第4話 桃のつぼみと四人目の誓い

数日が過ぎた。


 涿の空気は、確かに春へと傾きつつあった。

 朝の冷え込みは残っているが、日中の日差しは柔らかく、城外の畑にはうっすらと緑が広がり始めている。


 張飛の屋敷の中庭には、粗末ながらも剣や槍が並び、男たちが列を作っていた。

 木材の柵が簡易の囲いとして組まれ、そこが「訓練場」となっている。


「全員、二列に並んでください!」


 司馬敦の声が、朝の空気を切り裂いた。


 梁の親方が連れてきた木工職人たち、鍛冶屋、荷運びの若者、昨日救ったあの男も混じっている。

 顔つきも体格もまちまちだが、共通しているのは、どこか落ち着かない視線だ。


(そりゃそうだ。ついこの間まで畑や工房にいた連中だ。

 明日食う米の心配から、いきなり「黄巾を討つぞ」なんて話に巻き込まれてるんだからな)


 敦は内心で苦笑しつつも、表情は崩さない。


「まずは、足の置き方からです」


 ざわつきが走る。期待していたのは槍の振り方か、豪快な武勇談か。

 そのどれとも違う「足の置き方」という言葉に、男たちは顔を見合わせた。


 張飛が、腕を組んでにやつく。


「おいお前ら、よく聞いとけよ。こいつの言うことは見た目より役に立つからな」


 敦は一歩前に出て、土の上に片足を置いた。


「戦場で一番多い死に方は何か、知っていますか?」


「刺される!」

「斬られるに決まってるだろ!」


 あちこちから声が飛ぶ。


「もちろん、それもあります。しかし――」


 敦は、足元の土を指差した。


「足を取られて転んだところを、まとめて斬られる。

 あるいは、味方が押し寄せてきて踏み潰される。そういう死に方も、とても多い」


 ざわり、と空気が動いた。


「だから、戦いたいならまず『立ち方』だ。

 腰を落として、足を肩幅に開く。どちらかの足を半歩だけ引いて、土をしっかり踏む」


 敦は自分の姿勢を見せ、手で合図する。


「その場で、軽く押し合ってみてください。正面から押されても、転びにくくなっているはずです」


 半信半疑で真似をしていた男たちの間から、「おお……」「おい、さっきより踏ん張れるぞ」と驚きの声が漏れ始めた。


 そこへ、張飛がにやりと笑って前に出る。


「よし、お前ら、どうせなら一番の暴れ者で試してみろ」


 そう言うと、自分より一回り小柄な若者を前に引っ張り出した。

 若者は慌てて姿勢を整える。


「俺が押すから、耐えてみろ」


 張飛が胸に手を当て、ぐっと押し込む。

 若者は最初こそ後ろに押されるが、足が土を掴んでいるおかげで、どうにか膝を折らずに耐えた。


「……お?」


 張飛の目が細くなる。


「さっき道で肩がぶつかっただけで吹っ飛んでた奴が、これか」


 周囲から笑いが起こる。

 敦はその空気を逃さず、声を張った。


「いいですか。

 『強いから勝つ』んじゃない。まず『転ばないから生き残る』。

 生き残った者だけが、次の一太刀を振るえるんです」


 その言葉には、現代の戦史や統計から得た冷徹な実感が込められていた。


(ここにいる三十人のうち、何人が数年後まで生き残れるのか。

 歴史書をめくれば、そういう数字ばかり目に入ってくる)


