第25話 白馬の誘い、安喜の旗

 戦の翌朝。


 霧は薄く、空はよく晴れていた。

 だが、戦場にはまだ血と鉄の匂いが残っている。


 黒山と青州黄巾の連合軍を破った一帯では、

 白馬義従と安喜の兵たちが、

 それぞれ戦後の整理に追われていた。


 倒れた兵を運び出し、

 使える武具を選り分け、

 捕虜とした賊徒の数を数える。


 敦は、そのすべてを「数字」に落とし込みながら歩いていた。


(討ち取った旗、捕虜の数、逃げた数……


 これを伯珪殿に渡すだけじゃなく、

 長兄が“次にどこへ進むか”の材料にもしないと)


 昨夜、公孫瓚たちと囲んだ杯の余韻はまだ残っている。

 だが、それに浸っている余裕はない。


 今は、次の手を考える時だ。


 * * *


 安喜の兵たちの負傷者は、思っていたより少なかった。


 槍の列の中で重傷を負ったのは数人。

 命を落とした者は、片手で数えられるほどだ。


 もちろん、一人でも失われれば重い。


 倒れた仲間の名を、敦は紙に書き留め、

 出身の村を確認していく。


(安喜に戻ったら、

 必ず村の誰かに「どう戦って、どう倒れたか」を伝えよう)


 名も知られずに消えていく“数字”にはさせない。

 それが、この世界で兵を使うと決めた自分の、

 最低限のけじめだ。


 そうして一通りの確認を終えた頃。


「敦」


 背後から呼ぶ声に振り向くと、

 関羽が静かな表情で立っていた。


「兄者が呼んでいる。

 伯珪殿との話があるそうだ」


「分かりました、雲長兄」


 敦は、血と土に汚れた袖を軽く払うと、

 白馬義従の陣の方へと向かった。


 * * *


 公孫瓚の本陣。


 白馬の列のすぐそばに張られた大きな天幕の中で、

 劉備と公孫瓚が向かい合っていた。


 敦と関羽、張飛は少し下がった位置に控える。


 公孫瓚の前には、

 黒山賊の旗と、いくつかの戦利品。


「まずは、改めて礼を言おう、玄徳」


 公孫瓚は、戦前とは少し違う声音で言った。


「側面の袋の口を塞いでくれたおかげで、

 この戦は思っていた以上に早く決着がついた」


「伯珪の突撃があったからこそです」


 劉備は、素直に頭を垂れる。


「正面を白馬義従に任せられたことで、

 こちらは狭い通路に集中できました」


「謙遜はほどほどにしておけ」


 公孫瓚は笑った。


「すでに戦後の報告でも、

 “安喜の二百が側面を抑えた”という話は広がりつつある。


 冀・幽の境で、

 お前の名を知らぬ者は少なくなるだろう」


 敦は、その言葉を聞きながら心の中でうなずいた。


(“どこで名が出るか”は、長兄の将来にとって重要だ。


 安喜だけじゃなく、

 幽州の北辺で「名前」が出始めたのは大きい)


 公孫瓚は、そこで表情を少し引き締めた。


「そこでだ、玄徳」


「はい」


「俺の配下として、

 このまま北辺に残る気はないか」


 天幕の空気が、わずかに揺れた。


「白馬義従の一角を預けるつもりはないが、


 今回のように“槍の城”を作る役、

 それに、捕虜の処理や秤の整理を任せたい。


 お前には、

 “戦う兵”を増やすだけでなく、

 “戦える地”を増やす才がある」


 公孫瓚の視線が、一瞬だけ敦にも向けられる。


「末弟も含めて、だ」


 関羽と張飛が、無言で劉備を見る。


 敦は、長兄がどんな返事をするかを見守っていた。


 劉備は、一拍置いてから、静かに口を開く。


「伯珪」


「なんだ」


「安喜を、どう見ていますか」


 予想とは違う問いだったのか、

 公孫瓚は少し眉を上げた。


「どう、とは」


「この戦が終わった今、

 安喜をただの一県として見るのか。


 それとも――」


 劉備の目が、真っ直ぐに公孫瓚を捉えた。


「“北辺を支える一つの杭”として見るのか」


 天幕の中の空気が、わずかに重くなる。


(長兄……)


