第4話 酒場で銀髪の美少女に『味見』され、美味しそうな食材として連れ去られる
ようやく雨が止んだ。
だが、空気中の湿度は下がるどころか、夜の帳(とばり)が下りると共に、より一層まとわりつくような粘り気を帯びていた。
俺はカビ臭い麻のローブをしっかりと合わせ、うつむき加減で、目の前の古びた木の扉を押し開けた。
ギイィ――
扉が開くと同時に、凄まじい熱気が俺を包み込んだ。
それは言葉にし難い混合気体だった。エール酒の酸っぱい匂い、安タバコの煙、炙った肉の脂の匂い、そして……屈強な男たちが密集した時に発する、特有の濃厚な汗の臭い。
「うぷっ……」
俺は化学専攻の学生だ。実験で刺激臭には慣れているつもりだったが、この天然由来百パーセント、添加物なしのバイオ兵器には、胃袋が裏返りそうになった。
だが、引き返すわけにはいかない。
俺の腹はすでに限界を超え、胃壁の消化を始めそうな勢いだし、野狼が徘徊する荒野で野宿をするのも御免だ。
(……目立つな。いいか木島蓮、お前は今、ただの貧乏で、影の薄い、通行人Aだ)
俺は心の中で生存のための鉄則を唱え、できるだけ体を小さくして、壁際を伝うように中へと滑り込んだ。
酒場は騒然としていた。粗野な乾杯の音、中身のない下ネタ、そして調子外れなリュートの音色が混ざり合っている。
幸いなことに、誰も俺になど注目していなかった。アルコールを楽しんでいる冒険者や酔っ払いにとって、難民キャンプから逃げてきたようなボロ服の男など、酒の肴(さかな)にもなりはしない。
俺は隅っこにある、一番目立たないテーブル席に座った。テーブルの表面には分厚い油垢が積もり、触ると指がネチャッと張り付く。
「おい、新入り。注文は?」
汚れたエプロンをつけた、人相の悪いハゲた親父がやってきた。まるで俺が八百万の借金でも踏み倒したかのような不機嫌な声だ。
「シチューを一つ。それと……黒パンを一切れ」
そう言って、俺は懐から慎重に銅貨を二枚取り出し、その油ギッシュなテーブルの上に置いた。
「待ってな」
親父は銅貨を鷲掴みにし、俺の懐具合を値踏みするような疑いの視線を一度だけ投げると、厨房へと消えていった。
ふぅ……第一関門突破。
環境に溶け込み、余計なことをせず、目立たない。
俺は安堵の息を吐き、張り詰めていた神経を少し緩めた。
精神が弛緩すると、体の感覚が戻ってきた。
さっき外で雨に打たれたせいで体は冷えているが、この酒場は臭いとはいえ、(主に人口密度のおかげで)暖房は効いている。
俺はローブの襟元を少し緩め、体の中にこもった熱気を逃がそうとした。
その時だった。
それまで騒がしかった隣のテーブルが、不意に静まり返った。
そこには、皮鎧をまとい、腰に短剣を吊るした冒険者の一団がいた。その中の一人、顔中髭だらけの大男が、ジョッキを傾ける手をピタリと止め、猟犬のように鼻をピクつかせた。
「くん、くん……」
「おい、バック、どうした?」
仲間が尋ねる。
「お前ら、匂わねぇか?」
髭男は眉をひそめ、不思議そうな顔で空気を嗅ぎ回る。
「すげぇいい匂いがする……」
「あぁ? 飲みすぎだろ。ここには親父の足の臭いしかねぇよ」
「いや、違う」
髭男はジョッキを置き、獲物を探すように立ち上がってキョロキョロし始めた。
「この香り……貴族の女がつける白粉(おしろい)みてぇな? でも、あんなに甘ったるくねぇ……」
「なんかこう……レモン? それに、何とも言えねぇ甘い香りが……」
俺はギクリとした。
「すげぇ爽やかで……清潔な匂いだ」
もう一人の痩せた酔っ払いも鼻を鳴らし、陶酔したような表情を浮かべた。
「まるで雨上がりの庭園みてぇな……畜生、こんな豚小屋に、なんでこんないいモン(高級品)の匂いが漂ってやがる?」
「もしかして、エルフの姉ちゃんでも紛れ込んでんじゃねぇか?」
「冗談よせよ……エルフがこんな掃き溜めに来るわけねぇだろ……」
数人の視線が、周囲を忙しなくスキャンし始めた。
俺は隅の席で石のように固まり、この匂いの発生源が俺だとバレないことを神に祈った。
マズい。計算外だった。
俺は慌てて襟元を締め直し、その忌々しいほど良い香りを服の中に封じ込めようとした。
だが、手遅れだった。
匂いはすでに拡散していた。
突然、背筋の毛が逆立つような感覚に襲われた。
強烈な酒臭さを伴う、不吉な寒気。
振り返らなくてもわかる。
これは、本能が鳴らす警報だ。
「ふぅ……」
生暖かい湿った息が、俺のうなじにかかった。