 だが今の敦は、数字ではなく、一人一人の顔を見ていた。


「次に――組みつかれた時の身の守り方を教えます」


 そう言って、張飛を手招きする。


「翼徳殿、少しお借りしても?」


「おう、好きにしろ」


 張飛が大股で近づき、敦の胸倉を掴もうと腕を伸ばした瞬間。


 敦は一歩前へ踏み込み、その手首に軽く触れた。

 力の向きと勢いを読む。

 そのまま円を描くように腕を回し、張飛の体の中心線をわずかに崩すように足を滑らせる。


 次の瞬間、張飛の大きな体が、ぐらりと傾いた。


「うおっ――」


 ドスン、と土煙が上がる。

 張飛は尻をつき、周囲から一斉にどよめきが沸き起こった。


「ちょ、翼徳兄貴が……」

「今の見たか? ほとんど力入れてねえぞ、あれ」


 敦は、張飛に手を差し出しながら、にこりと笑った。


「すみません。少し、強く崩しすぎました」


「いや……」


 張飛は、苦笑いを浮かべながら立ち上がる。


「今のは面白え。いつか、きっちり教えてもらうから覚悟しとけよ」


 そう言いつつも、彼の目には素直な尊敬が宿っていた。


「お前らも見ただろ。

 でかい相手を力で押し返せなくても、身体の使い方次第で、こうやってひっくり返せる。

 敦の妙な技、ちゃんと盗んどけ」


 笑いとざわめきの中で、男たちの表情から、少しずつ不安が薄れていくのを敦は見て取った。

 「何も分からないまま兵にされる」のと、「少しずつでも強くなっている実感がある」のとでは、心の持ちようがまるで違う。


(合気道の型が、まさか後漢末で役に立つとはな。

 先生、見てますかね)