 敦は、その言い方に内心で唸った。


 ただ「配下にしてくれ」とは言わない。

 その代わりに、「地」と「杭」の話を持ち出した。


 公孫瓚は、しばらく沈黙した。


 やがて、机上の地図に手を伸ばし、

 冀・幽の境から少し離れた場所――安喜の方角を指でなぞる。


「正直に言えば、

 つい最近までは、“ただの一県”としか見ていなかった。


 黄巾の火種に悩まされ、

 秤も兵も歪んでいたと聞いていたからな」


 それは事実だ。


 安喜に着任した当初の梁や趙寧の姿を思えば、

 その評価はむしろ甘い方だろう。


「だが――」


 公孫瓚は、視線を上げて劉備を見た。


「昨日の戦いを経て、

 今は違う。


 “補給と兵を預けられる杭”になりうると見ている」


 劉備の表情が、わずかに和らいだ。


「ならば、なおのこと」


「なおのこと?」


「私は、

 安喜を手放すわけにはいきません」


 長兄の答えは、はっきりしていた。


 公孫瓚の目が細くなる。


「つまり、俺の配下にはならぬ、と?」


「伯珪の配下になるのを否とするわけではありません」


 劉備は首を振る。


「ただ、今ここで“安喜を離れて北辺に残る”という形は取れない。


 安喜は、北辺の杭になる前に、

 まだ“自分の足場”を固めなければならないからです」


 敦は、そこで自分の役目だと悟った。


 一歩前へ出て、頭を下げる。


「伯珪殿」


「なんだ、安喜の軍師」


「今回、安喜から出した二百のうち、

 半分――百を、しばらくこちらに残す形ではいかがでしょう」


 公孫瓚と劉備、

 二人の視線が敦に向く。


「北辺の戦い方を学ぶ兵を、

 安喜の者から百人。


 白馬義従の側で動きながら、

 伯珪殿のやり方や、この地の事情を覚えさせる。


 残る百と共に一度安喜へ戻り、

 “北辺の戦い方を知る者がいる県”として杭を打ち直す」


 公孫瓚が、腕を組んだ。


「……貸し借りの話か」


「はい。


 伯珪殿から見れば、

 『安喜から百人預かった』という形になります。


 こちらから見れば、

 『安喜に百人の“北辺帰り”が戻る』という形です」


 敦は続ける。


「どちらにとっても、

 “一方的に兵を奪った”という形にはなりません。


 それに――」


 そこで少し笑った。


「北辺で白馬義従と共に戦った百人が、

 安喜へ戻って村の広間で話をすれば、


 “伯珪殿の旗の下で何が起きていたか”が、

 勝手に安喜中に広まります」


 公孫瓚は、その言葉を聞いて目を細めた。


「口の回り方だけは、

 やはり玄徳の末弟だな」


 ぼやきながらも、

 どこか楽しそうだった。


 劉備が、静かに補う。


「伯珪。


 私と雲長、翼徳、敦は、

 いったん安喜へ戻り、


 兵と秤と村の槍を、

 “北辺に出られる杭”へと仕立て直したい」


「戻るのに、どれくらいかかる」


「半年」


 劉備は、はっきりと言った。


「半年あれば、

 安喜は今よりもはるかに“動かせる杭”になります。


 兵をさらに鍛え、

 兵糧の流れを整え、

 村ごとの槍の列を増やす。


 その上で、

 伯珪の呼びかけがあれば、

 今度は二百ではなく三百、四百を連れて来ましょう」


 公孫瓚は、机上の地図を見下ろしながら、

 しばらく黙考した。


 やがて、ふっと息を吐く。


「分かった」


 短い言葉だった。


 だがその響きには、

 決して軽くない了承の重みがあった。


「安喜から百人を預かる。


 白馬義従の側で鍛え、

 北辺の土と血に慣れさせよう。


 玄徳と弟たちは、一度安喜へ戻れ」


 劉備は、深く頭を下げた。


「恩に着ます、伯珪」


「その代わりだ」


 公孫瓚は、指を一本立てた。


「半年後――


 もし、また黒山や黄巾の残りが北辺で騒ぐようなら、


 『安喜の槍が、もう一度来る』と、

 俺は期待していいんだな」


 劉備は、迷わず頷いた。


「その時には、

 今回よりも強い槍の列を連れてきます」


 敦も、一歩下がって深く礼をした。


「そのための“策”も、

 いくつか用意しておきます」


 公孫瓚が、笑った。


「楽しみにしておこう」


 * * *


 天幕を出たあと。


 陽の光が眩しい。

 戦場の喧噪は、もうほとんど消えていた。


