第5話
榊恋と花咲可憐の師弟コンビが巻き起こした「底辺の黄金比率」や「もやし哲学」の波紋は、ついに事務所の古風なキャラクターにまで及び始めていた。
同事務所の同期である椿院雅(つばきいん・みやび)。古風な和装に身を包み、雅楽や茶道といった「和の美学」を配信テーマとする彼は、視聴者層も落ち着いた層が多く、榊恋とは対極に位置する存在だった。
ある日の彼の雑談配信。テーマは「日本庭園の静謐さ」についてだったが、コメント欄は可憐の影響で荒れ始めていた。
『雅さん、もやしは静謐ッスか?』
『庭園の苔も、底辺から見ればエレガンスッスね』
雅は優雅な笑みを崩さなかったが、内心では困惑していた。しかし、彼はその混乱を隠し、静かに語り始めた。
「……もやし、でございますか。確かに、先日花咲様が仰った『資本主義への静かなる反逆』という言葉には、深い示唆があるように感じられます。豪華絢爛なものだけが美ではない。極限まで削ぎ落とされた、侘び寂びの中にこそ、真の尊厳が見いだされる。30円のもやしは、まさにその『貧しき侘び』を体現していると言えるやもしれません」
彼は、底辺の食材に「侘び寂び」という解釈を与えることで、自分の配信の品格を保ちながら、トレンドに乗ることに成功した。
しかし、その夜、椿院雅はマネージャーの橘真琴にこっそり相談した。
『橘殿……わたくし、最近、スーパーの安売りコーナーで「底辺の食材」を探すのが趣味になってしまいました。もやし、ちくわ、うどんの玉。この衝動は、いかにして鎮めればよろしいでしょうか』
橘は頭を抱えた。『榊恋の底辺哲学が、事務所全体を汚染し始めている……!』
2. 師匠の代償
可憐という光によってバズり、数字を得た榊恋(木屑)だが、その代償は彼の私生活に重くのしかかっていた。
配信外の木屑は、連日の過度な飲酒とヤニ、そしてパチンコの負債により、完全に破綻していた。配信で稼いだ収益は、一瞬で消えていく。
特に、パチンコだ。
「負けを愛する哲学……。そんなもんは、配信で語るから美学になるんだよ」
木屑は、部屋の中で、冷たい床に転がった空の財布を見つめていた。黒羽烈との対決で勝利した(切り抜きで)ことで、彼は一瞬「勝った」気になっていたが、現実は無慈悲だった。
負債が膨らんだ結果、彼は事務所の橘に、給与の前借りをお願いする状況に陥っていた。
『榊、またか!? 今月で3回目だぞ! お前、バズってるのになんで金が尽きるんだ!』
「うるせぇ。負けが、込んだんだよ。…いや、違うな。『負けの深さが、勝ちの感動を増幅させる』。その哲学を深めるための「先行投資」だ」
『詭弁だ! もう貸さない! このままじゃ、お前、本当に依存症でぶっ倒れるぞ!』
橘の警告はもっともだった。最近の木屑は、手の震えが止まらないことが増え、配信中にマイクに咳き込む音が入ってしまうこともあった。
3. 弟子の懸念
そんな師匠の異変に、最も早く気づいたのは、弟子の花咲可憐だった。
ある日の、師弟の定例雑談配信。テーマは「底辺の寝具」についてだった。師匠は布団ではなく、段ボールの上で寝るのが美学だと熱弁していた。
『師匠、段ボールは、資本主義の産物である「家」の中にある、「根なし草の自由」の象徴ッスね!』
「ああ、そうだ。お前は本当に理解が早いな、お嬢様」
木屑は笑ったが、その声はいつになく嗄れていた。そして、画面越しの可憐は、わずかな沈黙を逃さなかった。
『師匠……』
「どうした?」
『最近、師匠は、「ダルい」という口癖の回数が、以前より増えているッス。それに、たまに、声の端に「疲労」という名のノイズが混じっているッス』
可憐は、いつもの「~ッス」口調でありながら、その指摘は鋭く、そして優しかった。
『底辺の哲学は、師匠の「命」を削って生み出されているのなら、それは美学ではないッス。それは、ただの「自滅のカウントダウン」ッス』
木屑は、思わず手に持っていた缶ビールを床に置いた。
「おい、お嬢様……」
『師匠は、私にとって、「ダーティーな自由」の灯台ッス。その灯台が、負債と依存という名の波に飲まれて消えてしまうのは、ダメッス。師匠、今週末の配信で、私に『休む哲学』を教えてくださいッス』
可憐の言葉は、完璧な正論を突きつける橘の言葉よりも、遥かに木屑の心に響いた。
底辺の美学が、師匠自身を蝕み始めた時、純粋な弟子の愛と、そして彼女が持つ「お嬢様」としての圧倒的な財力と人脈が、ようやく動き出そうとしていた。
第6章:休む哲学と新たな分析者(アナリスト)
1. 疲労の美学
花咲可憐の提案により、今回の配信テーマは『師匠に学ぶ、底辺のための「休む哲学」』に決定した。
しかし、榊恋(杠木屑)の体調は最悪だった。手の震えは相変わらずで、配信が始まる直前に胃薬を大量に飲み込んだ。
『いいか、榊! 休む哲学は、健康的に休むことだ! 酒やタバコで逃げるな!』