 心の中で、かつての道場の師範に頭を下げる。


 * * *


 数日後。


 張飛の屋敷の訓練場には、すでに三十名を超える男たちが集まるようになっていた。

 梁の職人たちは木の盾や簡易の槍を作り、鍛冶屋たちは古い農具を鍛え直して刃をつける。

 その合間に、敦は玄徳や関羽と共に兵の班分けを行い、十人一組の体制を整え始めていた。


「ここに名前を書いた者は、互いに家族同然と思ってください」


 敦は、板に墨で十人ずつの名を書きつける。


「戦場では、一人で勝手に動く者から死にます。

 十人で一つ。飯を食う時も、寝る時も、鍛える時も、一緒に」


 そうして班長に目をつけた者を据え、責任を与える。


 玄徳は、その様子をじっと見守っていた。


「敦殿。

 あなたのやっていることは、兵を集めるというより……家を作っているように見えます」


「近いかもしれませんね」


 敦は笑った。


「『軍』っていうのは、大きな家みたいなものです。

 誰が父の役をして、誰が兄貴で、誰が末っ子か。それが曖昧だと、いざという時に支え合えない」


「父と兄……」


 玄徳は、どこか遠くを見るような表情をした。


「私は、父を早くに亡くしました。

 家の者を支えようと必死でしたが、父のようにはなれなかった」


「今の玄徳殿を見て、そう思う者は少ないと思います」


 敦は真っ直ぐに言った。


「今日、梁の親方が言っていましたよ。『劉備殿は、自分より先に鍋の底をさらおうとする』と」


 玄徳は目を瞬かせ、そして少しばつの悪そうな笑みを浮かべた。


「……皆に配って、なお残っていると、つい」


「それを見ている者が、必ずいます。

 そういう人は、たとえ負け戦でも、最後まであなたの旗のもとに残るでしょう」


 玄徳の瞳に、静かな光が宿る。


「敦殿。

 あなたの目は、時々とても遠くを見ているようで、時々とても近くを見ている」


「どちらも、好きなんです」


 敦は少し照れくさくなり、冗談めかして肩をすくめた。


「遠くの地図を眺めるのも、目の前の誰かの足捌きを直すのも」


 そのやり取りを、少し離れたところから関羽が見ていた。

 彼は微かに口元を綻ばせ、鍛錬に励む兵たちの方を向き直る。


「よし。今日は型の稽古だ」


 木剣を手に、兵たちの前に立つ。

 合気道由来の足運びと、この時代の剣術を混ぜ合わせた新しい「型」が、少しずつ形になっていく。


 * * *


 その日の夕暮れ。


 訓練を終え、兵たちがそれぞれの家に戻っていく頃。

 中庭に残ったのは、敦と玄徳、関羽、張飛の四人だけだった。


 ふと張飛が、庭の隅を指差した。


「おい、見ろよ」


 見ると、屋敷の小さな桃の木が、いつのまにかつぼみを膨らませていた。

 薄紅色の先端が、夕陽を受けて柔らかく光っている。


「もう、こんな季節か……」


 玄徳が、感慨深げに呟く。


「このあたりの桃は、黄巾の噂が広がる頃に咲き始める、と聞きます」


 敦の言葉に、関羽が小さく頷く。


「黄巾の動きは、日に日に激しくなっている。

 それに対して、こちらも形を整えねばならぬ時だ」


 張飛が、ぽんと手を打った。


「だったら、そろそろやろうぜ」


「やる?」


「決まってるだろ。

 あの夜、言ってただろうが。桃の花が咲いたら、志を天に誓うって」


 玄徳の目が、わずかに見開かれる。


「……覚えていましたか」


「忘れるかよ。俺はこう見えて、飲みの席で決まったことはちゃんと覚えてるんだ」


 張飛は鼻を鳴らすと、敦の方を向いた。


「なあ敦。

 お前も、その場にいるつもりでいいんだよな?」


 敦は、一瞬だけ言葉を失った。


 その問いは、あまりにもまっすぐだった。

 四人の中に、自分を数えることを当たり前のように受け入れている顔。


(俺は本来、この時代の人間じゃない。

 しかも、見た目は若くても、中身はこいつらよりずっと年上だ)


 歴史家としての冷静な自認が、胸の奥で抵抗する。

 だが、その上から、もっと単純な感情が覆いかぶさった。


 ――この三人と並びたい。


「……もちろん」


 敦は小さく息を吸い、腹の底から声を出した。


「もし許されるなら、その誓いに混ぜていただきたい」


 玄徳が、温かな微笑みを向ける。


「『混ぜる』などと他人行儀な。

 最初から、あなたも共に誓うものだと思っていました」


 関羽もまた、静かに頷いた。


「義に生きると決めた者同士。

 出自の如何より、共に剣を抜く覚悟の方が重い」


 張飛は、大笑いした。


「そうだそうだ。生まれた場所なんて関係ねえ。

 明日、豚でも牛でも屠って血を用意しようぜ。酒もたっぷりな」


「血は、少しでいいです」


 敦は苦笑した。


「ともかく、明日。桃のつぼみが少しでも開いたら、やりましょう」


 そうして、四人は日時を決めた。


 * * *


 翌日。


 空はよく晴れ、風も穏やかだった。

 昼過ぎには、庭の桃のつぼみが、いくつかほころび始めている。


 中庭の一角に、粗末な祭壇が設けられた。

 白木の台に供えられた酒と肴。

 小さな香炉から、細い煙が立ち上っている。


 敦は、その光景を眺めながら、胸の内を整えていた。


(歴史書に載っている「桃園の誓い」は、あくまで物語の中の場面だ。

 だが今から行われるこれだけは、俺にとって紛れもない現実になる)


 空を見上げると、白い雲がゆっくりと流れている。


「敦殿」


 背後から、玄徳に声をかけられた。

 三人とも、いつもより正装に近い衣を身につけている。

 敦もまた、張飛の家から借りた新しい衣を着ていた。


「一つ、決めておきたいことがあります」


「何でしょう」


「兄弟の序列です」


 玄徳の言葉に、敦は一瞬固まった。


「この先、我らが義を結ぶなら、互いをどう呼ぶかをはっきりさせておきたい」


 関羽が静かに続ける。


「もとより、長兄は玄徳殿で異論はない。

 次は年の順でよいでしょう」


「俺はまだ二十そこそこだ」


 張飛が腕を組む。


「雲長兄貴は?」


「今年で二十余り」


「じゃ、長兄・玄徳、次兄・雲長、三弟・俺で決まりだな」


 三人の視線が、揃って敦に向く。


「敦殿は……いくつに見える?」


 玄徳の問いは、悪気のないものだ。


(実年齢を正直に言ったら、長兄どころか父親の年だよな)


 心の中で苦笑しながら、敦はあえて肩をすくめた。


「この身体になってからの年で言えば、おそらく二十に満たないくらいでしょう」


「なら、決まりだな」


 張飛が笑う。


「四弟だ。

 長兄・劉備玄徳、次兄・関羽雲長、三弟・張飛翼徳、四弟・司馬敦」


 敦は、胸の奥が少しだけちくりとした。

 外見ではなく、中身の年齢で見てもらえることはない。

 だが、それ以上に――


(四弟。

 生まれた場所も時代も違う俺が、この中に入れてもらってる)


