第2話 : 初めての心拍実験──至近距離20cm
ピピッ、ピピピッ、ピピピピッ──。
距離三十センチ。
あやが一歩踏み出したところから、心拍計の電子音は騒がしいままだった。
白衣の裾が膝に触れそうな距離。
互いの吐息が、かすかに混ざる。
(いや、どう考えても近すぎだろ……)
俺が心の中で悲鳴を上げていると、あやがわざとらしいくらい真面目な顔で咳払いをした。
「……ここからが本番。ちゃんと手順どおりにやる」
「本番とか言うな。余計ドキドキするだろ」
「静かに。実験手順を読み上げる」
そう言って、彼女は教壇の先生みたいな口調でノートを開いた。
「実験第一段階。距離三十センチ地点における、被験者Aの心拍および呼吸数の安定状態を記録」
「安定してねぇからな? さっきからずっと騒がしいぞ、俺の心臓」
「第二段階。センサー調整を兼ねて、距離二十センチまで接近。
その際、被験者Aの視線と心拍の変化を重点的に観察」
「ちょっと待て。今“二十センチ”って言ったよな!?」
「重要だから二回言う。距離二十センチまで接近」
「復唱すんな!!」
声が裏返った俺を無視して、あやはさらに読み進める。
「第三段階。“揺れ”の有無を確認。
被験者Aの心拍リズムが一定でなくなったタイミングと、そのときの視線・表情・呼吸を記録」
「ちょっと怖い用語なんだけど、“揺れ”って」
「今、私が恋愛用語として定義した」
「勝手に新しい学問立ち上げないでくれ!」
俺のツッコミに、あやの口元が一瞬だけ、ぴく、と震えた。
笑いを堪えているのか、単に緊張しているのかはわからない。
でも、その耳たぶはさっきより少し赤い。
「……では、第二段階に移行」
あやが小さく息を吸い込む。
床のテープ。三十センチの印から、ほんの少し前へ──
コツ、と靴音が一つ。
視界が、一気にあやで埋め尽くされる。
距離、二十五センチ。
(近っ……!)
さっきまで「近い」と思っていた三十センチが、一気に安全圏に思えるレベル。
睫毛の影、メガネの奥の瞳、首筋のライン。全部が、必要以上に目に入ってくる。
ピピッ、ピピピッ、ピピピピッ──。
電子音のリズムが、さっきより明らかに速い。
「被験者A、心拍数、九十台に突入。やっぱり“距離効果”大きい」
「実況すんなって! 余計ドキドキするから!」
「データのため」
むしろその台詞が一番心拍に悪い。
あやはノートを持つ手を少し強く握ってから、さらに半歩踏み込んだ。
コツ。
今度こそ、本当に鼻先が触れそうな距離まで。
距離、二十センチ。
互いの吐息が、はっきり分かる。
蛍光灯の光がレンズに反射して、彼女の黒い瞳の中で揺れた。
「……っ」
あやの肩が、ぴたりと固まる。
ページをめくる音も、ペンの走る音も止まった。
ただ心拍計だけが、ピピピピピッと鳴り続ける。
(固まった……? いや、固まるよな、これ)
「ち、近すぎるって!」
堪らず叫んだ途端、モニターの数字が弾けるように跳ね上がった。
百、百五、百十──グラフの波形が大きく揺れる。
「うわ、機械までパニック起こしてない!?」
「……すごい」
あやがぽつりと呟く。
さっきまで固まっていたのが嘘みたいに、今度は一気に早口になった。
「さっきまでとは明らかに違うパターン。“揺れ”が出てる……恋愛行動に近い心拍変動……!」
「人を実験素材扱いしながら恋愛って言うな!!」
あやはモニターと俺の顔を忙しなく行き来しながら、ノートにカリカリとペンを走らせる。
科学者の目と、ただの女子高生の目。その二つが、ぎこちなくせめぎ合っているみたいだ。
「その距離で図鑑みたいな目をするなよ……!」
「……必要。データのため」
彼女はそう言いながら、胸元のセンサーをちょん、と指で押さえる。
その指先が、微妙に震えていた。
(……こいつ、俺より緊張してないか?)
そう思った瞬間、また心拍計の数字が跳ねた。
ピピピピピッ。
「黒羽、お前さ……顔、めっちゃ赤いけど?」
「これは蛍光灯の反射」
「そんな物理現象ないからな!?」
「ある。今、私がそういう現象として論文化した」
「お前の脳内学会万能すぎるだろ!」
俺がツッコむたびに、あやの口元がぴくぴく震える。
笑いそうなのか、緊張を誤魔化してるのか。
どちらにしても、心拍計はまだうるさい。
「……よし。センサー調整、完了。
距離二十センチにおける“揺れ”データ、十分取れた」
あやが、そろそろと一歩下がる。
距離が三十センチに戻っただけで、さっきまで張り詰めていた空気が少しゆるむ。
「はぁぁぁ……生き返る……」
俺は固定されたまま、肩で息をする。
「なぁ。お前も、ちょっと息荒くない?」
「……機械の熱のせい」
「どんなサウナ機能付き装置だよ、それ」
「それに──」
あやは一度言葉を切り、俺の胸元のセンサーに視線を落とす。
それから、ほんの少しだけ目を伏せて、ぽつりとこぼした。
「私だって、人間だから」
その一言に、今度は俺の心拍が跳ねた。
ピピッ。
「ほら、固定外す」
カチ、カチと金属音がして、拘束具が外れる。
自由になった腕をぶんぶん振りながら、俺は肩を回した。
「なぁ黒羽。さっきの二十センチのときさ──」
「データの整理があるから、帰っていい」
「話最後まで聞けよ!」
「そのうち、続きをちゃんとやる。……今日のは、ほんの“予備実験”だから」
あやはモニターとノートを交互に見ながら、真剣な顔でペンを走らせる。
さっきまでの赤みが少し残る横顔が、妙に目に焼き付いた。
「……今日の分だけでも、だいぶ心臓削られたけどな」
ぼそっと漏らすと、あやが手を止める。
「でも、安藤じゃないとダメ」
「え?」
「この反応は、他の誰かじゃ出せないと思う。
だから──文化祭まで、被験者Aとして協力して」
最後の「して」が、ほんの少しだけ、普通の女子っぽい声色だった。
俺は思わず視線を逸らす。
(俺じゃないと、ダメ……?)
胸の奥で、さっきとは違う種類の“揺れ”が起こる。
「……検討します」
「強制参加。もうデータ取ってるし」
「人権はどこいった!?」
そんなやりとりをしていると、心拍計の電源がストンと落ちた。
蛍光灯の白い明かりと、薬品の匂い。
その真ん中で、俺と黒羽あやの“距離ゼロ実験”は、まだ始まったばかりだ。
あやはノートの片隅に、小さな字でこう書き込んでいた。
『距離二十センチで、被験者Aの心拍に顕著な“揺れ”。
同時に、観測者(私)の心拍にも乱れあり。原因は要検証』
その一文は、誰にも見られない場所で、そっと閉じられる。
──俺の高校生活は、白衣のツンデレ理系女子と一緒に、
“恋愛の揺れ”を数字で証明するコースに乗っかってしまったらしい。
まだ、ちゃんと自覚はしていないけれど。
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