プリーズ
能登
本編
「お願いします!身を隠させてください!」
それは女の声だった。視覚よりも先に聴覚が反応した。目を顔に向けると、それは凛々しい顔の女だった。前髪はしつこく額に張り付き、その他大勢の髪の毛も前髪と同じように雨の酷さを主張していた。
男は驚いていた。なにせ日を跨いでいるかいないかという時間帯にドアをドンドン叩かれるものだからそれはもう身体中の毛を逆立てて驚いた。そしてドアを開けると雨に濡れた女が必死に中に入れろと訴えかけていて、しかし男は何も言えずに女を迎え入れてしまった。
フローリングに水玉模様を作りながら、女が部屋に入っていった。雨の音と女の呼吸音とが混じりあって騒然としている。男はひとしきり外の様子を追っ手に警戒する暗殺者のように伺った後、ドアを閉め女の元に向かった。
女は形式的に、いちおうといったかたちで座っていた。男に気づくと口を開いたかと思うと、すぐにつぐんだ。女は大きなフードのついた紺色のパーカーに、身の丈に合わないウォッシュ加工の施された大きなジーンズを履いていた。走ってここまで来たのだろう。靴のかかとでジーンズを踏んだのか裾を酷く濡らしている。時計の針だけがこの場で進み続け、秒針が半周ほどしたかと思われる頃合いで、女が口を開いた。
「まずはごめんなさい。いきなり押しかけてしまって。」
女は右手で左手の親指を握りながら続ける。
「元彼に追いかけられていたんです」
そうか、と男は言った。特にかけてやる言葉も無かったのだろう。男は白湯とタオルを女に渡してやった。ズズズズ、と、女は義務的に熱湯を流し込んだ。タオルで髪をわしわしと揉んで拭き、ひととおり拭き終わるとそれを首にかけた。
ピンポーン。とチャイムが鳴った。いちおう男の住むアパートにチャイムはあるのだ。女はそれを聞きたじろいだ。手を肘から肩へゆっくり滑らせて、膝は玄関から反対の窓の方に揃えて向けた。目線は部屋の中をさまよっている。
男はドアスコープを覗いた。帽子を被った男が二人。一人はメガネをかけた長身で、もう一人は小太りで髭を生やしている。二人とも手には何も持っていない。群青色の衣服と特徴的な帽子から、警察官だと気づくまでにそれほど時間はかからなかった。ドアチェーンをかけてからドアを開け、どうしたのか尋ねる。
「夜分遅くに突然すみませんね。ええーっと、このあたりで怪しい女を目撃しませんでしたか。もしくは尋ねてこなかったか。大きなフードのパーカーにジーンズを履いている女です。聞きたいのはそれだけなんですが。」
男はドアチェーンを外し、そんな者は訪ねてきていないと伝えようとすると頭部に衝撃が走った。一瞬視界が回転する。男が振り向くと先程手渡したマグカップを持った女がいた。呼吸が荒く目は血走っている。
「危ない!下がって!」
咄嗟に警官が男の服を掴んで引っ張る。眼鏡をかけた方の警官が男の前に出る。またしても女の呼吸音と雨音が入り乱れている。
「それを下ろすんだ!」
女が警官に襲いかかる。警官と女が取っ組み合いになる。
「離せ!うぁぁああ!うああああああ!」
先程までとはうってかわって狂乱的で恐々とした声が響いている。女から平常心は失われている。眼鏡の警官も女の腕を抑えるのに必死なようだ。
小太りの警官は男にそこにいろとだけ言い残して女のもとに向かった。律儀にドアまで閉めていった。それでも部屋からは人間同士が取っ組みあっているだろう物音が聞こえてきた。
男はドアに耳をあてた。雨の音でよく聞こえないが、体が壁にぶつかったような音や、警官の怒号らしき声が聞こえる。
一分ほど経つと音は聞こえなくなった。男はポケットに入っている鉛筆を握り、部屋に入った。一歩一歩音を殺して歩みを進める。しかし、部屋に人影はなかった。開いた窓から雨風がびゅうびゅうと部屋に入り込んでいた。
男は部屋の中をじっくり見回してみた。争いの痕跡は無く、部屋はいつも通り整然としていて、あるべきものがあるべき場所に配置されて──いなかった。机の方に目をやると男のノートパソコンがなくなっていた。充電コードに繋いでおいたはずのワイヤレスイヤホンもケースごと無くなっていた。本棚からは男がいつも使っていた分厚い国語辞典が姿を消していた。男はようやく、これが緻密に計算された計画的な窃盗だと気づいた。そして女の臭いセリフにも納得した。
男はおもむろに襖を開けた。そこに配置した時と同じように、それは毛布を被っていた。男は毛布をめくった。ぱっちり開いた目が男を出迎えた。男は安堵した。冷たくなった顔をさらりと撫でてわざとらしい笑顔を作ると、スマートフォンを取りだして適当なノートパソコンとワイヤレスイヤホン、国語辞典をネットショッピングで注文した。
プリーズ 能登 @Notmy
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