灯は記憶を喰らう
古木しき
灯は記憶を喰らう
古書店の埃にまみれた一冊、『Liber Nautarum Obscurorum』。その余白に記された「Stella Maris」の名が、私を海へ駆り立てた。
私はかつて、誰かの名を忘れた。親か、友か、恋人か、もはや思い出せない。
夜だった。港の桟橋で、誰かが私の名を呼んだ。振り返ると、波の音だけが響き、誰もいなかった。手に握っていた紙片には、かつて愛した者の名が書かれていたはずなのに、文字は滲んで読めなくなっていた。その空白は、私の胸に穴を穿った。以来、夜の海を見るたび、名前のない影が私を呼ぶ。
それが、私を古書店の埃の奥へ、そして『Liber Nautarum Obscurorum』の頁へと導いたのだ。
その空白を埋めるため、霧の小島を目指した。
“海の星”――Stella Maris。
その名を持つ灯台は、かつて北緯43度台の寒冷な海域、ある何もないただの島の沖に存在したとされる。しかし、現存するどの海図にも、その名も姿も記されていない。
同名の船が存在した記録がある。Stella Maris号。十九世紀初頭、ロンドンのセント・キャサリン船籍として登録された木造帆船で、積荷は主にガリシア産の岩塩とブランデーだった。その船は、不思議な経路を辿った。通常の貿易ルートを外れ、大西洋からケープ・ホーンを廻り、なぜか極東へと向かう。
一八七六年、船は上海で記録されたのを最後に公式記録から姿を消す。だが、その後もStella Maris号の目撃談は絶えなかった。青い帆、船首像に彫られた“海の女神”そして乗組員の誰もが“顔を持たない”とされる幻影。最も奇妙な証言は、一八七六年のN町における、ある漁師の報告だ。
「夜霧の中で見た。黒い船体、光を放たぬが、月のない夜に海を照らしていた。甲板に立つ者どもは、みな顔がなかった」
この船と、灯台Stella Marisとの関係は明らかでない。だが、十九世紀の神秘学者たちはこれを「双子の記憶」と呼んだ。
Stella Marisは船であり、灯台であり、そして記憶そのものなのだと。
私がその灯台の名を知ったのは、ある古書の余白に走り書きされた一文からだった。
「もし夜の海で帰り道を失ったならば、Stella Marisの光を探せ。だが光を見た者は、名を失う」
それはまるで警句のようでありながら、誘いの言葉でもあった。 私はそれを追い、ある冬の終わり、海霧に包まれた小島に辿り着いた。
“海の星”――Stella Maris。 その名を持つ灯台は、かつて北緯43度台の寒冷な海域、この島の沖に存在したとされる。しかし、現存するどの海図にも、その名も姿も記されていない。
私がその灯台の名を知ったのは、ある古書の余白に走り書きされた一文からだった。
「もし夜の海で帰り道を失ったならば、Stella Marisの光を探せ。だが光を見た者は、名を失う」
それはまるで警句のようでありながら、誘いの言葉でもあった。私はそれを追い、ある冬の終わり、海霧に包まれた小島に辿り着いた。
その島は、どの海図にも載っていなかった。上陸した私は、断崖にそびえる石造りの灯台を目にする。それはゴシック建築の趣を持ち、異国の修道院の鐘楼を思わせる造形だった。 錆びた鉄扉を叩くと、中から老いた男が現れた。
「来たか」
その声は、まるで遠い鐘の音のようだった。彼は私の名を尋ねなかったし、自らの名も明かさなかった。
ただ、ラテン語の一節を呟いた。
"Lumen est memoria. Qui lumen servat, ipse evanescit." (光は記憶である。光を守る者は、やがて消える)
それが、この場所の掟だった。
老いた男は、窓の向こうの霧を眺めながら、囁くように続けた。