橘真琴マネージャーの鬼気迫る警告がDiscordの通話越しに響くが、木屑はそれを「ノイズ」としてミュートにした。
「……レッスン6だ、お嬢様」
配信画面に映る榊恋のアバターは、いつも以上に影が濃く見えた。
『はいッス! 今日は、師匠の「命」を救うための尊い教え、心して聞くッス!』
可憐は、真剣な顔で師匠を見つめている。木屑は、その純粋な瞳から目を逸らし、力のこもらない声で語り始めた。
「底辺にとって『休む』とは、リフレッシュじゃねぇ。それはな、『責任の放棄』の正当化だ」
『責任の放棄ッスか?』
「そうだ。真面目な奴は『休むために頑張る』だろ? 俺たちは違う。俺たちは『だるいから休む』。社会から押し付けられた『まとも』なレールから、一時的に降りてサボることこそが、底辺の『休む哲学』だ」
木屑は、その言葉を自分自身に言い聞かせているようだった。
「酒を飲む。タバコを吸う。パチ屋に行く。それは、社会のルールから逃げるための『逃避の儀式』だ。それが俺たちの休む哲学だ。社会のレールから降りた時、人は初めて自由になれる」
そう言って、彼はグラスにウイスキーを注いだ。可憐の優しさから逃げるように、依存に溺れようとする木屑の姿がそこにあった。
2. 理論派の弟子、影山零
その時、コメント欄に異質なメッセージが連続で流れ始めた。
影山零(レイ):データ分析。榊恋氏の発言には、疲労指標(FSI)が過去最高値を記録。声のトーンの沈み込みは平均-3.2Hz。アルコール摂取は、疲労をごまかすためのドーパミン報酬系への過負荷と推定される。
影山零(レイ):師匠の提唱する「逃避の儀式」は、短期的には心理的安堵をもたらすが、中期的には健康リスクと負債リスクを増大させる。これは哲学ではなく、生存戦略の欠陥です。
木屑は、顔を上げる。彼の配信に、こんなに論理的で早口なコメントを残す視聴者は初めてだった。
「おい、レイとか言ったか。俺の哲学にケチつけるのか、てめぇ」
その挑発に、コメント欄の影山零から、すぐにDiscordの通話リクエストが届いた。木屑は、面白そうにそれを受けた。
画面に現れたのは、メガネをかけ、常にタブレットを携えた、知的な雰囲気の男性アバター。VTuber名、レイ。
『初めまして。影山零と申します。榊恋師匠の底辺哲学に強い関心を持ち、データ収集のために参りました。そして、結論を申し上げます』
早口で、論理的な口調。彼は、可憐が座っている場所の隣に、無許可で座るような形でアバターを配置した。
『師匠の現在の「休む哲学」は、完全に破綻しています。師匠の身体データは、既に「底辺維持」の限界ラインを超えている。このままでは、師匠の提唱する「底辺の自由」は、数ヶ月以内に「強制終了」されます』
可憐は、新しい来訪者の論理的な攻撃に、思わず目を丸くした。
『な、何ッスか!? 榊師匠の「疲労データ」を分析したッスか!? すごいッス!』
3. 三つ巴の師弟関係
木屑は、ウイスキーグラスをテーブルに叩きつけるように置いた。
「てめぇ、俺の弟子に何を吹き込んでやがる」
『吹き込んでいるのではなく、観測結果を共有しているだけです。花咲様。あなたの「愛の鞭」や「休む哲学」の提案は、感情論としては優れていますが、論理的効力に欠けています。師匠の救済には、論理とデータの力が必要です』
レイは、可憐の純粋な感情論をバッサリと切り捨てた。
『榊師匠。私はあなたの底辺哲学に興味があります。それは、社会の歪みを映す貴重なデータです。そこで提案です。私を弟子にしてください。私はあなたの哲学を「底辺を維持しつつ、長期的に生存するための最適解」へと導きます』
「……お前、俺を実験動物か何かだと思ってんのか?」
『データ、つまり被験者として、です。私はあなたの底辺哲学を「システム」として構築したい』
これに対し、可憐が勢いよく立ち上がった(アバターが揺れた)。
『待ってくださいッス! 師匠の哲学は、侘び寂びのエレガンスであり、感情の振れ幅ッス! データなんかで測れるものじゃないッス!』
木屑は、目の前で繰り広げられる、純粋な感情論(可憐)と冷徹な論理(レイ)の衝突に、呆然とした。
「……フッ。面白ぇな」
木屑は、ダルさを忘れて笑った。自分の底辺のクズっぷりが、二人のおかしな弟子を引きつけ、そしてバズを生んでいる。
「わかった。レッスン7だ。お前ら二人で、俺の底辺哲学を証明してみろ。影山レイ、お前を二番目の弟子として認める。ただし、俺の命を懸けた「負けを愛する哲学」だけは、データを以てしても否定させねぇぞ」
こうして、榊恋の周りには、「感情派のお嬢様弟子・花咲可憐」と、「論理派の情報屋弟子・影山零」という、全く異なる二人の弟子が集結し、底辺哲学を巡る、新たなバズのステージが幕を開けた。
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