第4話 進化の叫び
牙城の
夕暮れの光はすでに薄れ、風は硬く、重く、その場にまとわりついた。
白音は凛の前に立ち、小さく息を吸い込んだ。
「蒼月くん、絶対に離れないで」
凛は頷くしかなかった。
胸の奥で、熱が脈を強める。
進化因子が刺激される前兆。
(くそ……この状況、最悪だ)
牙城の先頭にいた男──不良とは比べ物にならない、明確な殺意の目をしていた。
「原初能力者。
逃げる時間はやらねえぜ」
男が踏み込んだ。
その一歩だけで、屋上の地面が軋む。
速い。
凛の視界が歪むほどの速度。
凛は白音を庇うように前に出た。
(来る──!)
“それ”は、凛が望まなくても起きてしまう。
危険が迫れば迫るほど、勝手に身体が進化しようとする。
視界が広がる。
世界がゆっくりと見える。
相手の拳の軌道、足の角度、体重の乗せ方──すべてが読み取れる。
(やめろ……進化するな……!)
しかし凛の拳は、敵の腕をとらえ、綺麗な弧を描いて弾き飛ばしてしまっていた。
衝撃は軽い。
凛は“手加減”したつもりだった。
だが──
「ぐっ……がっ……!」
男は宙を舞い、屋上の柵に叩きつけられた。
凛の背筋が凍る。
「……これで、手加減のつもりかよ……?」
仲間たちが凛を見て、一歩引いた。
その瞬間、凛の胸の熱が暴れだした。
(やばい……まずい、まずい……!)
白音が凛の肩に触れる。
「蒼月くん、戻って──!」
だが遅かった。
敵が複数同時に襲いかかってきた瞬間、
凛の身体は勝手に動いた。
避ける。
捌く。
殴る。
蹴る。
最短の動きで、最速の反撃を。
そのすべてが“凛の意思ではない進化”だった。
殴られる前に反応し、
攻撃される前に最適な角度を計算し、
骨の動きが簡略化され、
筋肉が生物的な限界を超えようと膨張する。
白音は震えた声で叫んだ。
「蒼月くん、もう……戦わないで……!
あなた……進化してる……!」
(分かってる……分かってるのに……!)
男の蹴りを弾き返すと、凛の足元のコンクリートが割れた。
「……おい、化け物かよ……!」
狩猟者たちが徐々に怯え始める。
凛は息を荒くしながら、自分の手を見る。
指が震えているのではない。
筋繊維そのものが変容して震えていた。
(止められない……!
白音さんの力がなければ……俺は……!)
だが敵は止まらない。
凛は敵のナイフを避け、肘で相手の腹を打つ。
その瞬間、男は吐血し、崩れ落ちた。
周囲に残った敵が、明確に恐怖の目で凛を見ている。
「や……やばい……コイツ、もう人間じゃ──」
「退け! 一旦退けぇ!!」
牙城の隊員が屋上の扉へ逃げ出す。
残ったのは気絶者と、進化の熱に呑まれつつある凛。
白音が凛の前に立った。
「蒼月くん……!」
「白音さん……っ、俺……もう止められない……!」
凛の瞳はかすかに光を宿していた。
黒目の奥に、進化因子の“圧”が揺れている。
息は荒く、
身体は無意識に戦う姿勢を取り、
視界は敵を探し続けようとする。
(やめろ……こんな俺、見せたくない……!
これ以上進化したら、俺は……!)
白音は凛の頬に手を添えた。
その手は、小さく震えていた。
「……蒼月くん。
あなたは……ここにいます。
まだ、“あなた”です」
「……っ……」
白音は自分の腕を凛の首元へ寄せた。
白く細い腕。
その皮膚の下で、“姫巫女の血”が脈動しているのが見えた。
「……飲んでください」
凛は息を呑んだ。
「白音さん……そんなの……!」
「大丈夫。
あなたが暴走するよりずっといい。
私の血なら……あなたは戻ってこれる。
あなたを……絶対に壊させたくないの」
白音は迷わず、自分の指先を噛んだ。
小さく血が滲む。
その血の気配を感じた瞬間、
凛の進化因子が一段と荒れ狂った。
本能が求めている。
暴走が叫んでいる。
白音は凛の手を握り、瞳を合わせた。
「……飲んで。
お願い……蒼月くん」
凛は震える手で白音の指を取った。
次の瞬間──
白音の血が、凛の口に触れた。
世界が、静かに沈んだ。
荒れ狂っていた進化因子が一気に落ち着き、
胸の熱が冷える。
筋繊維の震えが収まり、
視界の光が消えていく。
暴走が止まる。
凛は膝から崩れ落ちた。
白音が支える。
「……よかった……戻ってきてくれて……」
凛は荒い息を吐きながら、震える声で言った。
「……ごめん……白音さん……俺……また……」
白音は静かに首を振った。
「謝る必要なんて、ありません。
あなたは……守ろうとしただけです。
それでも暴走しそうになるのなら……
何度でも……私が戻します」
白音の瞳は涙で潤んでいたが、強く揺れていた。
「あなたは……人です。
私が……そうさせます。
絶対に」
沈む夕陽の中で、
初めての戦いと、初めての暴走と、
初めての鎮静化。
二人はまだお互いを深く知らない。
けれど、この瞬間だけは確かだった。
白音は蒼月凛を救い、
凛は白音夕奈によって“人間”へ引き戻された。
それが、この物語の最初の奇跡だった。
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