本棚

鈴木チセ

古書店の男

男はカウンターに腰かけながら、黄ばんだ本の頁をめくった。既に物語の山は越え、あとは余韻に浸るだけの文章がつらつらと並んでいる。作者によれば、物語の大団円はこの世界の住人たちへのご褒美らしい。ただの文字の羅列にも律儀なことだとは思いつつも、そろそろ飽きてきた。幸せな終わり方。芸術としては満点だろうが、娯楽としては欠点である。薄くなった残りの頁をぱらぱらとめくる。目を引くキーワードは何一つない。誰一人来ない店、峠を越えた物語。どちらも退屈で仕方がない。この大団円はどうやら「読まれる」ことで住人たちに与えられる、という理屈らしい。ここで本を閉じれば彼らの時間は止まったままになる、という仮説を立てた男はぱたんと音をたて、両手で本を閉じた。革張りの表紙がじんわりと熱を持つほど、その体勢で止まる。


――我ながらいい性格をしているな


男は永遠に大団円を迎えられない、本の中の彼らを思い浮かべる。本当の宝物は黄金や宝石ではなく、家族だと気が付く王道の冒険小説。彼が最後に読んだ場面は、丘をあと一つ越えれば家につく、というところだった。仲間たちが自分の家族のもとに帰り、主人公だけが一人で坂をのぼり、家を目指す。彼の足は速さを増し、いつの間にか走り出す。そこで男は本を閉じたのだ。間違っても開かないように、執拗に力をこめて、表紙に体温が移るくらい強く閉じた。そのせいで、彼だけが永遠に家に帰れず、家族にも会えない。


――これで僕のものだ


席を立つ。表紙の間に挟まる黄ばんだ紙を指でさりさりとなぞりながら、もとあった場所にその本を戻した。ぽっかりとあいた隙間丁度にその本は嵌まる。ここまでして、初めて男は口元に笑みを浮かべた。作者から物語を奪う快感。約束された未来を目前にした住人からそれを取り上げる瞬間。


「本当に、いい性格をしているな、僕は。」


男の肩が震え、唇の端から笑いが零れた。笑いながら、インクで汚れた指を背表紙から離し、隣の本に移動する。次の獲物を決めたようだ。薄くて小さな、さっき奪った物語とはまるで違う、安っぽい表紙。それを掴んで、男はまたカウンターに座った。椅子を引くと、がさがさと紙をぐしゃぐしゃにする時と似たような音がする。散らかった床になど気にも留めず、男はまた頁をめくった。足を組む。床に散らばった紙が少しだけ宙を舞った。彼の目がそれを捉える。


「化石になった母君に会いたいとは思わないかね。」


びっしりと万年筆で書かれた文章の、たったそれだけの文言が目に入るや否や、男は革靴でそれを強く踏みつけた。無惨な靴跡をつけたあと、彼はもう一度足を組みかえる。散らばった紙たちは息をひそめる。その姿はまるで自らが作家に捨てられた原稿であることを主張するのを辞めたかのようだった。

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本棚 鈴木チセ @jinbe-zame

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