第8話

「おい、起きろ。何があった」

 目を開けるとノラの顔があった。鉄砲水の影響か照明は消えてしまったようで、懐中電灯の明かりに浮かび上がるその顔は糞まみれの俺と違って綺麗な顔だった。鉄砲水が流れた後にやってきたのだろう。いつの間か手当までしてくれたらしく俺の腹には焦げ茶色に染まり糞便が付着した包帯が巻かれていた。

 禁酒薬を飲んだ後に酒を飲んだときのようなあるいは死期が近そうな気がする朦朧とした意識の中で俺は経緯を説明する。説明を終えると、少し離れた場所に少年が立っていることに気がついた。

 俺は糞の味と香りがする本物の糞の浮いた増量中糞スープの中に何度も倒れ込みながら、立ち上がり尋ねた。

「あの子は?」

「お前が気にかけていた佐々村サシャだ。お前が来ると思って連れてきたが、彼はお前に心当たりはないと言っているぞ」

「そうか」

 幼い顔つきの十四歳の少年は悪臭に耐えられないのか両手で鼻と口を塞いで涙目だった。

「何年か前に手術を受けたことが?」

 俺の問いかけに少年は不思議そうな表情を浮かべ、頷き、「何の手術かは知らないけど」と言った。

「そうか、それは辛かったな」

「別に、すぐ帰れたし」

「両親はいるか?」

「父さんは働きに出てて、母さんは家にいるよ」それが? という顔だった。

「今の暮らしは楽しい?」

「……まぁ、友達いるし」思春期の子供らしい反応だ。ノラは怪訝そうな顔で俺たちのやり取りを見ていた。

 他にも聞きたいことや言いたいことがあった気がするが、それ以上何も出てはこなかった。血が出すぎているせいかもしれなかったし、そもそも最初から伝えるべきことなど何もなかったのかもしれなかった。せっかくもらった腎臓を撃たれて傷つけてしまったことを謝ろうかと思ったが、よく考えると俺は自分の腎臓がどこにあるかも知らなかった。

 俺と一緒に流されてきたツルハシが落ちていた。糞がこびりついた持ち手を掴む。重かった。ただこの先のことを考えなくて良いのだと思うと不思議とツルハシが軽くなるような感覚があった。

 佐々村サシャを離れさせると、ツルハシを振り上げ、下水管の側面を目掛けて思い切り振り下ろした。火花が散り、俺の血と混じりあった糞の汚泥が美しく浮かび上がった。

 腹の痛みを堪え再びツルハシを振り上げながら、俺はまた自分が何をしようとしているか考えた。糞の渦を浮遊していたときよりも深く、そのことを考えようとした。俺は幼い恩人を助けたいだけなのだろうか。それも真実だ。だがきっとそれだけじゃない。俺はもっと善く生きたかったし誰かに認めてほしかった。褒められたかった。本当は家族で幸せに、平穏に暮らしたかった。こんな糞以下の世界に反抗してやりたかった。だが空っぽでどん詰まりの俺は最早どこにも行き着くことはできなかった。それなら俺は命に代えても今日まで俺を生きながらえさせてくれた少年を救いたかった。俺は俺のために他人を救うのだ。俺は自分勝手な人間だから、結局最後まで他人のことより自分優先の糞人間だった。

 ツルハシを振り下ろす。下水管に窪みができたのを確認して、もう一度振り上げる。

「もうやめろ、血が出すぎている」

 ノラが邪魔しようとするが俺は穴を掘るのをやめない。糞尿はあるべき場所へ流さないといけない。そうすることで彼らが生きるこんな糞世界も糞塗れの俺も少しは公正で清潔なあるべき姿に近づけるもしれない。

 ツルハシを振り上げ、振り下ろす。火花が散る。もう一度振り上げ、振り下ろす。火花が散る。下水管には来るべきときが来るまでその光が瞬くのだろう。そして後にはきっと、糞と尿だけが残るのだ。

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Fun,Nyo,Tan. 社川 荘太郎 @s_shagawa

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