 その事実の方が、はるかに重かった。


「……分かりました。

 四弟として、兄上たちに恥じぬよう努めます」


 玄徳が穏やかに頷き、関羽が静かに目を細める。


「では、始めましょうか」


 * * *


 四人は、桃の木の下に並んで立った。


 祭壇の前に、猪の血を少量入れた器が置かれる。

 香が焚かれ、甘い煙が天へと昇っていく。


 玄徳が一歩前に出て、杯を手に取った。


「我ら、生まれた家も、歩んだ道も違う者四人」


 その声は高くはないが、不思議とよく通った。


「されど世の乱れを憂い、民の苦しみを見過ごせない心は同じ。

 ここに天を戴き、地を踏みしめ、桃の木を証人として、義を結ばん」


 そう言って、玄徳は杯を掲げ、天に一礼した。

 関羽、張飛、敦もまた、その背に倣う。


 玄徳が、静かに誓いの言葉を紡ぎ始める。


「我ら、劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳、司馬敦」


 一人一人の名が、庭に響くたびに、敦の背筋に震えが走る。


「同年同月同日に生まれることは叶わずとも」


(来た。この言葉だ)


 歴史の本や小説で何度も読んだ一節。

 今、その中に自分の名が並んでいる。


「願わくは、同年同月同日に死なんことを」


 四人の声が重なった。


 敦は、自分の喉から出ているはずの声が、遠くから響いているような感覚に襲われた。


(歴史の名文句に、自分の声を重ねる日が来るなんて、思ってもみなかったな)


 玄徳が、血の入った器を取り、指先を浸した。

 その血を、自分の掌に軽くつける。


「この血は、生まれの血ではなく、これから並んで流す血の証」


 玄徳は、そう言って掌を握りしめた。


 関羽が続く。指に血をつけ、同じように握る。

 張飛もまた、豪快に指を浸し、拳を固める。


 敦の番が来た。


 指先に冷たい感触が伝わる。

 それは、猪の血のぬるりとした感触であり、同時にこれから自分が歩む道に必ずつきまとう「戦」の匂いでもあった。


(五十年、日本で積み上げてきた人生とは違う道だ。

 だけど――)


 敦は拳を握りしめた。


(今、この瞬間に誓う。

 この三人と、この拳を汚さないように、生きるって)


 四人は互いに拳を突き合わせた。

 血のついた拳が中央でぶつかり合い、指先が重なる。


「今日より我ら、姓を異にすれど兄弟」


 玄徳の声に、三人の声が重なる。


「富貴も貧賤も、命の軽重も共にし、

 天に背かぬ限り、互いを捨てず」


 敦も、同じ言葉を繰り返した。


 拳を離したあと、張飛が思いきり息を吸い込む。


「よしっ! じゃあ飲むぞ!」


 あまりに唐突な声に、敦は思わず吹き出しそうになった。

 関羽が咳払いをして場を整えつつも、その口元には、やはり微かな笑みが浮かんでいる。


 玄徳は、そんな二人を見て、肩を揺らして笑い、やがて真顔に戻った。


「敦――いや、四弟よ」


 敦は、その呼び方に一瞬だけ胸が熱くなった。


「はい、長兄」


「この先、私が迷ったときは、遠慮なく叱ってほしい。

 乱世は、人を変えてしまうと聞く。

 志を忘れかけた時、今日のことを思い出させてくれる兄弟が欲しかった」


 敦は、真っ直ぐに頷いた。


「分かりました。

 長兄が志を曲げるようなことがあれば、その時は、たとえ相手が劉備玄徳でも、容赦なく殴ります」


 張飛が大笑いし、関羽も珍しく声を立てて笑った。


「言ったな、四弟」


「ええ。言いました」


 笑いの中に、確かな約束があった。


 空を見上げれば、桃のつぼみが、さっきよりもわずかに開いている。

 薄紅色が、青い空に溶け込むように揺れていた。


(これで、本当に戻れなくなったな)


 敦は、静かに息を吐いた。


 歴史を「読む」だけの人生には、もう戻れない。

 これからは、自分の選択が、目の前の人間の生死を左右する。


 だが、不思議と恐怖はなかった。


 隣に立つ三人の存在が、恐怖を押し流していた。


 やがて、庭には笑い声と、杯のぶつかる小さな音が響き始める。

 祭壇の香は、ゆっくりと燃え尽き、煙だけが空へと昇っていった。


 その煙は、まるで天に伸びる細い道のようにも見えた。


 ――後に、人々は桃園の誓いを語るとき、三人の英雄の名を挙げる。

 だが、この日、この場所には、確かに四つ目の影があった。


 それは、史書には記されない「外史」の影。

 司馬敦という、時代外れの軍師の影である。


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