見えているのは誰で、見ないふりをしているのは誰か
@Panddako
第1話
第1話 泥だらけの子ども
祖父の家は、駅からバスで二十分歩いてさらに十分。
数字にするとなんてことないけれど、実際歩くと「ちょっとした罰ゲームかな?」と思う距離だ。
山と田んぼのあいだの細い道を、キャリーバッグをごろごろ引きずりながら歩いていると、夕方の冷たい風が頬を刺した。土の匂いが、都会の冬よりも少しだけ湿っている。
正直に言うと、私はまだ「来てよかった」とも「来なきゃよかった」とも思えていなかった。
──ボケてきたんだって。
母が電話口でそう言ったとき、「ああ、ついに来たか」みたいな、ニュース速報みたいな受け止め方をしてしまった自分がいる。
玄関の引き戸をがらりと開けると、内側から同じ勢いで戸が開いた。
「おお」
祖父が顔を出した。
白髪は増えているのに、声だけは妙に張りがある。
「美咲か。美咲だな?」
「他に誰に見えたの」
「いやあ、最近はな、いろんなもんが見えるから」
冗談なのか本気なのか、いきなり判定テストを出される。
「……とりあえず、私は本物だよ」
「本物か。よかったよかった」
祖父はそう言って、私のキャリーバッグをひょいと持ち上げた。
思ったよりずっと軽そうに。バーベルでも持ってるみたいな顔をして。
「重くない?」
「わしの体重の方が重い」
「それは知ってる」
会話自体は昔とあまり変わらない。
変わったのは、私の方が背が高くなったことくらいだ。
◇
家の中は、十年前の夏休みのままだった。
畳の匂い。柱のヤニの色。やたらと存在感のある黒い仏壇。
そして、その周りを取り囲む、季節も配色も無視した造花の群れ。
「増えてない? 造花」
思わず口から出ると、祖父は仏壇を見て、少し照れたように笑った。
「だって寂しいだろう。あっちはあっちで」
「あっち?」
「向こう側」
指先が、仏壇の奥を差す。
祖父の「向こう側」は、たいていの場合、亡くなった祖母のことだ。
「おばあちゃん、こんな派手なの好きだったっけ」
「いや。嫌いだったな」
「じゃあ、なんで増やしたの」
「……まあ、わしの趣味だな」
そう言って肩をすくめる。
死人の好みより自分の好みを優先しているところが、うちの家系っぽい。
両親は年末まで仕事で、私は冬休みの前半をここで過ごすことになった。受験生なのに田舎に送り込まれるって、どうなんだろう。
でも母は「勉強するフリしかしてないでしょ、家だと」と言っていた。反論できなかったので、バスに乗った。
◇
夕飯は鍋だった。
白菜と豚肉と豆腐だけ。
「シンプル」という言葉を通り越して「諦めがいい」という領域。
「最近なあ、包丁で指切ってから、あんまり凝ったもんは作らんのだ」
「それで鍋?」
「鍋が一番楽だ。入れて待つだけだしな」
「でも普通、具材はもうちょっと……」
「わしの中では、これでフルメンバーだぞ」
祖父は真顔だった。
こういうとき、笑うべきかつっこむべきか、いつも一瞬迷う。
「でも、おいしいよ」
実際、出汁がしみていておいしかった。
私は二杯目の白菜を口に入れながら、「ボケても味覚はちゃんとしてるんだな」とか、失礼なことを考える。
「美咲は、よく食べるなあ」
「受験生だから。脳に糖分が必要」
「脳、使ってるのか?」
「……今から使う」
こたつに移動し、テレビをつけてみかんを山積みにする。
祖父と並んで座ると、画面の中で芸人が大声で笑っていた。
「今年も終わりかあ」
祖父がぽつりと言う。
「そうだね」
「早かったな」
「それは、おじいちゃんの感覚でしょ」
「そうだ。わしが一番正しい」
「はいはい」
会話はゆるく続き、テレビはうるさく続き、こたつは容赦なく私の意識を溶かし始める。
ああ、このまま寝落ちしたら、絶対母に怒られるな。
『勉強しに行ってるんでしょ』って。
私は、せめて「寝落ちする手前の自分」でいたくて、うとうとしながらも頑張って起きていた。
そのときだった。
「──また来たよ。泥だらけの子どもが」
テレビの笑い声に紛れるような声で、祖父がそう言った。
「……え?」
眠気が、スイッチを切られたみたいに消えた。
「おじいちゃん、今なんて言った?」
「ん?」
祖父は、みかんの白い筋を指先でつまみながら、のんびり顔を上げた。
「いやあ、玄関の方にな。さっき、泥だらけの子どもが立ってたんだよ」
あまりにも普通の口調だったので、余計に怖くなる。
「泥だらけって……え、子ども?」
「そうそう」
祖父は、立ち上がらない。見に行きもしない。
「ズボンがびしょびしょでな。顔はよく見えんかったけど……」
自分の胸のあたりに手をあて、少年の背丈を示す。
「これくらい。小学生くらいかのう」
テレビの音だけが、やけに元気だ。
「今、いたの? さっき?」
「さっき。そこ」
祖父は、玄関の方角を指さした。
「インターホン鳴らした?」
「鳴らしてないな。黙って立ってた」
「……ちょっと見てくる」
私は立ち上がろうとした。
その腕を、祖父が軽くつかむ。
「いい、いい。もうおらん」
「でも、もし本当に誰か来てたなら──」
「わしの見間違いだよ」
祖父は、少し大げさに笑ってみせた。
「最近な、猫も犬も、嫁さんも、いろんなもんが見える。困ったもんだ。ボケが進んだ」
