ、何かお困りのようですな?」

「俺たち……王都に行きたいんです」

 俺は心の警報を無視し、世間知らずの田舎者のフリを装った。

「でも路銀が足りなくて、馬車も雇えなくて……」

「王都へ?」

 商人は大袈裟に太ももを叩いた。

「こいつは奇遇だ! 私も商売で王都へ向かう途中なんですよ! これも何かのご縁でしょう!」

 彼は体を斜めにし、「どうぞ」というジェスチャーをした。

「もしよろしければ、便乗していきなさい。中は空いていますし、水も食料も十分にありますから」

「本当ですか? ありがとうございます!」

 俺は口では礼を言いつつ、足は動かさなかった。

 話が美味すぎる。親切すぎる。

 タダより高いものはない。

 こんな荒野で、見知らぬ人間に無防備な旅人二人をこれほど熱心に誘うなんて、B級ホラー映画の導入部そのままだ。

「あの……旦那のお名前は?」

 俺は探りを入れた。片手は背後に回し、袖の中に隠した石ころ(何の役にも立たないが)を握りしめる。

「バアルと呼んでください」

 商人の笑顔はさらに深くなり、そこには微かな焦りの色が混じっていた。

「さあ、乗りなさい、若いの。お連れさんがもう限界のようだ。水分補給をしないと、この天気じゃ死んでしまいますよ」

 振り返ると、テレサが馬車から漂う酒の匂いを嗅ぎつけたのか、突然ゾンビから人間に戻ったかのように目を輝かせていた。

「馬車……」

 彼女は俺の制止も待たず、段ボールを見つけた猫のように馬車へと這い上がっていった。

「日除けがある……フカフカのクッションだ……」

「おい! テレサ!」

 俺は呼び止めようとしたが、こいつは既に車内に潜り込み、あろうことか「極楽〜」みたいな溜息まで漏らしている。

「……」

 俺はバアルという商人を見た。

 彼の笑顔は変わらない。だが、その和やかな笑みの裏に、背筋が凍るような何かを感じる。

「どうしました? 若いの」

 彼は急かした。

「早くしないと、日が暮れるまでに次の野営地に着けませんよ」

 俺は深く息を吸った。

 今ここで乗らなければ、テレサ一人を置き去りにすることになる。そうなれば彼女は百パーセント売り飛ばされるだろう。それに……俺の足も限界だ。

 ここで干からびて死ぬよりは、賭けに出る方がマシだ。この商人は武器を持っていないようだし、金目当てなら交渉の余地はあるかもしれない。

「それじゃ……お邪魔します」

 俺は覚悟を決め、踏み台に足をかけて、明らかに怪しい馬車へと乗り込んだ。

***

 幌の中に潜り込むと、外の直射日光は遮断された。

 車輪が回る。馬車は再び動き出した。

 日は傾き、やがて完全に沈んだ。

 バアルという商人はずっと向かいに座っていたが、ほとんど口を開かず、時折帳簿を取り出して何かを書き込んでいるだけだった。まるで俺たちなど存在しないかのように。

 夜の帳が完全に下りた頃。

「やれやれ、お二人ともずいぶんとお疲れのようですな」

 バアルは帳簿を閉じ、ようやく仕事が終わったといった風情で、座席の下の隠し棚から精巧な銀の酒瓶と、二つの金属製カップを取り出した。

 来たか。

 ここからが本番だ。

「これは王都から仕入れた特製の薬草酒でしてね」

 毒々しい赤紫色の液体がカップに注がれる。

「疲労回復、神経の鎮静に効果覿面(てきめん)ですよ。さあ、一杯どうぞ。私からのほんの気持ちです」

 液体が揺れ、不気味な泡が立つ。

「……」

 俺はその酒を凝視した。

 わかりやす過ぎるだろ!?

 カップに『強力睡眠薬入り』って付箋でも貼っとけよ! ドラマの悪役だって、もう少し無色無臭の毒を使うとか工夫するぞ? こんな紫色の怪しい液体を出されて、誰が飲むんだよ。

「どうしました? 若いの」

 バアルはカップを俺の目の前に突き出した。

「私の酒が飲めないと?」

「あ……いえ、滅相もない」

 俺は慌ててカップを受け取り、恐縮したフリをした。

「ただ、旅先でこんないい酒が飲めるとは思わなくて……ありがとうございます」

 飲まなければならない。飲まなければ、こいつは今すぐ牙を剥く。だが、本当に飲むわけにはいかない。

 俺はカップを口元に運び、ダブダブの袖で視界を遮りながら、素早く車内の影へと目線を走らせた。

 今だ!

