彼女の家

赤井朝顔

本編

 バスタブの中で目を覚ました時、彼女がすでに家から消えていることが僕にはわかった。

 彼女は静寂が嫌いだというやっかいな性質を持っていて家にいる間は何かしらの音楽をかけているはずだ。彼女が好む音楽は歌詞のない、リズムによってのみ紡がれるものが多く、常に喫茶店にいるかのような空気が好きなのだそうだ。

 僕は固いタイルで寝ていたために凝り固まった体に難儀しながらなんとか上体を起こした。

 自分がジーンズにシャツというシンプルな出立ちをしていることを確認すると、なぜバスタブなんかで寝ていたのかを考え始めた。しかし、思考は冴え渡ることはなく、それが起き抜けによって起こる気怠さのためではなく、頭部の鈍痛によるものであり、自分が二日酔いであることに気づいた。

 思い出してきた。昨日を赤ワインをたくさん飲んだんだっけ。

 僕は重い頭をなんとか抱えるようにして立ち上がると、やっとバスタブを這い出た。

 浴室に映る僕の顔は酷いもので、腫れぼったい目の下にはドス黒い隈ができていて、まるで棺桶から蘇った死人のようだった。シャツもジーンズもシワだらけで、昨日の赤ワインが所々にシミとなって散っていた。

 彼女にこんな姿を見られなくてよかったと、見当はずれな安堵が僕の心に舞い込んだ。奥底では昨日の内に目撃されて、とっくに愛想を尽かされているとわかっているはずなのに。

 とにかく着替えなくてはと思い、僕は浴室から一歩を踏み出した。その瞬間に足の裏にぬるりとした嫌な感触を覚えると同時に、最悪な予感が頭をよぎった。おそるおそる下を見ると、そこには何色とも形容し難い液体と少々の固体が撒き散らされていて、異臭を放っていた。まぎれもなく、僕の口から飛び出た物体であることは明白だった。

 僕は踏み出した一歩を浴室へと戻すと、少しの間、弛み切った頭でそれを見ていた。冷え切っていて、床にこびついている。

 僕は足についてしまった汚物をシャワーで洗い流した。浴室からタオルを探したが、見つからなかったため、仕方なくジーンズの裾で雑に拭いてから、大きく踏み出して浴室から出た。

 隣接された洗面台の前に立ち、もう一度鏡で自分の顔を見てみる。吐瀉物を踏んづけたせいか、先ほどよりもさらに汚らしい顔に見えた。

 僕は顔を洗うことにして、蛇口をひねった。その時に、洗面台が髪の毛まみれになっていることに気づいた。色素の薄い茶色の長髪で、何本も張り付いている。彼女の髪であることがすぐにわかった。

 なんでこまめに掃除しないのだろうと思ったのだが、今すぐやる気力が湧くはずもなく、僕は自分の顔だけを洗った。たまたまタオルを見つけたので、今度はしっかりと拭くことができた。

 少しは頭がスッキリした気がする。

 すると今度は喉が渇いていることに気づいた。水を一杯飲みたい。僕は冷蔵庫を目指して、タオルを持ったまま洗面所の扉を開けた。

 扉を開けてすぐに、キッチンとリビングが一緒になった部屋がある。

 扉を開けても、人の気配がなく、音楽も聴こえないので、やはり彼女は家にいないのだろう。冷蔵庫を開けてペットボトルのミネラルウォーターを飲んだ。

 そのままリビングにあるソファに座ろうと思ったのだが、そこには仰向けになって寝ている彼女の姿があった。

 両腕を頭上に投げ出していて、口は半開きで、衣服は乱れている。茶色の長髪も結ばれておらず、色々な方向に散ってしまっている。なぜ床に落ちていないのか不思議なくらいにだらしない格好だった。

 だらしないのは彼女の格好だけではなくて、リビングも物が散乱していて、汚かった。ペットボトルや空き缶が床に並んでいて、ドライヤーや化粧品、よくわからない紙の束までもが散らばっている。ソファにも酒を溢したような染みがいくつもあって、全て綺麗にしようと思ったら丸一日以上かかりそうな様相だった。だが、やはり掃除を今から始めようとは思えない。

 部屋を見渡すとスピーカーがあったので、電源を入れた。たしか彼女は寝る時にも音楽をかけるはずだ。しかし、電源を入れても、再生方法がわからない。ボタンをいくつか押してみたが、うんともすんとも言わないので、スピーカーは諦めた。かわりに僕が歌ってあげようとも思ったのだが、彼女は歌詞付きの歌は好まないので、それもやめた。

 窓の外を見ると徐々に空が明るくなっているのがわかり、今が早朝であることを知った。低い角度から入り込んでくる日差しはソファの上にいる彼女を照らしたが、彼女が起きる様子はなかった。

 そろそろ行かなくては。

 僕はキッチンに行き、ガスの元栓をしっかりと左に回し、飲みかけのミネラルウォーターを窓際に置いた。朝日に照らされているそれは、キラキラと光っていて、彼女の瞳のようだった。

 僕は玄関に放っておいたロングコートを着込むと外へ出た。雲一つない晴天だが、冷気が僕の肌を刺してくるかのように感じる。吐いた息は白となって、その存在感を可視化するが次々と消えていった。

 僕は遠い国で育った木で出来た彼女の家に背を向けてゆっくりと歩き出した。

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彼女の家 赤井朝顔 @Rubi-Asagao0724

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