それを「オチ」にされると、それ以上何も言えなくなる。
「……ほんとに?」
「ほんとに。美咲、心配しなくていい。空き巣なら、もっとはっきりした顔してる」
「空き巣、見たことあるの?」
「ない」
そのくせ、即答だ。
私は、座り直した。
テレビの笑い声がさっきよりも遠く感じる。
──また来たよ。
──泥だらけの子どもが。
「また」という言葉が、耳の奥に残った。
◇
祖父が「ボケてきた」という話は、前から聞いていた。
銀行のカードを冷蔵庫に入れたり、市役所の封筒を仏壇に供えたり。
「自分でも笑っちゃうわ」と電話越しの母が言っていた。
「でもさ、本人が『ボケたボケた』って笑いにするからさ。こっちも深刻になりきれないんだよね」
深刻になりきれない。
便利な言葉だなと思う。
誰かの老いを、少しだけ遠ざけてくれる。
だから、さっきの「泥だらけの子ども」も、その延長。
そういうことにしてしまうのは簡単だった。
簡単だけど──。
「泥だらけ」「ズボンがびしょびしょ」「小学生くらい」
やけに具体的な単語が、枕元に置いたスマホみたいに、頭の中でずっと光っていた。
◇
客間のふとんに入ったのは、その一時間くらいあとだった。
古い家の夜は、音が少ない。静かというより、「何も起こってないのが分かる」静けさだ。
天井の木目をぼんやり眺めながら、私はスマホをいじった。
タイムラインに流れてくる受験生の愚痴を眺めて、「ああ、私も勉強しなきゃ」とだけ思って、何もしない。いつものパターンだ。
電波は弱くて、読み込みがすぐ止まる。
それを言い訳にして、スマホを伏せた。
耳を澄ませると、台所の方から食器が触れ合う音が聞こえた。祖父が洗い物をしている。テレビの音は、小さくなっている。
さっきの会話が、頭の中でリピートされる。
──また来たよ。泥だらけの子どもが。
「また」って何回目。
「泥だらけ」って、どんな状況。
ていうか、この辺にそんな夜遊びする子ども、いたっけ。
考えれば考えるほど、眠れない方向に進んでいく。
そのとき。
ぎ、と廊下の板が鳴った。
私は反射的に息を止めた。
祖父の足音にしては、軽い。
とん、とん、と。体重をかけないように歩いているみたいな、そんな音。
廊下側の障子の向こうで、影が動いた気がした。
気のせいだと思いたい。でも、耳だけが妙に冴えている。
足音は、私の部屋の前を通り過ぎて、居間の方へ向かっていく。
ぎ……ぎ……
古い木のきしみが、心臓に直接響く。
呼吸をしていないことを思い出して、慌てて小さく吸い込んだ。
少しして、居間の方から祖父の声が聞こえた。
「……ああ、来たのか」
さっきより、少し柔らかい声。
「また濡れてるじゃないか」
私は、ふとんの中で拳を握りしめた。
「靴、そこに脱ぎなさい。怒られたのか? 今日は寒かったろう」
完全に、子どもに話しかけるトーンだった。
返事は聞こえない。
テレビの音もほとんどしない。
家の中に、祖父の声だけが浮いている。
私はゆっくりとふとんから抜け出した。
畳の冷たさが足の裏に張りつく。
障子を少しだけ開ける。
廊下の空気は、さっきよりも冷たく感じた。
玄関の方をのぞく。
薄暗い中、街灯の光がガラス戸を通して、たたきをぼんやり照らしていた。
そこに、小さな足跡がいくつもついていた。
土が乾きかけて、茶色く、輪郭を残している。
思考より先に、背筋がぞわっとした。
──さっきまでは、なかった。
ここに来たとき、靴を脱いだ場所だ。
足跡があるなら気づいていたはずだ。私の靴のサイズよりも、ずっと小さい。
やっとのことで喉が動く。
「……マジで?」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。
私は、その場から動けなくなった。
玄関から視線を外したら、何かが背後から触れてくる気がした。
そのとき、居間の方から、祖父の低い笑い声が聞こえた。
「……ここにいるときくらい、ゆっくりしときなさい」
やさしい声だった。
誰に向けての言葉かは、聞かなくても分かる気がした。
◇
自分の部屋に戻ったあとも、しばらくふとんに入る気になれなかった。
畳の上に座って、膝を抱えて、玄関の方角を見つめる。
でも、そこには何も見えない。さっきの足跡も、頭の中で勝手に増殖していく。
私はふとんに潜り込みながら、ひとつだけはっきりしていることを思った。
──少なくとも、あの足跡は、祖父の「ボケ」じゃない。
祖父が自分で泥をつけて、わざわざ小さい足跡を再現したのだとしたら、それはそれで別の意味で怖い。
耳の奥で、またさっきの声が再生される。
「また来たよ。泥だらけの子どもが」
眠ろうとして目を閉じるたびに、仏壇の前に立つ、小さな背中の想像図が、勝手に描かれる。顔は見えない。濡れたズボンだけが、やけにはっきりしている。
その夜、私が本当に眠ったのが何時だったのかは分からない。
ただひとつ分かるのは──。
翌朝、玄関の泥の跡を確認するのに、私は「受験勉強を始める」よりも、少しだけ多くの勇気を必要とした、ということだ。
⸻
※この話はフィクションで、特定の事実や人物・事件には基づいていません(事実の出典はありません)。
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