 俺は少し顔を上げ、手首を返した。赤紫色の液体は口の端を伝って袖の中に流れ込み、分厚い麻布に吸い込まれていった。

「くぅ……美味い!」

 俺は半分ほど減ったカップを置き、迫真の演技を開始した。

 頭を大きく振り、体も一緒に揺らす。

「あれ……酒が回るのが……早いな……」

 俺は額を押さえ、呂律が回らないフリをした。

「天井が……回ってる……」

「ククク、薬草酒ですからな。効き目は早い」

 ――それは、獲物がかかった時の笑みだった。

「眠りなさい。一眠りすれば治りますよ。着いたら起こしてあげますから」

 俺は横目で隣のテレサを見た。

 彼女は、手にした赤紫色の液体をじっと見つめ、眉をひそめ、カップの縁に鼻を寄せてクンクンと嗅いでいた。

「チッ」

 彼女は心底嫌そうな舌打ちをした。

「安酒に、得体の知れない腐った根っこを漬け込んだ味……オッサンの足湯みたいな臭いがする」

 バアルの目尻がピクリと引きつった。

「でも……」

 テレサは唇を舐めた。

「蚊の足ほどの量でも、酒は酒」

 バアルが反応する間もなく、彼女は頭を仰け反らせた。

 ゴキュッ。

 一気飲みだ。

「ぷはぁ……」

 飲み干した後、彼女は豪快にカップを逆さにして振り、「一滴も残ってねぇぞ」とアピールした。

 バアルの笑みが深まった。

「どうです? お嬢ちゃん。瞼(まぶた)が重くなってきたでしょう……」

「オッサン」

 テレサが遮った。彼女は空のカップをバアルの前に突き出した。

「注げ」

「……は?」

 バアルは固まった。

 あれ? もしかして薬入れ忘れた? という顔をしている。

「注げ」

 テレサは苛立たしげにカップを爪で弾いた。

「聞こえんのか? おかわりだ」

「い、いや……その……」

 バアルは額の冷や汗を拭い、手元の銀瓶を疑わしそうに見つめた。

「これは強力な……ゴホン、特製の薬酒でして、飲みすぎると体に……」

「御託はいい」

 テレサはひったくるように酒瓶を奪い取った。

 ゴキュッ、ゴキュッ、ゴキュッ。

 今度はカップすら使わず、直瓶(じかビン)だ。

 こいつ、本当にレディーとしての嗜みとかないのかよ!?

「おい!!」

 バアルが飛び上がりそうになる。

 ゴクッ。

 最後の一滴までテレサの胃袋に収まった。彼女は空瓶をバアルに放り投げ、盛大なゲップをした。

「ゲフッ……」

 テレサの青白かった顔色が、瞬く間に血色の良いバラ色に変わった。

 彼女は伸びをし、関節をポキポキと鳴らす。あの半死半生のゾンビ状態はどこへやら、生気に満ち溢れている。

「ば……馬鹿な……」

 バアルは空瓶を持ち、化け物を見るような目でテレサを見つめた。

「き、君……目が回らないのか?」

「回る?」

 テレサは小首を傾げた。

「この程度の量で?」

 彼女は鼻で笑った。

「テメェ……」

 バアルの顔から、ついに仮面が剥がれ落ちた。

 温厚な商人の顔が砕け散り、その下から獰猛な本性が現れる。

「化け物が……」

 彼は歯を食いしばって唸り、手にした銀瓶を床に叩きつけた。

 ガシャーン!!



***

【あとがき】

本日も読んでいただきありがとうございます!

ついに本性を現した悪徳商人……ですが、彼は一つだけ致命的なミスを犯しました。

そう、テレサの「命よりも大事な酒」を割ってしまったのです……。

明日の更新(第8話)では、ブチ切れたテレサによるド派手な「制裁(爆破)」をお届けします!

スカッとする展開になりますので、ぜひお楽しみに!

「続きが気になる!」「テレサに暴れてほしい!」と感じていただけたなら、

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