第3話 歪みに潜む牙

屋上を吹き抜けていた風が、ぴたりと止まった。

世界が息を潜めたように、空気が重く沈んでいく。


扉の暗がりから忍び出る影を見つめながら、

蒼月凛の胸の奥が、小さく、しかし確実に熱を帯び始めていた。


その袖を掴むのは、小さな白い手。


白音夕奈──

しかし凛は、その名を口にしない。

まだ呼べる距離ではない。

昨日会ったばかりの“転校生”でしかないのだから。


「……あなたを“奪うため”に来た人たちです」


白音は、凛の前に立つように位置を変えた。

見た目は華奢なのに、その姿勢には揺らぎがない。


「あなたは、狙われている」


「どうして……あなたがそんなことを……?」


凛の問いに、白音はまっすぐな瞳で返した。


「知っているからです。

あなたが──“原初(オリジン)”だから」


その言葉に、凛は息を呑んだ。


彼が誰にも言わずに隠し続けてきた“本質”。

それをこの少女は、初めて会った昨日からすべて把握しているようだった。


「……どうして俺なんかを……助けるんですか」


白音は凛の袖を掴んだ指に力をこめた。


「助けたいからです。

あなたは、自分で思っているより……ずっと優しい人です」


「優しい……?」


凛の声は震えていた。


白音は一度、静かに息を整えてから続ける。


「昨日、人を助けていましたよね。

危険だと分かっているのに……自分がどうなるかより先に。

そういう人を──私は放っておけません」


凛は言葉を失う。

自分が優しい人間だなんて思ったことはなかった。

ただ、目の前で誰かが傷つくのが嫌だっただけだ。


白音がほんの一歩近づく。


「あなたの力は、戦うほど暴走し……いずれは“人”から外れてしまう。

でも──私なら、それを止められる」


白音の細い指が、凛の胸元に触れた。


瞬間、胸の熱がすっと消える。

驚くほど静かに。


凛は目を見開いた。


「……これは……?」


「私の血族の力です。

あなたの進化因子は、私に触れられると沈静化するんです」


白音の声は淡々としているが、震えはなかった。


「だから……私はあなたのそばに来ました。

姫巫女としてでもありますが……それ以上に、個人として」


「個人として……?」


白音は凛の目を見つめる。

その瞳は、痛みと決意が同居したように深かった。


「“役目”だからじゃありません。

あなたが……苦しんでほしくない人だからです」


凛は呼吸を忘れた。


この少女は、自分の危険性を理解した上で、なお近づいてくる。

普通なら離れるはずなのに。


そんな凛の心の隙を見透かしたように──


扉の向こうから、重い足音が響いた。


「……見つけたぞ、原初能力者」


黒いコートの男が、影を引き連れて屋上へ踏み込んでくる。

牙城の狩猟者ハンターたち。


白音が凛の前に一歩出る。


「……牙城(がじょう)……」


男が口の端を歪めた。


「蒼月凛。世界で唯一、戦うほど進化する化け物──いや、“王”の素材か。

どちらにせよ……お前は俺たちのものだ」


胸の奥の熱が膨れ上がる。

暴走の兆候。


(……まずい……抑えろ。落ち着け──)


白音がそっと凛の手首を掴んだ。


「蒼月くん──」


呼びかけは名字だけ。

まだ名前ではない。

けれど、その声は確かだった。


「お願いです。

今は……戦わないで。

あなたが進化し始めたら、私でも抑えきれなくなるかもしれない」


「でも……このままじゃ、あなたが……!」


白音は微かに笑った。


「大丈夫です。

私は……あなたを死なせません。

それが姫巫女としての使命であり……私の意思です」


牙城の隊員のひとりが踏み出す。


「来てもらうぞ、原初。

抵抗すれば、その女も容赦しない」


凛の手が震えた。

暴走の熱が背骨を駆け上がる。


(だめだ……!

このままじゃ進化が──)


その瞬間、白音の声が重なる。


「蒼月くん、大丈夫。

あなたは一人じゃありません。私がいます。」


暴走の光が一瞬だけ消えた。


白音は凛の拳を包み、静かに囁く。


「行きますよ……蒼月くん。

私が……あなたを守ります」


牙城が迫り、空気が裂ける寸前──


この日、二人は“はじめて共に立つ”ことになる。


逃れられない運命の戦いが、いま動き出す。

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