その息と共に漂ってくるのは、濃厚なアルコールの匂いだ。だが、その酒臭さは不快なものではなく、どこか熟した果実のような芳醇な香りを帯びていた。周囲の安酒の酸っぱい臭いとは、明らかに一線を画している。
だが……近すぎる。
正体不明の「ナニカ」が、今、俺の背中に張り付いている。
何か柔らかいものが俺の肩に押し付けられる感触と、さらさらとした髪の毛が首筋をくすぐる感触があった。
「……くん、くん」
鼻をすする音が、耳元で聞こえる。
その音は、貪欲で、そして切迫していた。
「あの……そこの方?」
俺は唾を飲み込み、錆びついた蝶番(ちょうつがい)のようにギギギと首を回した。
「話せばわかります。もし金が目的なら……」
俺の言葉は、途中で凍りついた。
目に飛び込んできたのは、ボサボサの銀色の長髪だった。それは鳥の巣のように乱れ、枯れ葉までくっついているが、薄暗いランプの下でも月光のように冷ややかな輝きを放っていた。
視線を下げると、そこには顔があった。
ショーウィンドウから抜け出してきたような、高価なビスクドールのように整った顔立ち。見た目は十六、七歳? いや、もっと幼いか? 透き通るような白い肌に、扇のような長い睫毛(まつげ)。
だが今、その本来なら庇護欲をそそるはずの可憐な顔には、背筋が凍るような表情が張り付いていた。
ルビーのような紅い瞳は完全に焦点を失い、漫画でしか見ないようなグルグル目になっている。視線は虚ろで、目尻は赤く染まり、口元からは一筋の涎(よだれ)が垂れていた。
彼女は俺を見ていなかった。
いや、彼女の目には、俺は「人間」としては映っていないのだろう。
焼きたての、芳ばしい湯気を立てる……特大のステーキ肉として映っているのだ。
「……見つけた……」
彼女は呂律の回らない舌で呟いた。その声はとろけるように甘く、泥酔特有の粘り気を帯びていた。
「……いい匂い……」
「はぁ?」
俺は呆気にとられた。
その「いい匂い」というのが、俺の肉のことなのか、それとも別の何かなのかを理解する前に。
その銀髪のロリっ子が、突然距離を詰めてきた。
彼女の片手――細く華奢に見えるその小さな手が、万力(まんりき)のような力で俺の肩をガシッと掴んだ。逃げようとしたが、ビクともしない。
「ちょっ! 何す……」
彼女は口を開き、桃色の舌先を覗かせた。
そして、何のためらいもなく、社交辞令もなしに、俺の首筋に顔を埋めた。
ペロリ――
「!!!!!」
その瞬間、脊髄を突き抜けて脳天まで電流が走った。
快感ではない。恐怖だ。絶対的な恐怖だ!
湿った、温かい、柔らかい感触が、俺の首筋を這い上がり、顎のラインを滑り、頬へと至る。
こいつ今……舐めやがった!?
このむさ苦しいオッサンだらけの酒場で、汗臭い片隅で、俺は見ず知らずの、泥酔した幼女に、まるでキャンディーのようにネットリと舐められたのだ!
「……ヒック」
彼女はようやく顔を上げた。どうやらテイスティングは終了したらしい。
その虚ろな紅い瞳を細め、顔には何とも言えない変態的な、まるで魂が昇天したかのような陶酔の表情を浮かべていた。
彼女は舌を出し、名残惜しそうに自分の唇を舐め回し、最終的な評価を下した。
「……んん……」
「……絶品」
「……」
俺はキャンディーじゃねぇよ! 人間だよ! あと何その、極上のフォアグラを食べた美食家みたいな顔は!?
周囲で「エルフの姉ちゃん」を探していた冒険者たちも、この異変に気づいたらしい。全員がポカンと口を開け、ジョッキを持った手を空中で止めている。
「おい、小僧」
銀髪ロリは酒臭いゲップをし、焦点の定まらない目で俺の顔を覗き込んだ。
彼女は人差し指を伸ばし、俺の硬直した胸をツンツンと突いた。
「お前、いい匂いがするな……」
彼女は締まりのない、しかし底知れぬ恐怖を感じさせる笑みを浮かべた。
「……美味そうだ」
「う……美味そう?」
その単語は、重いハンマーのように俺の頭を殴打した。
逃げろ。
今すぐ逃げろ。
逃げなければ、次の瞬間、俺はこの一見無害そうな銀髪ロリに、骨の髄までしゃぶり尽くされる――物理的な意味での「捕食」か、あるいはもっと最悪な意味での「捕食」かはわからないが。
「たす……」
俺は大きく息を吸い、助けを呼ぼうとした。
だが、俺の声が喉から出る前に、物理的にミュートされた。
パシッ。
柔らかい、しかし抗うことのできない怪力を秘めた小さな手が、俺の口をガッチリと塞いだのだ。
「むぐっ!?」
俺は必死に抵抗し、両手で彼女の手を引き剥がそうとした。
だが、不可能だった。彼女の手はまるで俺の顔に溶接されているかのように動かない。こいつ、モヤシみたいに細いくせに、中身はゴリラかよ!?
