第3話 : 視線追跡テスト(唇事件)

 心拍実験の地獄(二十センチ)が終わり、ようやく俺は解放された──はずだった。


「次、視線追跡テストを行う」


「いや続くの!? 休憩とか挟まない!?」


「時間がない。文化祭までに“恋愛行動のデータ”を揃えるには、今日中に三項目は必要」


「誰がそんな研究計画立てたの?」


「私」


 ですよねー。


 あやは白衣の袖を少し直し、壁際のモニターの前に立った。

 肩の黒髪がさらりと揺れて、さっきまで息が乱れていた気配はほとんど消えている。


(こういう切り替え早いとこ、ずるいよな……)


 俺が疲れ果てているのを尻目に、あやは淡々とスイッチを入れる。


 画面が明るくなり、映し出されたのは──


「……なんで、お前の写真?」


 そこには、黒羽あや本人が写っていた。

 白衣姿で、薬品棚の前に立っている、どこか資料写真みたいな一枚。


「“異性への視線分布”を見るためには、被験者が反応しやすい対象が必要。

 学校で一番反応率が高いのは、たぶん私」


「自分で言うなよ!」


「事実の推測。自惚れではない」


(いや、ちょっとは自覚していいと思うけど……)


「では、視線追跡テストを開始する」


 あやはそう言うと、俺のこめかみに小さなセンサーを貼った。

 角度を微調整する指先が、やっぱり冷たくて、また心臓が嫌な仕事を始める。


「目線の動きを取得。視線がどこに集中したか、数値化して解析する」


「え、俺の視線ってそんな丸裸にされるの?」


「すでに心拍は丸裸にした。次は視線」


「その説明の仕方やめろ!」


 あやはモニターの前に立ち、軽く頷いた。


「では、安藤。画面を見て」


「……はいはい」


 写真は全身が映っていて、顔、目、髪、首元──見ようと思えばどこでも見られる。


 でも、妙に緊張する。


(こういうとき、どこ見れば正解なんだ……?

 目? いやガン見は違う気がする。顔全体? それもなんか“意識してます”って感じだし……)


 視線がふらふら迷った瞬間──


 写真の“唇”が、わずかに光を反射しているのが目に入った。


(……あ、なんか光って──)


 その一瞬だった。


 俺の視線が“唇”に止まり、

 画面端の視線マーカーがピタッとその部分に吸い付く。


 ピッ──。


 静かな電子音。


 そして──


 黒羽あやがフリーズした。


「……」


「……あれ? 黒羽さん?」


 あやはモニターを見て固まったまま、目だけがゆっくり俺の顔へと向く。


 無言。


 そして、ゆっくり口を開いた。


「……そこ、そんなに見る必要ある?」


「い、いや違う! 今のはその……光ってたから!」


「唇が?」


「言わせんなよ!?」


 あやの耳が、めちゃくちゃ赤い。


 白衣の襟元まで、ほんのり色づいている。


 ……これ、完全に照れてるやつでは?


「で、でも、ほら……その、視線は自然な……反射的な……」


「反射的に“唇”を?」


「誘導すんなって!!」


 あやは咳払いで誤魔化そうとするが、耳の赤みは隠せない。

 彼女はそそくさとノートを開き、シャープペンを走らせる。


『被験者A、写真の“唇”に視線集中。注視時間0.82秒。

 ……理由は要検証(※聞かない)』


「注釈に人格出てるぞ!」


「うるさい。これは科学的配慮」


「どこがだよ!」


 あやはノートを閉じると、わざとらしく無表情に戻る。


「……まあ、そういうこともある。人間だし」


「お前もさっき言ってたな、それ……」


「事実だから」


 ほんの一瞬、彼女の視線が俺の方に寄った。

 その目が、いつもよりわずかに柔らかかった。


「安藤。

 さっき“唇”を見たとき……心拍が少し上がった」


「実況やめろって言ってんだろ!」


「データのため」


 彼女はいつものセリフでまとめようとしたが──

 その唇が、ほんの少しだけ、わずかに震えていた。


 緊張か。

 照れか。


 あやは深く息を吸い、ポケットにノートをしまった。


「……次の実験は、明日。今日はこれで終わり」


「え、もう?」


「理解したことがあるから」


 あやは俺の方を見ず、小さく呟く。


「視線データは……心拍データより、嘘をつけない」


「?」


 俺が聞き返そうとした瞬間、あやは言葉を遮った。


「帰って」


「なんで!?」


「こっちの心拍が乱れると、データが汚れる」


「いやお前も乱れるんかい!」


 あやは白衣のポケットをぎゅっと握りしめ、耳の赤さを隠すように少し俯く。


 その姿は、さっきの二十センチのときよりよほど“女子”らしく見えて。


(……なんだよそれ。ずるいじゃん)


 胸が、また一拍強く鳴る。


 あやの“恋の芽”が、確かに動いたのを俺は感じた。


 ──気づいたのは、本人より先だったけど。

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