第8話 戦の夕暮れ、名もなき傷と功
川辺での小さな戦いが終わっても、官軍と黄巾賊の本隊のぶつかり合いは、しばらく続いた。
遠くから響く太鼓の音は、やがてまばらになり、代わりに断続的な角笛の音と、乱れた叫び声が混ざり合う。
土煙は少しずつ低くなり、最後には、ただ白い靄のように戦場を覆うだけになった。
「……終わったか」
張飛が、川面を睨みながらぼそりと呟いた。
川の水は、さっきまでよりもわずかに濁っている。
上流で流れ込んだ血と泥が、ゆっくりとこちらへと運ばれてくるのだ。
敦は、弓を下ろして息をついた。
「まだ分かりません。
けれど、少なくともこの川筋では、黄巾は一度退いたはずです」
関羽が静かに頷き、背の刀を肩に担ぎ直す。
「いったん陣へ戻り、状況を見るべきだな」
玄徳が、周囲の義勇兵に向き直る。
「皆、隊列を組み直せ。
倒れた者は、仲間で担いで運ぶ。
ここまで一緒に来た者は、できる限り一緒に連れ帰る」
その言葉に、兵たちはそれぞれ頷いた。
川岸に横たわる黄巾兵の遺体の横を通るとき、視線を逸らす者もいれば、黙って合掌するように両手を合わせる者もいた。
敦もまた、一瞬だけ足を止める。
(名前も、出身地も、史書には残らない。
だが、ここで死んだという事実だけは、俺が覚えておこう)
そう心の中で呟き、彼は背を向けた。
* * *
鄒靖の本陣へ戻ると、そこはすでに戦の後の混沌に包まれていた。
負傷者を運ぶ叫び声。
血の匂いと、焦げた布の匂い。
泣き叫ぶ声と、怒鳴り声と、うめき声が混ざり合っている。
即席の治療所代わりに張られた天幕の周囲には、血に染まった布が山のように積まれていた。
敦は、思わず足を止める。
(……ここは、どこの時代も変わらない)
彼は学生時代、戦史だけでなく医学史にも少し触れていた。
衛生環境が悪いほど、戦場の死者の多くは「傷」そのものではなく、「その後の感染」で命を落とす。
(ここで、少しでも減らせる命があるなら)
玄徳たちが鄒靖への報告に向かうのを見届けてから、敦は義勇兵たちと一緒に負傷者の運搬と手当てに加わった。
「おい、それ、汚れた布は一度どけてください!」
若い兵が、血と泥で汚れた布で傷口を押さえようとしたのを見て、敦は慌てて止めた。
「布を使うなら、せめて少しでもきれいなものを。
それと、水はそのままかけず、鍋で沸かしてから冷まして使ってください」
「沸かす?」
兵が目を丸くする。
「生ぬるい水で傷口を洗うと、余計に膿みます。
熱で煮立てた水を、一度冷ましてから使うんです。……試してみてください。きっと、その方が傷が落ち着きます」
それがどれほど効くか、本当のところは誰にも分からない。
だが、少なくとも現代日本の感覚からすれば、「生水よりはまし」なはずだった。
見よう見まねで火を起こし、鍋で水を沸かす。
その間に、敦は兵たちに大雑把な区分を指示した。
「軽い傷の者は右側、深い傷の者は左側。
息が荒くて汗をびっしょりかいている者は、布を絞って身体を拭いてやってください。
冷えすぎないように、風の当たらない方に寝かせて」
梁の親方が、腕を組んで敦の様子を見ていた。
「おい、司馬の旦那。
いつから医者になったんだ」
「医者ではありません。
ただ、怪我をした時にどうするとマシかという話を、少し教わったことがあるだけです」
敦は苦笑しつつも、手を止めなかった。
「でも今は、理屈より結果です。
『今までどおり』で死んだ者が多いなら、『今までと違うこと』をしてみる価値はあるでしょう」
梁は、ふっと吹き出した。
「なるほどな。
そういう言い方なら、木工職人にも分かりやすい」
そう言うと、彼は周りの職人仲間たちに怒鳴った。
「おいお前ら! 司馬の旦那の言うとおりにやれ!
