見えているのは誰で、見ないふりをしているのは誰か

@Panddako

第1話

第1話 泥だらけの子ども


 祖父の家は、駅からバスで二十分歩いてさらに十分。

 数字にするとなんてことないけれど、実際歩くと「ちょっとした罰ゲームかな?」と思う距離だ。


 山と田んぼのあいだの細い道を、キャリーバッグをごろごろ引きずりながら歩いていると、夕方の冷たい風が頬を刺した。土の匂いが、都会の冬よりも少しだけ湿っている。


 正直に言うと、私はまだ「来てよかった」とも「来なきゃよかった」とも思えていなかった。


 ──ボケてきたんだって。

 母が電話口でそう言ったとき、「ああ、ついに来たか」みたいな、ニュース速報みたいな受け止め方をしてしまった自分がいる。


 玄関の引き戸をがらりと開けると、内側から同じ勢いで戸が開いた。


「おお」


 祖父が顔を出した。

 白髪は増えているのに、声だけは妙に張りがある。


「美咲か。美咲だな?」


「他に誰に見えたの」


「いやあ、最近はな、いろんなもんが見えるから」


 冗談なのか本気なのか、いきなり判定テストを出される。


「……とりあえず、私は本物だよ」


「本物か。よかったよかった」


 祖父はそう言って、私のキャリーバッグをひょいと持ち上げた。

 思ったよりずっと軽そうに。バーベルでも持ってるみたいな顔をして。


「重くない?」


「わしの体重の方が重い」


「それは知ってる」


 会話自体は昔とあまり変わらない。

 変わったのは、私の方が背が高くなったことくらいだ。



 家の中は、十年前の夏休みのままだった。


 畳の匂い。柱のヤニの色。やたらと存在感のある黒い仏壇。

 そして、その周りを取り囲む、季節も配色も無視した造花の群れ。


「増えてない? 造花」


 思わず口から出ると、祖父は仏壇を見て、少し照れたように笑った。


「だって寂しいだろう。あっちはあっちで」


「あっち?」


「向こう側」


 指先が、仏壇の奥を差す。

 祖父の「向こう側」は、たいていの場合、亡くなった祖母のことだ。


「おばあちゃん、こんな派手なの好きだったっけ」


「いや。嫌いだったな」


「じゃあ、なんで増やしたの」


「……まあ、わしの趣味だな」


 そう言って肩をすくめる。

 死人の好みより自分の好みを優先しているところが、うちの家系っぽい。


 両親は年末まで仕事で、私は冬休みの前半をここで過ごすことになった。受験生なのに田舎に送り込まれるって、どうなんだろう。 


 でも母は「勉強するフリしかしてないでしょ、家だと」と言っていた。反論できなかったので、バスに乗った。



 夕飯は鍋だった。


 白菜と豚肉と豆腐だけ。

 「シンプル」という言葉を通り越して「諦めがいい」という領域。


「最近なあ、包丁で指切ってから、あんまり凝ったもんは作らんのだ」


「それで鍋?」


「鍋が一番楽だ。入れて待つだけだしな」


「でも普通、具材はもうちょっと……」


「わしの中では、これでフルメンバーだぞ」


 祖父は真顔だった。

 こういうとき、笑うべきかつっこむべきか、いつも一瞬迷う。


「でも、おいしいよ」


 実際、出汁がしみていておいしかった。

 私は二杯目の白菜を口に入れながら、「ボケても味覚はちゃんとしてるんだな」とか、失礼なことを考える。


「美咲は、よく食べるなあ」


「受験生だから。脳に糖分が必要」


「脳、使ってるのか?」


「……今から使う」


 こたつに移動し、テレビをつけてみかんを山積みにする。

 祖父と並んで座ると、画面の中で芸人が大声で笑っていた。


「今年も終わりかあ」


 祖父がぽつりと言う。


「そうだね」


「早かったな」


「それは、おじいちゃんの感覚でしょ」


「そうだ。わしが一番正しい」


「はいはい」


 会話はゆるく続き、テレビはうるさく続き、こたつは容赦なく私の意識を溶かし始める。


 ああ、このまま寝落ちしたら、絶対母に怒られるな。

 『勉強しに行ってるんでしょ』って。

 私は、せめて「寝落ちする手前の自分」でいたくて、うとうとしながらも頑張って起きていた。


 そのときだった。


「──また来たよ。泥だらけの子どもが」


 テレビの笑い声に紛れるような声で、祖父がそう言った。


「……え?」


 眠気が、スイッチを切られたみたいに消えた。


「おじいちゃん、今なんて言った?」


「ん?」


 祖父は、みかんの白い筋を指先でつまみながら、のんびり顔を上げた。


「いやあ、玄関の方にな。さっき、泥だらけの子どもが立ってたんだよ」


 あまりにも普通の口調だったので、余計に怖くなる。


「泥だらけって……え、子ども?」


「そうそう」


 祖父は、立ち上がらない。見に行きもしない。


「ズボンがびしょびしょでな。顔はよく見えんかったけど……」


 自分の胸のあたりに手をあて、少年の背丈を示す。


「これくらい。小学生くらいかのう」


 テレビの音だけが、やけに元気だ。


「今、いたの? さっき?」


「さっき。そこ」


 祖父は、玄関の方角を指さした。


「インターホン鳴らした?」


「鳴らしてないな。黙って立ってた」


「……ちょっと見てくる」


 私は立ち上がろうとした。

 その腕を、祖父が軽くつかむ。


「いい、いい。もうおらん」


「でも、もし本当に誰か来てたなら──」


「わしの見間違いだよ」


 祖父は、少し大げさに笑ってみせた。


「最近な、猫も犬も、嫁さんも、いろんなもんが見える。困ったもんだ。ボケが進んだ」


