熱砂のアリア

東條零

序章 心なき天使

第1話 イチゴチョコは血の香り

 ありあは、瓦礫の山をひょいと飛び越すと、ひるがえった白いミニスカートを左手で押さえた。


 澄んだ銀の瞳と、きりりとした意志の強そうな眉、愛らしくツンととがったサクランボ色の唇をした少女だった。


 野生動物のような敏捷でスキのない動きをする長い足が、赤茶けた砂の大地を蹴った。


 血の色をした、赤い夕焼けの空が燃えている。

 地殻崩壊ガイアクラッシュ以来、大気中の塵が増え、夕焼けの空は毒々しい赤に染まるようになった。


 十二年も前に倒壊したビルの残骸が未だ道路を塞ぐ、片付ける者も再建する者も居ない日本企業東欧保護区域ジャンパニー・サンクチュアリD地区。

 ここは、本国の再開発計画から取り残された、見捨てられた地区だった。


 風化したコンクリートから覗く赤錆の浮いた鉄骨が天を突き刺すように飛び出し、未処理のまま放置された化学物質のゴミが、耐え難い悪臭を放っている。


 ありあは、胸に抱いた食料の入ったリュックを大事そうに抱え直して、先を急いだ。


 走ると、頭上で二つに振り分けて結んだ銀色の長い髪がリズミカルに弾む。


 今日は、とても珍しいものが手に入った。

 子供たちの喜ぶ顔を思い描いて、ありあは思わず顔をほころばせた。


 ありあは、このD地区で、身よりのない子供たちと暮らしている。

 十二年前の変動のとき、わずか四歳だったありあは、ここで両親とはぐれた。


 両親がどうなったのか、判らない。

 雨水をすすり、道ばたの雑草を喰らい、少しでも裕福な者の懐をかすめ取って生きてきた。

 とても他人に誇れる人生ではなかった。


 けれども。

 同じように親を失い、ここに流れ着いた子供たちに出会って、彼女は生き甲斐を見いだした。


 子供たちに慕われ、自分が必要とされていると実感できるようになって、彼女は救われた。


 だから、がんばれた。

 たとえどんな辛いことがあっても、無条件に自分を必要としてくれる存在を感じるためなら、乗り越えられた。


 両親の顔も覚えていられないくらい幼いころ、たったひとりで崩壊した世界に放り出された少女は、そうして、必死にこうべを上げていた。


 昔、貸事務所として使われていたらしい廃ビルが、ありあと子供たちの家だった。


 ありあの姿を認めた子供たちが、わらわらと斜めに崩れかかったドアから顔を出した。


「みんなー、たっだいまぁ~っ!」


 ありあは笑顔で腕を振り上げた。


 わーっという歓声と同時に、子供たちが押し合いへし合いしながら三角に開いたドアの隙間から体をひねり出すようにして外にこぼれ出て来た。


 どの顔も、すすけて薄汚れていたけれども、どこかしら希望に満ちた愛らしさをたたえていた。


「おかえり、ありあ」


 いちばん年かさだが、まだ十一歳のフィズが、変わったばかりのかすれた声でありあを迎えた。


「変わりはなかった?」


 ありあが訊くと、フィズはニッと得意げに笑った。


「オレはもう、一人前だぜ? チビどもの面倒くらいちゃぁんと……」

「ちゃんと、あたしが見ました」


 フィズの台詞を横からひったくって、十歳のマリールゥが胸を張った。


 ありあは、微笑んで、そんな二人を見つめた。

 マリールゥは、フィズのことが好きなようだ。もっとも、フィズのほうはそういうことに関心はないようだが。


 幼い恋を目の当たりにして、ありあは少しだけ羨ましく思った。


 ありあは誰かを好きになるという経験をしたことがなかった。

 ただ生きるために、がむしゃらにがんばってきたからそんな暇などなかった。


 それに、他人なんかに現を抜かしていると、いつか裏切られたときには死が待っている。

 ここは、そんな世界だった。


 わいわいとありあの周囲にまとわりつく子供たちは、全部で六人。


 小さい子供たちの頭を順に撫でていくと、ミニスカートから伸びた太股に、幼い腕が巻き付いた。

 ピアンだ。まだ三歳のピアンの背丈は、ありあのスカートに隠れるくらい小さいので、抱きついてくるときはいつも太股だ。


 ありあは、足に抱きついた少女の頭を包み込むようにそっと撫でた。


「今日はねぇ、いいものがあるんだ」


 弾んだ声でありあは言った。

 子供たちは、期待に溢れた瞳でありあを見上げる。


 ありあは、傍らのフィズが持ったリュックの中から、カラフルな絵のついた小振りの箱を取り出した。


「じゃじゃ~んっ!」


 色違いの箱をみっつ、ありあが皆の頭上にかざして見せる。


「なぁに?」

「それなに?」

「あっ! もしかして……」


 子供たちは、息を呑んだ。


「チョコレートっ?」


 誰かが、大声で叫んだ。


 原産地が遠方であるものが主原料の嗜好品は、著しく流通が遅れている。

 なかでも、カカオから造られるチョコレートなどは、既に幻の菓子だ。


 ありあは満面の笑みで、大きく口を動かして告げた。


「あ・た・り」


 子供たちは歓声を上げ、ちょうだいちょうだいと小さな紅葉の手をのばした。

 その様子は、餌を求め首を伸ばしてアピールする雛鳥のようだ。


 ありあは箱のひとつを開け、子供たちの伸ばした手に、ひとつづつ、銀紙に包まれたチョコレートを乗せていった。


「こっちはイチゴチョコよ!」


 我れ勝ちにチョコをほおばる子供たちの頭上に二つ目のピンク色の箱をかざして、ありあは煽るように言った。


 再び、紅葉の掌が、一斉に突き出される。


 ありあは、そんな瞬間がとても幸せだった。

 期待に満ちあふれた素直な子供たちの表情を見ていると、パワーが湧いてくる。


 この子たちの笑顔を護るために、もっともっとがんばらねばと思えるのだ。


 フィズも笑っていた。

 マリールゥは、小さい子を抱き上げて手を出させてあげていた。


 ありあは、イチゴチョコの箱を開けるために頭上にかざしたピンクの箱を引き寄せようとした。


 その瞬間。


 パン! 箱を握った左手に、緋色の穴が穿たれた。

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