今ここで死ぬかどうかが、次に飯が食えるかどうかに繋がるんだ!」
負傷者の中には、涿から共に来た義勇兵の姿もあった。
あの税を滞納して殴られかけていた若者は、腕に深い切り傷を負っていたが、意識ははっきりしている。
敦が傷を見て布を巻き直してやると、若者は照れくさそうに笑った。
「すみません、四弟さま」
「四弟はやめてください。
俺は兄弟の中ではそうですが、ここではただの司馬です」
「……司馬殿。
俺、ちゃんと戦えましたかね」
その問いは、子供のように真っ直ぐだった。
敦は、傷口を押さえながら頷いた。
「ええ。
逃げませんでした。それだけで十分です。
次にまた槍を握れるなら、その時に今日の分も戦ってください」
若者は、ほっとしたように息を吐いた。
* * *
夕方近く、ようやく負傷者の大まかな仕分けが終わったころ。
玄徳たちが戻ってきた。
甲冑にはところどころ血が飛び散っているが、本人たちに目立った傷はない。
「どうでしたか」
敦が問うと、玄徳は短く息を吐いて頷いた。
「鄒靖殿の軍は、どうにか黄巾の一団を退けたそうです。
決定的な勝ちとは言えませんが、ここから先へ進む道は確保できたとのこと」
関羽が付け加える。
「本陣の方は、こちらよりも深い傷者が多かった。
一度、賊に側面を突かれかけたらしい」
「側面?」
敦は眉をひそめる。
「上流からか、別の浅瀬から回り込まれたのか……
いずれにせよ、こちらの働きがなければ、もっと大きく崩れていたかもしれん、とは言っていた」
その言葉に、敦はわずかに肩の力を抜いた。
(ならば、この川辺での小さな戦いにも、意味はあった――そう思っていいのかもしれない)
そこへ、鄒靖の使者がやってきた。
「劉備殿、関羽殿、張飛殿、司馬殿。
鄒靖様がお呼びです。本陣の前までお越しください」
* * *
本陣の前では、すでにいくつかの部隊長たちが集まっていた。
その中には、鎧を傷だらけにしながらも妙に気取った立ち居振る舞いをする若い将もいれば、無言で剣を磨いている年配の兵もいる。
中央に立つ鄒靖は、昼間よりもいくらか疲れた表情を浮かべていたが、声にはまだ張りがあった。
「皆の者、よく戦った」
それだけの言葉で、場の空気が少し引き締まる。
「特に――」
鄒靖の視線が、玄徳たちに向けられた。
「涿の義勇兵を率いる劉備殿と、その弟たち」
ざわ、と周囲がわずかにざわめく。
「川沿いの伏兵は見事であった。
賊の側面攻撃を未然に防ぎ、本陣の混乱を小さく抑えてくれた。
その働き、私・鄒靖の名において、必ず上に奏上する」
玄徳は、静かに一礼した。
「身に余るお言葉。
我らはただ、自らの地を守りたい一心で戦ったまで」
その謙虚な物言いに、周囲のいくつかの視線が少し柔らいだ。
だが一方で、あからさまに鼻で笑う者もいた。
鎧の上から派手な布を巻きつけた、若い副将らしき男が、隣の者に小声で言う。
「三十ばかりの雑兵で、少し賊を突いただけでこの扱いか。
やはり『漢室の末裔』という看板は違うな」
敦の耳にも、その言葉は届いていた。
(まあ、こういう反応も当然だな)
史書でも、黄巾の乱で特別に大出世したわけではない者は多い。
劉備も、この戦功でようやく一つの県の尉――地方の小さな警察長官のような役職になれただけだ。
(それでも、ここがすべての始まりになった、と俺たちは知っている)
鄒靖は、周囲の空気を意識したのか、あえて淡々とした口調で続けた。
「劉備殿らの隊は、今後も我が軍の右側を預かってもらう。
地形に明るく、兵もよく動く。
次の戦でも、その目と足を頼りにさせてもらおう」
「お任せください」
玄徳が深く頭を下げると、鄒靖もわずかに頷いた。
「では今日はそれぞれ、兵を休めよ。
黄巾の賊は一度退いたが、やつらの根は深い。
明日からも気を抜けぬ戦が続くであろう」
解散の声がかかり、将たちはそれぞれの陣へ戻っていく。
その途中で、先ほどの若い副将がわざとらしく肩をぶつけてきた。
「おっと、すまぬな」
声だけは謝罪だが、瞳には侮りが浮かんでいる。
その肩が敦にも当たりかけた瞬間、敦はほんの僅かに身体をずらした。
肩を入れ替えるように身をひねり、相手の重心の流れを受けて半歩だけ横へ滑らす。
結果、ぶつかったのは玄徳とその副将の肩同士ではなく、副将の足元と地面だった。
