第9話

影の手が、ミラへ触れようとした瞬間——

レオンは反射的に前へ出ようとした。

だがミラが、レオンの手をそっとつかんで止めた。

「……待って、レオン。これは……私が、見なきゃいけないものかもしれない」

影の指先がミラの胸元に触れる。

刹那──

光の波紋が、ミラの意識を包んだ。

身体がふっと浮き、世界が色を失う。

レオンの声が遠ざかる。

『ミラ……ミラ!』

しかし鼓膜より深いところで、別の声が響き始めた。

──ミラ。戻ってきて。

──あなたは、“ここ”にいた。

ミラは気づいた。

自分は反転塔の広場ではなく、

白い空間の中に浮かんでいる。

「……ここは、どこ?」

淡い光が集まり、ひとつの“影の姿”を形作る。

さっきの影とは違い、輪郭は柔らかく、人の温度を感じる。

「あなた……誰?」

影は静かに首を振った。

──私は“あなたの残響”。

──失われたあなたの記憶がつくった、最後の記録。

ミラの心臓が大きく脈打つ。

「私……ここで何をしてたの?」

影はゆっくりと右手をかざす。

ミラの周囲に、光の断片が浮かび上がった。

瓦礫の街。

青白い空。

崩れゆく塔。

そして──

研究室の中で、誰かと並んで笑う自分。

ミラは息を呑む。

「これ……私……?」

影は答える。

──あなたは“創られた”のではない。

──消えゆく世界を前に、自分で自分を“残した”の。

「残した……?」

胸が熱くなる。

影の語りが続く。

──第3層が崩壊したあの日。

あなたは、塔を支えるために“中枢”と同期した。

その代償で、肉体も記憶も失った。

けれど、あなたは……自分の心だけは残そうとした。

ミラの視界が揺れる。

「じゃあ……私は……ここで死んだっていうの?」

影は首を横に振る。

──違う。

──あなたは今も“生きている”。

──けれど、記憶のないあなたを守るため、私は必要以上の情報を封じていた。

「守る……?」

──真実を知れば、あなたの精神は壊れてしまう。

──でも今は違う。

──あなたには、レオンがいる。

ミラの胸に、何かがあふれた。

温かくて、苦しくて、懐かしい感情。

影が告げる。

──だから、これを返すね。

影の胸から光の結晶が生まれ、

ミラの胸の奥へ吸い込まれていく。

その瞬間——

ミラの脳裏に、名前のない、多くの顔が流れ込んだ。

共に過ごした時間。

失われた日々。

誰かを救おうとした自分自身。

そして最後に──

影の声が優しく響いた。

──大丈夫。

──“今のあなた”は、もう迷わない。

光が弾け、世界が戻る。

ミラはレオンに支えられながら、膝をついた。

「ミラ! 戻ってきたか!?」

ミラはゆっくりと顔を上げた。

瞳には、先ほどまでなかった深い光が宿っていた。

「……レオン。私、少しだけ……思い出したよ」

レオンは息を呑んだ。

ミラは続ける。

「私、昔……誰かを救おうとしてた。ここの世界を守ろうとして……その途中で……」

言葉はまだ途切れ途切れだ。

でも、たしかに前へ進んでいる。

レオンは優しく微笑んだ。

「全部思い出すまで、一緒に行くさ。どんな真実でもな」

ミラは小さく頷き、レオンの手を握った。

──そして、彼女の中で閉ざされていた扉は確実にひらきはじめた。

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