第9話 久しぶり
「ナベ、来たよ!!」
唯子ちゃんが奥の部屋に隠れたのを確認してから、ドアを引いて、二人が先に事務所に入るように促す。
狭いわね、と小言を漏らしていたが、聞かなかったことにしよう。
「こんにちは、せいちゃんのママです」
「はじめまして。この度はうちの事務所の者が無礼を働いてしまったようで、申し訳ないです」
客人向けの笑顔で取り繕った渡辺先輩は、この強烈なオーラを放っているお母さんに対して、一ミリも臆していないようだった。頼もしすぎる。
「ここに来たのは良いんだけれど、私はあまり賛成していません。あなたたちの活動が有益なものであるとか、社会貢献した実績の書かれた資料を見せてもらってもいいかしら」
「そう……ですね。資料をお持ちするので、少々お待ちいただいてもよろしいですか?」
「ええ、一時間以内に帰りたいから、早めにお願い」
「分かりました」
渡辺先輩の手が震えているのが見えた。失敗したら伊藤くんにとってもマイナスだ。この人も怖くないんじゃなくて、そう嘘をついているだけ。全員が、今考えている。
うちの事務所に実績なんてない。どうやってこの嘘を本当にしようというのか。
「あら、見当たらないわね。ちょっと鈴木。昨日片づけあなただってしょう? どこにやったの」
「え!? そ、そうですね。どこにやったかなぁ」
渡辺先輩がじっと見つめてくる。何かを訴えていることは分かるが、何を訴えているのかが分からない。終わりだ!!
「……もしかして、あっちの資料保管部屋に置いたの? あれはお客様に見せられないものだけを保管するのよ。ちょっと、来なさい! すみません、この子まだ入りたてで数回しか事務所に来てなくて」
「そう。あなたはしっかりしていそうで安心だわ」
「ありがとうございます。少々お待ちくださーい……ちょっと、合図出したのになんで動かないのよ」
ドアを閉めると、渡辺先輩は小声で抗議してくる。仕方ないじゃないか。
「あなた、幻覚を見せられるんでしょう? 適当に渡したチラシでもいいのよね。これを持っていきがてら、お母さんに幻覚を見せましょう」
渡辺先輩が手に持っていたのは、地域で開かれるイベントのチラシだった。もしバレたら大変なことになるが、それ以外に方法も思いつかない。
「こんなの無理に決まってます」
「やってもらってもいいかしら」
「はいっ!! 任せちゃってください!!」
私にしか出来ないことだ。それなら、断るなんて選択肢はない。成功したらみんな褒めてくれるだろうか。想像しただけで、自分が必要な人間な気がして嬉しくなる。
「伊藤くんのお母さんに、このチラシが私たちの作った事務所のチラシに見えるようにしてください。効果は、三日!」
ドア越しに願い事を唱えるが、面と向かってもいないし、距離もある。三日のつもりでやっても一日耐えられるか不安だ。
伊藤くんには、帰宅後すぐに回収してもらおう。
「あたしから見たらただのチラシだけど……早く戻りましょう!!」
「お待たせしました。これが資料です。この事務所は設立から一年も立っていませんが、これほどの実績を残しています」
自信はないけど、大丈夫なはずだ。恐る恐る差し出すと、訝し気な顔をしたお母さんがひったくるようにして受け取る。
「……確かに、これなら将来医者になったとして役に立つかもしれないわ。人としても高く評価されそうね」
まんざらでもなさそうな反応をして、チラシと伊藤くんを見比べている。そして、何かを決意したかのように「よし!」と頷いた。
「分かった。それならせいちゃんがここに来る時はママも一緒に参加させてもらいます!」
「え、ママ?」
「せいちゃんも嬉しいわよね!」
素晴らしい案だとでも言うように、今度はお母さんが目を輝かせている。まずい、毎回参加なんてされたら、このチラシが嘘だとバレる。それどころか、伊藤くんに自由な時間を作るという当初の目的が達成できない。
一旦、止めないと。そっと隣にいる渡辺先輩の顔色を窺うと、片方の口角を上げて、顔を引きつらせていた。想像していたより手強かったのだろう。深呼吸をして落ち着こうとしているのが分かった。
「契約とかあるのかしら? 今もうサインして行っちゃ——」
「ねえ、青龍くんのお母様。これはあたし個人の考えなのだけれど……。あたしもお父さんと生き別れて女手一つで育てられたの。いつもママは一人で頑張って大切にしてくれてたから、気持ちがよく分かるわ。だからこそ、青龍くんをもう少し信頼してみたらどうかしら」
お母さんは、契約書とペンを催促するために先輩に向かって手を出していた。
渡辺先輩はその手を取って、両手でギュッと握りしめている。またお得意の嘘なのだろうか。それにしては、今回は迫真過ぎる。