「うおっ――」
副将は、わずかによろめき、膝をつきそうになる。
何とか持ちこたえたが、一瞬ひどく間の抜けた姿を晒した形だ。
「大丈夫ですか」
敦が、あえて真顔で声をかける。
「足元が滑りやすいので、お気をつけて」
副将は、顔を赤くしながら立ち直った。
「……貴様」
何か言いかけたその時、関羽の静かな視線が横から刺さる。
「ここは戦の場だ。
足元をすくわれるのが怖ければ、自らの足でしっかり立つことだな」
その一言に、副将は舌打ちを残して去っていった。
張飛が、くくっと笑いをこらえきれずに肩を揺らす。
「今の、わざとやったろ」
「さあ、どうでしょう」
敦はとぼけてみせた。
「ただ、戦場では誰であれ、足元をおろそかにすると危ないという見本にはなったかもしれません」
玄徳は、苦笑しながらも、敦の肩を叩いた。
「四弟。
あまり他の将の機嫌を損ねてはならぬぞ」
「分かっています。
ですから、転ばせはしませんでした」
その言い方に、四人は思わず笑い合った。
* * *
夜。
涿の義勇兵の天幕の中では、粗末な灯りがいくつも揺れていた。
昼間の興奮が冷めた今、男たちの顔には、初めて人を殺めた者特有の陰りが浮かんでいる。
「寝られないか」
敦は、天幕の入口で外を見張っていた若者に声をかけた。
若者は、少し驚いたように振り向く。
「……はい。
目を閉じると、川で倒れた賊の顔が浮かんで」
敦は、しばらく黙って夜空を見上げた。
星が、涿で見上げた時よりも少しだけ多く瞬いている気がする。
「俺も、最初に人が死ぬのを目の前で見た時は、何日も眠れませんでした」
「四弟さまが、ですか」
「ええ。
……もっとも、その時は戦場ではなく、古い資料の写真でしたが」
若者は意味が分からず首をかしげたが、敦はそれ以上説明しなかった。
「今、苦しいのは、ちゃんと『見てしまった』からです。
あの賊にも家族がいて、仲間がいて、何かを背負っていたかもしれない、って考えてしまうから」
若者は、ぎゅっと拳を握った。
「でも、俺たちだって……家族を守るために来たんですよね」
「そうです」
敦は、はっきりと言った。
「だから、その苦しさを忘れないでください。
忘れてしまった時、きっと俺たちは、自分が何のために剣を振るっているのか分からなくなります」
若者は、しばらく黙ってから、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
天幕に戻る若者の背中を見送ってから、敦は小さく息を吐いた。
(きれいごとかもしれない。
でも、それでも言わずにはいられない)
彼は、本来なら戦場の外側から「死傷者数」や「損耗率」といった数字で戦争を語る側の人間だった。
今は、その数字の中に自分自身が含まれている。
その時、外から足音が近づいてきた。
天幕の布がめくれ、使者が顔を出す。
「劉備殿」
玄徳が立ち上がる。
「どうかされましたか」
「鄒靖様からの伝令です。
賊は一度散りましたが、周辺にはまだ残党が多く潜んでいるとのこと。
明日には軍を二つに分け、一方はこのまま北へ、もう一方は東の村々の掃討に向かうそうです」
玄徳が、ちらりと敦に目を向けた。
「我らは……」
「涿の義勇兵は、鄒靖様自らの隊と共に北へ。
より深く黄巾賊を追う先鋒の一部として、との仰せです」
使者が去った後、張飛が嬉しそうに笑った。
「いいじゃねえか、長兄!
もっとでけえ戦ができるってことだ!」
関羽は、黙って刀の柄に手を置いた。
「責任もまた、重くなるということだ」
敦は、灯火に照らされた地図を見下ろした。
涿からここまでの道のりに、さらに先が描き足されていく。
地図の白い部分が、ゆっくりと埋まっていくようだった。
(黄巾の乱は、史書の上では数年の出来事だ。
だが、その一日一日が、こうして血と汗と声で塗られている)
彼は、拳を軽く握った。
「行きましょう、長兄」
玄徳が、静かに頷く。
「ああ。
ここからが、本当の意味での『行軍』だ」
外では、かすかに風の音がしていた。
その風は、遠く、まだ見ぬ戦場の土の匂いを、ほんのわずかに運んできているように感じられた。
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