「かつて、私もお前と同じだった。名を求めてこの島に辿り着いた。だが、灯を灯すたび、私の名は海に溶けた。妻の笑顔、子の声、故郷の丘――すべて光に呑まれた。今、私に残るのは、この塔と、夜の静寂だけだ。」
彼の目は、まるで海の底を見ているようだった。そこには、かつての彼自身が沈んでいるかのようだった。
石壁に囲まれた室内は、異国の香りが漂っていた。羊皮紙の書、真鍮製の六分儀、錬金術の図譜、そして一冊の「記録帳」があった。頁をめくると、一項だけ墨色の文字が記されていた。
一八九七年、冬分。霧深き夜。
“La Résurrection d’Ophélie”号、現ル。帆ナシ。音ナシ。船上ニ、面ナキ者アリ。
塔ノ灯、応エズ。
船、岩礁ニテ砕ケ、音モナシ。
朝、痕跡ナシ。
頁をめくると、別の項が目に留まった。掠れたインクで、異なる筆跡が記していた。
一七六三年、夏至。霧晴レズ。
「Maria・Celestis」号、現ル。船首ニ、星ノ紋章アリ。乗員、全テ名ヲ語ラズ。
塔ノ灯、赤ク輝キ、船ヲ導ク。翌朝、船ハ消エ、砂浜ニ一握ノ塩ト、女ノ肖像画残ス。
画ノ裏ニ、一行。『我、名ヲ忘レタレド、星ハ我ヲ知ル』
その記述の末尾には、震える手で書かれた注釈があった。
「この灯は、呼ぶ。だが、応える者はみな、己を失う。」
私は寒気を覚えた。La Résurrection d’Ophélie――甦りしオフィーリア。それはかつて南仏の幻の港でのみ語られた幽霊船の名だった。
顔のない乗員、波を歩む影たち。それは、忘れられるべき記憶か、それとも誰かの代償だったのか。
【神秘なる回想:Liber Nautarum Obscurorum抄訳】
私はあの記録帳を閉じた後も、何かに引かれるように灯台の書架をあさった。石壁の隙間に埋もれるように、一冊の手抄本があった。濃紺の革表紙に金泥で“Liber Nautarum Obscurorum”と記されていた。十九世紀後半にベルギーの神秘学団体が編纂したとされる幻の文書である。
内容は断片的だった。筆記者は不明。いくつかの頁にはフランス語、他はラテン語とアラビア語が交ざり、時折オカルティストらしき注釈が加筆されていた。そこには、Stella Marisについてこう記されていた。
「この灯台は、空間上の一点ではなく、記憶の海に浮かぶ象徴的座標である。航海者が道を見失い、魂が風の方向を喪うとき、塔は忽然と現れ、その者の“最も古い記憶”と共鳴して光を放つ」
別の頁には、こうもある。 「古き異端者たちは、Stella Marisを“死者の塔”と呼んだ。だがそれは恐怖ではなく、帰還である。迷える魂が灯を見たとき、それは再び“名を持つ”ということであり、この世への暫定的な復帰を意味する」
さらにある断章には、次のような逸話が記されていた。
一八三一年。オスロの心霊主義者であるグスタフ・クルティウスは、海上で霧に迷い、正体不明の白塔を目撃。塔の内部には、自身の少年時代の部屋が再現されており、鏡の中には老いた自身の姿が映っていたという。彼はその後、消息を絶つ。残された手記に一行『灯は、私そのものだった』とあるのみ」
これらの記述は不可思議であった。だが、灯台に身を置く私には、どこか真実の一端に触れているようにも思えた。
翌朝、灯台守の姿はなかった。代わりに、石卓の上に一鍵と、かすれたインクで書かれた小紙片があった。
「次はお前だ」
私は迷わなかった。機械仕掛けの灯具に油を注ぎ、回転式のレンズを磨いた。火を灯す。鏡が回る。光が海へ、夜の彼方へと放たれる。
名は、もう要らなかった。この塔にあるのは、光と、記憶と、静寂だけだ。
『Liber Nautarum Obscurorum』に記された一七九二年の断章。
北海の船乗りがStella Marisの光を見た。妻子の名を思い出したが、翌朝、鏡には誰も映らず。彼の名は書に刻まれなかった。