 それを「オチ」にされると、それ以上何も言えなくなる。


「……ほんとに?」


「ほんとに。美咲、心配しなくていい。空き巣なら、もっとはっきりした顔してる」


「空き巣、見たことあるの?」


「ない」


 そのくせ、即答だ。


 私は、座り直した。

 テレビの笑い声がさっきよりも遠く感じる。


 ──また来たよ。


 ──泥だらけの子どもが。


 「また」という言葉が、耳の奥に残った。



 祖父が「ボケてきた」という話は、前から聞いていた。


 銀行のカードを冷蔵庫に入れたり、市役所の封筒を仏壇に供えたり。

 「自分でも笑っちゃうわ」と電話越しの母が言っていた。


「でもさ、本人が『ボケたボケた』って笑いにするからさ。こっちも深刻になりきれないんだよね」


 深刻になりきれない。

 便利な言葉だなと思う。

 誰かの老いを、少しだけ遠ざけてくれる。


 だから、さっきの「泥だらけの子ども」も、その延長。

 そういうことにしてしまうのは簡単だった。


 簡単だけど──。


 「泥だらけ」「ズボンがびしょびしょ」「小学生くらい」

 やけに具体的な単語が、枕元に置いたスマホみたいに、頭の中でずっと光っていた。



 客間のふとんに入ったのは、その一時間くらいあとだった。


 古い家の夜は、音が少ない。静かというより、「何も起こってないのが分かる」静けさだ。


 天井の木目をぼんやり眺めながら、私はスマホをいじった。

 タイムラインに流れてくる受験生の愚痴を眺めて、「ああ、私も勉強しなきゃ」とだけ思って、何もしない。いつものパターンだ。


 電波は弱くて、読み込みがすぐ止まる。

 それを言い訳にして、スマホを伏せた。


 耳を澄ませると、台所の方から食器が触れ合う音が聞こえた。祖父が洗い物をしている。テレビの音は、小さくなっている。


 さっきの会話が、頭の中でリピートされる。


 ──また来たよ。泥だらけの子どもが。


 「また」って何回目。

 「泥だらけ」って、どんな状況。

 ていうか、この辺にそんな夜遊びする子ども、いたっけ。


 考えれば考えるほど、眠れない方向に進んでいく。


 そのとき。


 ぎ、と廊下の板が鳴った。


 私は反射的に息を止めた。


 祖父の足音にしては、軽い。

 とん、とん、と。体重をかけないように歩いているみたいな、そんな音。


 廊下側の障子の向こうで、影が動いた気がした。


 気のせいだと思いたい。でも、耳だけが妙に冴えている。


 足音は、私の部屋の前を通り過ぎて、居間の方へ向かっていく。


 ぎ……ぎ……


 古い木のきしみが、心臓に直接響く。


 呼吸をしていないことを思い出して、慌てて小さく吸い込んだ。


 少しして、居間の方から祖父の声が聞こえた。


「……ああ、来たのか」


 さっきより、少し柔らかい声。


「また濡れてるじゃないか」


 私は、ふとんの中で拳を握りしめた。


「靴、そこに脱ぎなさい。怒られたのか? 今日は寒かったろう」


 完全に、子どもに話しかけるトーンだった。


 返事は聞こえない。

 テレビの音もほとんどしない。

 家の中に、祖父の声だけが浮いている。


 私はゆっくりとふとんから抜け出した。

 畳の冷たさが足の裏に張りつく。


 障子を少しだけ開ける。

 廊下の空気は、さっきよりも冷たく感じた。


 玄関の方をのぞく。


 薄暗い中、街灯の光がガラス戸を通して、たたきをぼんやり照らしていた。


 そこに、小さな足跡がいくつもついていた。


 土が乾きかけて、茶色く、輪郭を残している。


 思考より先に、背筋がぞわっとした。


 ──さっきまでは、なかった。


 ここに来たとき、靴を脱いだ場所だ。

 足跡があるなら気づいていたはずだ。私の靴のサイズよりも、ずっと小さい。


 やっとのことで喉が動く。


「……マジで?」


 誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。


 私は、その場から動けなくなった。

 玄関から視線を外したら、何かが背後から触れてくる気がした。


 そのとき、居間の方から、祖父の低い笑い声が聞こえた。


「……ここにいるときくらい、ゆっくりしときなさい」


 やさしい声だった。


 誰に向けての言葉かは、聞かなくても分かる気がした。



 自分の部屋に戻ったあとも、しばらくふとんに入る気になれなかった。


 畳の上に座って、膝を抱えて、玄関の方角を見つめる。

 でも、そこには何も見えない。さっきの足跡も、頭の中で勝手に増殖していく。


 私はふとんに潜り込みながら、ひとつだけはっきりしていることを思った。


 ──少なくとも、あの足跡は、祖父の「ボケ」じゃない。


 祖父が自分で泥をつけて、わざわざ小さい足跡を再現したのだとしたら、それはそれで別の意味で怖い。


 耳の奥で、またさっきの声が再生される。


「また来たよ。泥だらけの子どもが」


 眠ろうとして目を閉じるたびに、仏壇の前に立つ、小さな背中の想像図が、勝手に描かれる。顔は見えない。濡れたズボンだけが、やけにはっきりしている。


 その夜、私が本当に眠ったのが何時だったのかは分からない。


 ただひとつ分かるのは──。


 翌朝、玄関の泥の跡を確認するのに、私は「受験勉強を始める」よりも、少しだけ多くの勇気を必要とした、ということだ。



※この話はフィクションで、特定の事実や人物・事件には基づいていません(事実の出典はありません)。

 

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