「……それなら分かるでしょ。私にとってこの子は全てなの。私からこの子を奪うなら、私がこれまでにかけた時間と労力を私に払って!!!」
「お母さんも、きっと精神科に言った方が良いわ。病気だからじゃなくて、あなたの話を聞いてくれる人が必要なの。子どもは親の道具でもなければ駒でもない」
「ダメ!! 私のもの!!」
悩む素振りさえ見せず、伊藤くんを抱き寄せる。それは、母親の姿というよりもむしろ、お気に入りのおもちゃを取られたくない子どものような姿だった。
「全然分かってねぇじゃん」
「ほら、帰るわよ。せいちゃん、青龍!!!」
無理やり引っ張って玄関に向かおうとするが、推定百八十センチの大学生になんて力で勝てるわけがない。必死に引っ張るお母さんをよそに、伊藤くんは一向に動こうとしない。
「い、嫌だ!! オレはもう何のために生きていいのか分かんねーんだよ!!」
「どうしたの……あなた、反抗期なんてなかったじゃない!」
「これを反抗期だと思ってんなら終わりだよ。高二まで普通に生活させといて、自由が何か教えるだけ教えたくせに奪っておいてよく母親ヅラ出来るよな。オレはダチと一緒に樺白行きたかったし、部活も生徒会も最後までちゃんとやりたかった!!」
これまでの不満をすべて吐き出すように、声を荒げている。このままだと、毒が暴発する可能性もある。
「ちょっと、せいちゃん!!」
伊藤くんの方を掴んで揺さぶろうとするお母さんを、私と渡辺先輩で引きはがす。
「やばい、これ急激に毒素強まってるんじゃね。アオの母さんも危ないかも」
「青龍くん、ストップ!!」
真っ赤な霧のようなものが伊藤くんに向かって突き進む。
「う゛、いってー!!」
「せいちゃん!! せいちゃんに何をしたの!!」
二人がかりで抑えていたのに、振りほどかれてしまう。当たり前だ。目の前で息子が攻撃されたら、誰だってこうなる。
「これが、愛毒症の恐ろしさですよ。青龍くんも、病気なんです」
「この子が……そんなわけそんなわけないじゃないの!!」
「もう、伊藤を自由にしてあげて」
これまで作業部屋で待機して、盗聴器で様子を窺っていたはずの唯子ちゃんが、いつの間にかお母さんの前に立っていた。
「あなた……!!」
「ほら、伊藤をもう少しだけ自由にしてあげて」
片手で頭を撫でながら、願い事を唱える。これが洗脳か。
「週に二回、一時間だけの活動ならいいわ。門限は二十時。成績が下がったらすぐに抜けさせる。いい?」
「分かった」
まだ違和感が残るのか、苦い顔をしながら伊藤くんも答える。
「ちなみに、今日はちょっとだけ遊んで帰ってもいいよね?」
「……いいわ。怪我しないように気をつけて。生きて帰ってきてね」
「分かった、ありがとう」
「それじゃ、帰るわ」
これまでの勢いが嘘だったかのように、大人しくなって帰ってしまった。本当にこのやり方でよかったのかは分からないが、無事に伊藤くんの自由な時間は確保した。
「……唯子?」
「久しぶり。助けるの遅くなってごめんね。あの時の約束、まだ覚えてるから。唯子も、愛毒士なの」
伊藤くんは特に驚く素振りを見せないどころが、妙に納得した面持ちで唯子ちゃんを見ていた。
きっと、この二人は互いに何かを知っているのだろう。ムリに聞き出す必要はないけど、いざという時の手がかりになりそうだ。
「青龍くん、ごめんね痛くなかった? 痺れだけにして吐き気とか苦しい要素は取り除いたつもりなんだけど」
先輩が駆け寄って、様子を確認している。片膝をついて、手を差し出している。いいな、私にもやって欲しい。
「ああ、全然大丈夫でした。ビックリしたせいで大げさに痛がっちまったんですけど、思ったより痛くなかったっす。あと、暴れかけてすんません」
「むしろ、あの程度で済んだのがすげぇよ。毒だって暴発してなかったし」
「母さんに、感謝してないわけじゃないんで」
それが、余計に苦しいのだろう。本当に嫌いだったら簡単に切り捨てらえるし悲しそうな顔を見ても、むしろ清々しい気持ちになるのかもしれない。
「つーか、オレって天雄さんの家とも唯子の家とも仲悪いってことっすよね? いいんすか、オレみたいなの入れて」
「もちろん。僕らは、家柄と血筋で人を判断したくない。青龍君を見て、助けたいし助けて欲しいと思ったよ」
「……これから、お世話になります」
初めて安堵した様子を見せて、手を差し出している。その手を取って、強く握手していた。
これで、五人目の愛毒士が揃った――。
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