虚飾の花弁が堕ちるまで

@Kotomi0903

破滅


「70万円です。」

女の価値が数字で提示される瞬間ほど、世界は正直だと思う。70万円払えば”ましな私“になれる。では、今の私はいくらの女なのか。値札のついた肉のように扱われ続けて、いつの間にかその計算に慣れてしまった。

「失礼します。ご指名いただきました凜です。」

夜になると欲望が形を持ち始めるこの街では、名前も身体も、感情さえもレンタルできるらしい。差し出したおしぼりから立ち上る微かな蒸気。薄い酒に落ちる氷の音だけが、妙に澄んで耳に残る。マドラーを反時計に回し、作り慣れた笑みとともに薄い水割りを、ガラステーブルの上で整える。胸の前でライターを灯し、隣に座る少々肥った中年の男の煙草の先に火を寄せた。オレンジ色の小さな火が、私の輪郭を一瞬だけ照らした。臙脂色のソファーに座る腕にロレックスを光らせたこの男が何者なのか、そんなことに興味を抱くほど、私はもう無邪気ではない。会話の八割が自慢話。彼の成功と人脈と女性遍歴。私にはそれが一種の”貧しさ“のように見えた。彼はまるで、ここへ自慰行為をしに来たかのような男。キャストの間での彼のあだ名は“G”。それは、自慰の頭文字であると同時に、ダイヤのインデックスを配したG品番の時計に掛けた嘲笑だった。

昼の私は凛とは名乗ならない。看護師として“まともな顔”で働いている。しかし、私の顔面工事費用はその清らかな給料では賄えない。昼は看護師として他人の傷を丁寧に塞いでいるのに、夜のネオンは、私の傷口を意地悪く開き直していく。他人の痛みは治せても、自分の痛みだけは誰にも縫ってもらえなかった。

 「可愛い」幼い頃から聞き飽きるほど言われ続けてきた。その一言が、私の全価値であった。私は美人ではない。ただ、幼い顔立ちが”都合よく求められた”だけ。便利で従順で、壊れても代替がきく”可愛さ“。その事実に気づいた時には、私自身がその評価を受け入れるよう調教されていた。初めて美容整形を予約した日のことを今でも鮮明に思い出す。緊張で震えた指先。しかしその震えは不安ではなく、ある種の高揚だった。これで、私は自信を持てるようになると信じていた。皮肉なものだ。自由になるために整形したのに、手に入れたのはより強く締まった首輪だった。他人からの評価という名の牢屋と同じ。コンプレックスであった丸顔は糸で無理やり引き上げ、鼻はプロテーゼを挿入し、高くした。目は切開とタレ目形成で人工的に拡張した。施術を重ねるほど、鏡に映る顔は日に日に知らない人になっていく。この美貌を手に入れるのに、高級車1台くらいは軽く溶けていっただろう。だが、その投資が回収される見込みは、生まれつきゼロだった。


 「可愛い顔なのにそんな表情で呑むの、似合わないよ」と彼が言う。男のくせに華のように甘い匂いを纏った綺麗な顔立ちの彼。薄闇に沈むバーのカウンターの端。落とした視線の先で、煙草の火だけが不穏に赤かった。煙草の煙がゆらゆらと渦を巻きながら漂う。私はその渦の中に吸い寄せられ、呑み込まれてしまうのではないか。そんな予告めいた気配さえ、彼はその薄い唇から零れる優しい声で包み込んでしまう。少し年上で、優しくて、初めて”私そのもの”を見つめてくれていると錯覚できる人だった。彼に恋をした。優しさで作られた檻のような彼の、笑うと瞼の端が微かに下がる細い目が好きだった。私の痛みを包むような甘い声で、「可愛いね」「大事にするよ」と私を縛り付ける。気がつけば私は彼の腕の中で眠っていた。肌と肌の温度よりも、彼の孤独の冷たさのほうが強く記憶に残った。その印象は、彼も夜の世界を知った男だからなのだろうか。彼のDVじみた癖さえ、私は愛情の戯れだと錯覚していた。煙に呑まれ、痛みと快楽の境界も、私自身の輪郭さえも溶けていく。気づけば私は、毒に縋る徒花のように彼を崇めていた。溺れかけた者が、浮かぶ木切れに手を伸ばすような、哀しい恋だった。半年ほど経った頃。SNSの画面に、知らない女が彼の肩に半身を預け、濡れたような微笑みを浮かべた写真を見つけた。漆黒の艶を纏い、偽りの谷間を誇示し、彼女自身が下品さの彫像であるかのようだ。その瞬間、胸の奥で骨が擦れ合うような音がした。それでも彼の檻の中から逃げ出すことはできなかった。本当は、ただ彼の淋しさを埋めるためだけの、使い捨ての女だったのだとしても。