「うるさい……」
彼女は不機嫌そうに眉をひそめ、俺の耳元に顔を寄せた。
甘い酒の匂いがする吐息が耳にかかり、俺の全身に鳥肌が立った。
「黙れ」
半開きの虚ろな目で、彼女は気怠げに、しかし有無を言わせぬ圧力で脅しをかけた。
「騒ぐと……ここで吸い尽くすぞ」
「!!!!!」
す、吸い尽くす!? 血か? 脳漿か? それともナニか別の、もっと大切なモノか!?
どれにしても御免だ!
「むー! むーうー!(俺は菌を持ってるぞ! ピロリ菌だ! 不味いぞ!)」
俺は必死に目線とくぐもった声で、重要情報を伝えようとした。
だが、彼女は食材の言い分になど興味がないようだった。
「行くぞ」
彼女はあくびを噛み殺し、もう片方の手で鉄の枷(かせ)のように俺の手首を掴むと、まるでゴミの入った麻袋でも引きずっていくかのように、出口へと歩き出した。
「むぐー!!(助けてくれ!!)」
巨大な力に引かれ、俺は体勢を崩した。
俺は彼女に引きずられ、テーブルと椅子の間の通路をよろよろと進む。
周囲の冒険者や酔っ払いどもも、ようやく事態を認識し始めた。
十数人の目が、一斉にこちらに向けられる。
助けてくれ! 誰でもいい!
この怪力女を引き剥がしてくれれば、俺の全財産を……あの小袋一つしかないが……くれてやる!
俺はさっきエルフを探していた髭男に、必死の救難信号(SOS)を送った。
兄さん! 見りゃわかるだろ! これは誘拐だ! 犯罪だ!
しかし。
髭男は、その銀髪ロリの顔を見るなり、突然ニヤニヤと笑い出した。
「おやおや、テレサ閣下じゃないですか」
彼はジョッキを掲げ、野次馬根性丸出しの大声で叫んだ。
「どうしたんです? 今日の酒じゃ物足りなくて、男に手を出し始めたんですかい?」
「ギャハハハハ!」
酒場中が爆笑の渦に包まれた。
「珍しいな、あの有名な『酒乱魔女』が男に興味を持つとは」
「あれが囲ってるツバメ(愛人)か?」
「ヒョロヒョロで頼りなさそうだが、今夜あたり搾り取られて干からびちまうんじゃねぇか?」
「おい小僧! 死にたくなけりゃ大人しく従ってやれよ!」
はぁ!?
こいつら何を言ってるんだ?
誰もおかしいと思わないのか?
成人男性が、幼女(怪力だが)に強引に連れ去られようとしているんだぞ!
俺は絶望的な目でカウンターの主人を見た。
ハゲ親父は冷淡にグラスを磨きながら、シッシッと邪魔くさそうに手を振っただけだった。
「むー!!(違う! 俺は被害者だ!)」
俺は抵抗を試み、油まみれの床に踵で二本の線を刻んだ。
「動くな」
その幼女……テレサは、俺の歩みが遅いことに苛立ったのか、舌打ちをした。
彼女は足を止め、俺を振り返る。
その目には、言うことを聞かない獲物に対する、捕食者の苛立ちだけがあった。
「いい子にしてろ」
彼女の指に少しだけ力が入った。
メキッ。
俺の手首の骨が悲鳴を上げた。
「……ッ!!!」
痛い痛い痛い!
折れる! 生理的に折れる!
俺は瞬時に抵抗をやめ、死んだ犬のように脱力した。
長いものには巻かれろ。これ以上逆らったら、本当に手首を粉砕される。
俺が大人しくなったのを見て、テレサは満足げに頷いた。
「……ヒック」
彼女は再びゲップをし、思考を放棄した俺を引きずって、野郎どもの下卑た口笛と冷やかしの中、大手を振って出口へと向かった。
ギイィ――
重い木の扉が開く。
外の夜風が、雨上がりの寒気を運んできた。
さっきまで酒場で感じていた臭くて暖かい空気は、一瞬にして冷酷な現実に吹き飛ばされた。
俺が最後に暖炉の火を見る間もなく。
俺は巨大な力によって、漆黒の雨夜の中へと引きずり出された。
背後で、扉が重々しい音を立てて閉まる。
喧騒は遮断され、俺の唯一の生存への希望も断たれた。
終わった。
火刑台から逃げ出したと思ったら、今度は変態のディナーコースかよ。
「……喉渇いた……」
暗闇の中、俺を引きずって歩く幼女が、背筋も凍るような独り言を漏らした。
***
【あとがき】
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