「光は記憶を喰らう。名を与える代わりに、己を奪う」と注釈者は記す。
その夜、私は書き残された記録や書物のすべてを、一人の灯台守として読み返した。だがそれはただの読書ではなかった。まるで過去に生きた誰かの眼を通して、灯そのものが私に語りかけてくるような奇妙な感覚に満たされていた。
『Liber Nautarum Obscurorum』、記録帳、そして幻の船“Stella Maris号”の航路。あらゆる語られざる歴史が、灯の光に照らされて甦る。
私はかつて誰かがいた椅子に座り、そこに残された古文書の頁をめくった。蝋燭の炎が揺れる中、かつて老いた灯台守が何度も読み返したであろうページに指を置く。
その頁にはこう記されていた。
「灯台守とは、航海者ではない。地図の彼方で、誰かの帰りを待ち続ける者である。 Stella Maris号が辿り着けなかったのは、陸ではなく、記憶の座標であった。
その灯を見た者は、海の上で一度死に、光によって再び“名を与えられ”、この世に戻る。
そして灯台守は、その名なき帰還を、ただ静かに迎え入れる者である」
灯台の石壁から囁きが響く。
「光を灯せ。だが、己を忘れるな。」
錆びた鏡には私の少年時代の顔が映るが、目はすでに私のものではない。『Liber Nautarum Obscurorum』の頁が、風もなくめくれた。
すでに夜は深く、風は北へと流れ始めていた。
Stella Maris――“海の星”。それは誰かを導く光であると同時に、誰かが残す光でもあった。
私は頁を閉じた。
そして私はその“誰か”となった。
灯を灯した瞬間、霧の海が揺れた。光の帯が夜を裂き、遠くの波間に無数の影が浮かんだ。顔のない船乗り、波に揺れる女の肖像、子供の笑い声が響く港町――私が忘れた記憶か、それともこの塔が守ってきた誰かの記憶か。
影たちは光に呼ばれ、静かに塔の方へ漂う。だが、誰も上陸はしない。ただ、遠くで囁く。「ありがとう」と。
私は鏡を見た。そこには、かつての私がいた。だが、目だけは光に満ち、夜の海と同じ色をしていた。
今も、時折語られるという。「霧の夜、どこにも載っていない方角に、光が見えた」と。
ある航海者は言った。
「灯だった。たしかに、灯だった。誰かがそこにいて、私を見つけてくれた。だが」 「――戻ってみれば、その島も、灯台も、海図には存在しない」
人々はそれを幻だという。
だが幻にしては、あまりに温かかったと、誰もが口を揃える。
今、あなたがこの記録を読むのならばーーもし、夜の海で道を見失ったならば。
Stella Maris の名を、どうか、ひとときだけでも思い出してほしい。
その灯が、あなたを照らすかもしれない。
今も、時折語られるという。
「霧の夜、どこにも載っていない方角に、光が見えた」と。
人々はそれを幻だという。 今、あなたがこの記録を読むのならば――もし、夜の海で道を見失ったならば。
Stella Maris の名を、どうか、ひとときだけでも思い出してほしい。その灯が、あなたを照らすかもしれない。
私の名は消えた。だが、Stella Marisの光は、霧の彼方で名なき者を待つ。私はその光となったともいえる。
【付記:Stella Maris について】
十九世紀の神秘学文献『Liber Nautarum Obscurorum(暗き船乗りの書)』によれば、「海の星」は死者の魂を導く灯であり、航海の果てに現れる幻塔であるという。記憶と灯の一致は、ルネサンス期の記憶術にも通じる。
この記録自体、ある亡き編集者の遺品から発見されたとされるが、彼の名も、所属も、いまや不明である。
灯は記憶を喰らう 古木しき @furukishiki
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