「もっと綺麗になれば彼は私を見てくれるのかな。」

美人ではないから。整形を重ねても、”素材“という残酷な根が変わるわけではないから。私は彼の隣に立つには、あまりにも不釣り合いだった。

 その夜、いつもの本指名の常連が来た。しかし、彼の指名は隣のキャストへと場内指名として流れていた。胸の中で屈辱が絡み合い、静かな毒のように広がった。内側で何かが軋んで、笑って、溶けていく。その異常な感覚がたまらなく心地よかった。

その頃から私は昼の仕事を辞め、夜の世界に沈み始めた。整形費用を稼ぐためでもあったが、それ以上に自分がまだ“可愛い”と誰かに肯定される場所でしか、生きている実感が得られなくなっていたからだ。酔いが体温に溶けていき、思考の端がじんわりと滲む夜、ふと鏡を覗き込んだ。鼻のプロテーゼが、皮膚の下で生き物みたく、ずるりと動いたように見えた。実際に動いたのか、私の目が壊れたのか、もうどうでもよかった。それを見た瞬間、頭の中で何かが笑った気がして、私は鏡に拳を叩きつけた。その破片のひとつが頬に触れ、ゆっくりと血が落ちる。私はその赤を人差し指ですくって、無血色な唇を真紅に染めた。

「あれ、可愛くない。」

砕けた破片の中で、無数の”私“が歪んで光っていた。そのどれもが、知らない誰かであった。

痩せる身体。増える施術。夜の街から呼吸を取り戻すように帰るこの部屋には、私の醜さを否定しようとして拳を叩きつけた鏡の破片。酔いたいがためにコンビニで買った安い焼酎ボトル。私のようにきわめて弱く、細いピアニッシモの吸い殻。ライターの炎が酒の淡い黄色を照らし、瓶の中で赤みを帯びて揺れている。アルコールに溺れた夜の2時半、洗面所の鏡に映る”誰のためでもない無個性な仮面 “が引き攣った笑みで私を見下ろしてくる。自分は何者なのだろう。ただ、可愛くなりたかっただけなのに。鏡の中で名乗る”私“は、美人とは程遠い、不気味なほどやせ細った私に戻る。頬は落ち、骨の影ばかりが濃く、人工的な二重の線だけが妙に生々しい。どれだけ綺麗を重ねても、幸福という影は一度もこちらを向かなかった。同伴帰りの余韻みたいに、心の奥で小さく痛みが広がる。結局、私の掌に残ったのはひとつ。傷跡ではなく、静かに滲むような実感だった。”私“という形だけが、もうどこにも存在しないという実感。私として生きることができないのなら、この顔を手に入れる必要なんて、きっとどこにもなかったのだ。


最期に辛うじて残っていた”私”が、小さくひび割れて霧のように溶けた。その静かな空白に、どこか遠い場所の気配がそっと触れ、ぬるりと内側へ流れ込んでくる。魂の奥にひとつ空いた隙間へ、それはゆっくりと宿った。その瞬間、私は自分という魂の場所をそっと手放した。躊躇いもなく、静かに崩れ落ちるように、夜の底へ体重を預けた。崩れる感覚は甘く、痛みすら陶酔に変わる。世界は赤く、光は歪み、私の存在は注ぎ足されたヒアルロン酸のように、溶けて消えていった。さよなら、澄乃。

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