 関羽と張飛が、劉備の後ろに並ぶ。


「長兄」


 敦が声をかける。


「安喜に戻ること、

 後悔はありませんか」


 劉備は、少しだけ空を見上げた。


「伯珪の下に残れば、

 早く名を挙げることはできるだろう」


 それは否定しようのない事実だ。


 白馬義従の一角を任され、

 北辺の戦で武勲を重ねる道。


 史書の中でも、

 劉備は一時期その位置にいたはずだ。


「だが、名だけを先に挙げても、

 それを支える杭がなければ、

 いずれ倒れる」


 劉備は、静かに続けた。


「俺には、“戻る場所”が必要だ。


 安喜を、

 それにふさわしい場所に変えておきたい」


 敦は、胸の奥で何かがほどけるような感覚を覚えた。


(この人はやっぱり、“地”を見てる)


 旗や地位より先に、

 自分が立つべき場所を考えている。


 それなら――


「半年あれば、

 安喜の顔も、だいぶ変えられます」


 敦は笑った。


「安喜の広間に、

 “北辺帰り”の話が飛び交えば、


 村ごとの槍の列も、

 今よりもっと本気になってくれます」


 張飛が、腕を組んで大きくうなずく。


「安喜に戻ったら、

 まずは酒だな」


「そこですか、翼徳兄」


「当たり前だろ。


 戦って戻ってきたら、

 村の連中に“武勇伝”を聞かせてやらねえと」


 そう言いながらも、

 張飛の目はどこか楽しそうだった。


 関羽は、静かに槍の柄を撫でる。


「安喜に戻ったら、

 槍の列の稽古を、もう一段階上へ進めよう」


「雲長兄、何か考えが?」


「今回の通路の戦いで分かった。


 十人ずつの列は、

 “壁”としては十分だ。


 次は、“動く壁”に変える」


 関羽の言葉に、敦は目を見張った。


「動く壁……


 それは、

 戦場で列を横に滑らせるような動きですか」


「そうだ」


 関羽は頷く。


「安喜の広場でも形は作れる。

 北辺で学んだことを、

 安喜の土に落とし込むだけだ」


 敦は、自然と笑みをこぼしていた。


(いい。


 これなら、

 半年後にまた伯珪殿のところへ戻る時には、


 “安喜の槍”は、

 もう今とは別物になっている)


 * * *


 その日の夕刻。


 公孫瓚の陣では、

 安喜から残る百人と、

 戻る百人がそれぞれ分けられた。


 残る者たちの顔には、

 不安と誇りが半分ずつ乗っている。


 戻る者たちの顔には、

 安喜への期待と、

 「もう一度ここへ戻って来る」という決意が浮かんでいた。


 敦は、一人ひとりに声をかけていく。


「ここに残る者は、

 伯珪殿の下で北辺の戦い方を学んでください。


 安喜に戻った時、

 “俺は白馬の横で戦った”って、

 遠慮なく自慢できるくらいに」


 残る兵たちが、

 照れくさそうに笑いながら頷く。


「戻る者は、

 安喜で待っている者たちに、


 “ここで何があったか”を話せるようにしておいてください。


 良い話も、

 怖かった話も、

 全部です」


 戻る兵たちの中の一人が、

 笑って言った。


「司馬殿。


 あんたの話より、

 翼徳様の話の方が人気が出ると思いますぜ」


「それは間違いありません」


 敦も笑い返した。


「だから、俺は“話の種”を用意するだけでいいんです」


 そのやり取りを見ながら、

 劉備は静かに頷いていた。


 公孫瓚が、最後に一言だけ劉備へ告げる。


「玄徳。


 半年だぞ」


「分かっています、伯珪」


「半年後、

 “安喜の杭”がどう変わっているか。


 楽しみにしている」


 劉備は、深く一礼した。


「必ず、期待に応えてみせます」


 * * *


 こうして――


 安喜発・北辺行きの二百は、

 百と百に分かれて別々の道を歩き始めた。


 北辺に残る百は、

 白馬義従の影の中で、

 戦場の空気と騎兵の動きを学ぶことになる。


 安喜へ戻る百は、

 小さな県の広間と村々に、

 “白馬と槍の城”の話を運ぶ。


 そして、


 劉備と関羽、張飛、敦もまた、

 安喜という小さな地を、

 次の戦のための「本当の拠点」に変えるべく、

 南への道を歩き始めた。


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